遠き楽園の娘たち3
その夢から覚めた直後に、ハルタカは急激に重力から解放されたのを感じた。
あれ、と無意識に呟いてから、ちゃんとアンダースーツで肌を覆っているのを実感する。VX9どころか船外服すら身に付けていなかったけれど、かと言って水に濡れてもいない。
ただ、こうして呼吸ができているのが不思議だった。今は無重力環境下で、人工光に照らされた暗がりを漂っている。
自分がスプートニカハリオンの内部にいたことを思い出した。あの時よりも視界がずっと鮮明で、ハルタカの周囲は見渡す限りの宇宙だ。
おそらく全天球型の投影スクリーンが外部のカメラ映像を映し出しているのだろう。電子的な文字や図形の羅列がスクリーン上を飛び交っている。
混乱から意識が落ち着き始めて、一つ思い出してから自分の頭を何度もさすった。髪型は何の変哲もなくて、丸い頭の形だけがわかる。
「よかった……あのヘンな羽根、なくなってる」
何を安堵しているのだろう。あれがただの夢だったとして、最後に垣間見たあの姿が、自分の願望か妄想の産物だったとしたら。
「――おかしな夢だったな。麻酔で記憶が混濁しちゃったのか」
自分の声に違和感はない。目覚めてからの方がずっと現実味があり、ささやかだが生の実感というやつを噛みしめられた。
ああいう夢想体験は、漂流時の仮死状態においては珍しくもない症例だ。ただ、あれがただの夢だったとして、最後に垣間見た光景は悲劇を上塗りする悪趣味なものだ。
抱いていた姉の亡骸が、いつの間にか消えていた。代わりに、必死に掴み取っていたものがあった。
握りしめたグローブを開いてみれば、それは半月型をした
思考が追いつく前に、嗚咽が身体の奥から溢れ出た。姉の骨のようなバレッタを胸に抱き、姉の名を呼ぼうにもまともな声にならず喉で泣いた。
慣性のままに委ねていた体がこの空間の壁際までたどり着き、そこに跳ね返って軌道が変わる。外世界を描き出していた全天球スクリーンは、触れれば柔らかい素材でできていた。
直径にして五メートル程度か。精緻な真球そのものの造形をしたこの空間はさながらにコントロールルームで、誰かが知り得たあらゆる情報がひっきりなしに自己主張を繰り返している。ここが思考する迎撃衛星アリス=サットの躯体内部なのだとしても、スプトニカのホログラムはどこにも見当たらない。
――でも、これが動いているということは、やっぱり彼女は無事だったんだ。
少し冷静になれた。あれから何時間くらい経ったのだろう。網膜下端末が損傷した今となっては、時間を知るためにわざわざ時計を探す必要がある。
「……………………ねえ、スプトニカ? どこかにいるの?」
鼻をすすり、恐る恐る呼びかけてみる。ハルタカの声を拾ったらしく、スクリーンの一部に開いた小窓が、自分には解読不能な言語を並べていく。だがそれ以上の反応はない。
と、いかなる仕組みなのか、足もとのスクリーンがぽっかり口を開け、そこから逆さまに人が飛び降りてきた。
無重力慣れしていないのか、頭ではなく尻から潜り込んできたと思えば、
「――――――るぅ――――――ぅぅぅううぅ――」
そんな気の抜けた悲鳴がハルタカの耳元を通り過ぎ、でんぐり返りの姿勢でスクリーンの端に激突していった。
その姿はホログラムではない。物理的に鼻を打って間の抜けた悲鳴を上げ、宙をもがいても姿勢を落ち着かせられない相手を引き寄せてやる。全く面識のない相手とも言い切れなかったから、話すきっかけが欲しかった。
「前にぼくと会ってる……よね? 夢じゃなかった? あれって仮想現実空間だったとか」
銀白の羽根髪を持つ、南国鳥の娘。静謐な輝きを宿す青銀の双眸が、ふしぎな花柄模様を通してハルタカを見つめている。
唖然としているのだろうか。宙に浮かび互いの肩を抱き合う構図になって、前にも似た場面があったことを思い出させる。あれはルリエスとの体験だった。
本質は多分、そういう類のものではないのだろう。これまでの経験が、一つの解を導き出す。
「もしかして、君もアリス=サットなの? ――つまり、ここって君自身の中?」
ASという衛星兵器システムが、人格プログラムに相当する何らかの仕組みを持っていたと仮定して。それがただの
