遠き楽園の娘たち2

 目が覚めて一番最初の感触――それが温かい毛布じゃなくずぶ濡れだなんて最悪だ。

 意識を取り戻した瞬間、ぼくは急にむせ返って、呼吸しようにも口や鼻にまで水が入り込んできた。気が動転して、ただひたすらにもがいてしまう。その後で足が水底に付きそうなくらい浅かったのがわかって、呆然と水面から顔を出していた。

 口に溜まった埃っぽい水を一旦吐き出す。

 〈群島〉どころかアガルタにだってこんな水場はなかったはずなのに。とにかくわけがわからなくて、浅瀬になっているところまで死にものぐるいでたどり着く。手で掴んだ水底は何だか固くて、大水槽広場の模造芝生か何かみたいにチクチクした。

 岸辺に上半身だけ上がって、ぼくはそこで力尽きて突っ伏した。

 数度むせ返って呼吸が落ち着いた途端、鼻腔に飛び込んできたのはこれまで嗅いだことがないような猛烈な水と草葉のにおい。そして自分の肌を刺す、不思議な感触。


「――……………………なに……これ…………」


 今、理解のまったく及ばない光景がぼくの視界を埋め尽くしている。

 ざぁ、と耳を打つ飛沫の斉唱。無数の水滴が空から降り注いでいる。濡れそぼったぼくを雫が伝い、振り返れば足もとの水面で波紋を返している。

 ぼく自身が裸だったのも、背や腿で弾ける水滴が教えてくれた。でも、肌に張り付く下着すらないのは一体どういうことだろう。他に誰もいないとはいえ、反射的に上体を隠す。ただ下はどうにもならなくて、その場にしゃがみ込むしかない。


「…………この水…………雨、なのか……?」


 ぼくは雨を知らなかった。それどころか、今や気象変動を体験した人間は生き残っていない。

 頭の中が真っ白になったまま顔を上げれば、周囲は一面の緑で覆われ、平らな大地が視界の果てまで続いているのがわかる。ぼくが溺れそうになっていたのは大きな水場だ。まだ意識が朦朧としているけど、少なくともぼくがたどり着ける場所にこんなものが残っているはずない。

 ハッとして天井を仰ぐ。意識がそこに至って、ようやくこれが悪い夢か何かなのだと悟る。視野の果てまで続く大草原と泉――その地平を越えた空の領域が、ぼくの想像し得るものを凌駕した光景だったからだ。

 この大草原の空は、すなわち地球そのものだった。フューチャーマテリアルの銀色で覆われる以前の、蒼い表層をした惑星。それも、空そのものを埋め尽くすほど近い距離に見えた。この大草原と互いに地平を共有しているかの有様だ。


「――いや、こんなのあり得ない。地球が青いはずがない。それに、この距離だとすでに大気層の中にいることになる」


 つまりは、ぼくが見ているこれが現実ではない証拠に違いない。

 よくよく観察してみれば、空のそこかしこがひび入ったかのように、真っ黒な隙間が口を開けていた。それは隙間と言うよりも、故障して画素の欠けた網膜スクリーンみたいだ。隙間から滾々と湧き出てくる水が、霧雨となって草原へと降り注いでいる。雨雲はなく、この明るい世界の空は不可思議な欠損で埋め尽くされていた。

 と、急に風が冷たくそよいで、肌寒さにくしゃみが出そうになった。


「――――――――ひっくちッ!」


 待って、今のはぼくのやつじゃない。身の危険を覚えて後ずされば、いつからそこにいたのか、傍らにうずくまるもうひとり。

 緑が繁茂するさなかに浮き立つほどの、生白い肌をしたひと。細くくびれた腰。可憐なアールに背をしならせ、すごく長い髪が濡れて張り付いている。すくめた肩に顔を俯かせ、上体を起こすと丸い乳房が艶めかしく揺れた。

 どう見ても女性だ――それも全裸の。

 彼女がぼくに気づいて、至近距離で交差する視線にお互い硬直した。


「うわあああああぁぁぁぁ――――――――――」


 あまりの驚愕的対面に、ぼくも悲鳴をこらえられなかった。


「――――――――――ぁああ………………あれ?」


 両者刮目して、互いにびっくりして大口を開け、なのにぼくだけひとり馬鹿みたいに取り乱して大絶叫していた。途中から恥ずかしくなって歯止めがかかる。

 そもそもどうしてこの間合いなのか。ぼくに寄り添うような距離で、この子はぽかんと口を開けたままぼくを見つめ、身じろぎひとつしない。

 ただ、いま視線を外すのは危険だ。誤って下でも向いてみろ、見てはいけないものが見えてしまう。

 そもそも女の子とこんなにも近いのは慣れていなかったのだ。年ごろはぼくと同じくらいだろうか。いや、そういえば慣れていないわけでもなかったのかも?

 とにかく、見たこともない雰囲気の子だった。

 まずルリ姉あたりと比べてもうんと長い髪の毛。そのおかげで裸が隠れてくれたけれど、色の方もなんだか現実離れしている。銀白色セラミックホワイトに朱が混じった斑模様。青銀クロムの虹彩内をくるくると回っている花冠模様。こんな容姿をした人間なんているわけがないのに、驚くわけでもなく無防備にぼくを見据えてくる。

 そんなこの子が雫のしたたる前髪を払いのけた瞬間、ぼくは思いもよらなかった名前をつぶやいていた。


「…………えっ…………ルリ……ねえ……?」


 鬱蒼とした前髪から解放された額を見て、この子にルリ姉の面影みたいな何かを垣間見てしまったからだ。

 上目づかいで前髪をいじる仕草。瞼が描く稜線。うっかり隙を見せると、途端に威圧感が消えうせる子どもっぽい瞳。


「……いや、こんなのってないよ。初めて会うひとなのに。ルリ姉に見えただなんて、絶対にぼくのがどうかしてる」


 この子はこの子で思考がオーバーフローしてしまったみたいな素振りで。


「ごめ……ちょっと見てられないから。回れ右しててっ」


 お互いに服も着ていなかったことも忘れていて。とにかく引き離そうと、失礼ながら両肩を掴んであっちを向いてもらう。体温が手のひら越しに伝わってくる。


「あの、勝手に触ってごめんなさい。いまこっちもすごく混乱していて……」


 そういえば姉の肉付きと似ている気もするけど、髪や瞳や肌の色からして別人だ。そもそもこれはタチの悪い夢なのだし、そういえばルリ姉自身があの場所でもう――

 そうしたら勝手に涙が溢れてきた。恥ずかしい嗚咽を押し殺すために、今は言葉も捨てる必要があった。人前で泣いてしまうなんて最悪だ。


【――るー……ハ――――――る――……ん――】


 彼女が発した初めての声だ。あまりにたどたどしくて、混線した共用回線みたいな第一声。

 呼ばれた気がして振り向いてみる。肩越しに見えたのは、すぐそばでこっちをまじまじと覗き込んできていた彼女の顔だった。

 心臓が跳ね上がる感覚を味わった直後に、それを上書きするほどの衝撃を目の当たりにした。

 この子の長い銀白の頭髪が、ぼくの目の前で鳥の翼さながらに羽を広げたのだ。

 濡れそぼっていたせいでさっきまで気づけなかったけれど、髪の毛の一部――ちょうど彼女のもみ上げのあたりが、絶滅生物である南国鳥の翼みたいになっていた。


「えっと……………………なに、それ…………??」


 極彩色の羽毛を揃えるそれを二、三度羽ばたかせてみせ、次には畳んで休ませる。まるで身体の一部みたいに蠢かせている。


【――――――は……ル…………………………ン】


 また何か言葉を発した。さっきまで表情が薄かった彼女の目つきは、次第にぼくへの好奇心めいたものを宿しつつあるような。ようやく目が覚めてきたのだろうか。

 そしてぼくを確かめるように、この子の震える手が頬へと伸びてくる。


「――――――ッ!?」


 彼女の手がぼくの頭に触れた途端、表現の難しい感覚が背筋を駆けめぐった。くすぐったさと、悪寒と、かすかながらの鈍痛と。

 髪の毛を掴まれたのではなく、なんとぼくの頭にまで何か奇妙なものが生えていた。そこを興味深そうに触れてくるこの子の手を押しのけ、もう片っぽの手で確かてみる。

 やはり、自分の頭にも彼女と同じ翼みたいなものが生えていた。

 それはふさふさした柔らかな感触で、体毛に似ていた。髪の毛の一部が進化したみたいな想像が脳裏をよぎる。


【はル……く……ン……】


「――――――え……いま、なんて!?」


 今度の言葉は、ぼくにもはっきりと意味がわかった。

 頬を恐る恐る撫でていたこの子の手を、思わず掴んでしまった。そんなに強く掴んだつもりはないけど、一瞬の怯えが伝わってくる。だから代わりに両手でそっと包み込んでやる。

 銀白の羽根髪を持つ南国鳥の娘は、ぼくの仕草に困ってしまったような表情を浮かべた。包みあった手のひら――そこに、よく似た銀のきらめきが二つ重なる。


「――……るー」


 ずっと定まらなかった声の像をはっきりとさせ。そしてぼくの手を取り、自分を指し示してそう言う。


「はる、クン――?」


 応じて、彼女がぼくの名を呼んでみせた。

 これは大地に雨まで降らせるほどの、空想めいた夢のさなかの出来事。空は再現された何世代もむかしの地球で、しかも真っ黒な矛盾エラーの雨雲に冒され、こうして雨を吐き出し続けている。

 なのに白磁めいた彼女の指が、戸惑うぼくの心を釘付けにする。何故って、その左薬指の付け根だけ指輪がはまっているみたいな銀色をしていたのだから。

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