ただ彼女はこちらの視線を受け止めてくれたものの、唇をパクパクと空振りさせ、うまく言葉を発せられないでいた。あの夢か仮想現実空間で会った時と同様に。
そして戸惑うような、苦しげにはにかんだ表情を代わる代わる見せたと思えば、手に持っていた何かをハルタカの口へと強引に突っ込んできた。
「むぐっ―――――何なのコレ?!」
最初は硬くて粉っぽい舌触りがして、それが急に溶けて液状化したみたいな食感に変わる。その奇想天外な食感に、ハルタカは驚いて吐き出してしまった。
「ああっ――――!!」
彼女も慌てた声を上げると、吐き出してしまった液体が漂っていくのを追いかけ、宙でそれにぱくりと噛み付いた。散らばる雫を手のひらでかき集め、勿体なさそうに口腔内へと運ぶ。その仕草が恥ずかしくて、とにかくわけがわからなくて。
彼女が先ほど手放したものが目前を漂っていく。ブロック状に固められた保存食らしい。無味無臭で食べられたものではなかったが、そんなことはお構いなしに腹が鳴った。
この南国鳥の娘は、夢か仮想現実空間で会った時と同じ姿をしていた。頭から生える銀翼も、長い斑模様の髪もそう。
唯一の違いと言えば、彼女が服を身につけている点だ。それは白い蝶の造形を描くワンピース状のパーカーで、スプトニカとの対を連想させる。この娘も同種のASなのだろうか。
「ねえ、ここに食べ物があるってことは、ASも人間みたいな生活をしてるんだ。そっか、エアが供給されてるから呼吸もしてる。なら、肺や消化器官みたいな内臓もあるってことだ。君のほかにもAS……は……?」
見れば、眼前に浮かぶ彼女がどこか膨れたような表情をこちらへと送り付けていたので、これ以上推論を続けにくくなった。
「あの、スプトニカ以外のASと話せたのは初めてなんだ。はしゃぎすぎちゃった……かな」
人間を嫌っているASも多いのだとスプトニカも確か言っていた。ただ食べ物を分けてくれたのだから、少なくとも友好的なはずだ。何か気にくわないことがあってヘソを曲げただけなのかもしれない。
でも言葉が通じないのだから、これ以上どうしろというのだろう。それに不満そうなその目つきが〝るーちゃん〟だった頃のルリエスみたいで、ハルタカを一層戸惑わせる。
だから、このまま核心に触れるのがハルタカには怖かった。
「――君の名前。できれば教えてほしい。他人の空似で通じるような違和感じゃないと思う。君は何ものなの?」
再び彼女の手を取る。それに拒絶する素振りはなく、互いの温もりと感触とが気恥ずかしくて、彼女も強ばっていた表情を幾分和らげてくれた。
「夢の中で、君はぼくの名前を呼んだ。それに、君も名前を名乗ってくれた気がした」
包み込んでいた手のひらを広げると、やはり左の薬指に金属の輪っかがあった。
ただそれは姉と交換したあの指輪ではなく、そこだけ皮膚そのものが金属質になっているだけだった。宙を広がっていく髪も、姉のとは違うにおいがした。
「そうだ、名前! ぼくはハルタカ。あの時のことって覚えてる? ハル、と呼ぶ人もいる。ぼくの言葉はわかるよね?」
彼女は表情をころころと変えるが、そのどれもが戸惑いや焦りを訴えようとしているのだとわかる。
「……ああ、ごめん、やっぱりぼくの勘違いだ……。当たり前だ。ルリ姉のはずない……」
何を勝手な期待していたのだと、自分の浅はかさに落胆するしかなかった。
代わりにハルタカの疑問に答えたのは、コントロールルームの方だった。無数の小窓が立体的に展開してきて、ハルタカの伝えた言葉が何重かの言語に解釈されていく様を伝える。
「――――――る~……? るる……」
すると彼女が意味不明な音を吐いた。やはり、その声だって姉と似ていない無邪気なものだ。
「るる……りえすはりお、ン……」
先ほどハルタカがしたのと同じように、自分のことだと手で胸元を示して、たどたどしい発音ながら一文字ずつ読み上げていく。
それが何を意味するものなのか最初はわからなくて、周囲をせめぎ合う小窓たちの一つが、ようやく真実をハルタカへと突き付ける。
個体識別名称〝ルリエスハリオン・トゥエルヴスプローラ〟と。
見知った共用語の文字列で、彼女のコントロールルーム自らがそう名乗ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます