発生点/転換点10

【警告します/残存エアが5%を切りました/ダイバーの生命維持を優先するため/仮死化装置を強制起動します/二分後に救難信号の発信を開始――――】


 そう電子音声が囁いてくるまで、ハルタカは音の一切が途絶えた世界のさなかにいたつもりだった。

 スプトニカが最後の力を振り絞って退路を開いてくれたのだろう。抱き合ったまま漂流する自分たちは、見慣れた星屑のさなかにいた。いつの間にかアガルタの外へと離脱していたのだ。

 涙は一度も出てこなかった。声を嗄らし尽くしたわけでもない。この胸に抱くルリエスの亡骸は、今はどんな顔つきをしているのかもわからない。苦しげなものなのか、それとも穏やかなものなのか。

 自分には姉を救えなかった。それどころか姉弟という関係を都合よく利用してしまったばかりに、彼女に見えない重荷を背負わせていたのかもしれなかった。

 これがその末路だ。それでも姉は己が命と引き換えに、最期の願いを果たせたのだろうか。

 この自分が冷血野郎などと罵られたことが今さら思い出されてしまう。どちらにしろ奇跡はもう断たれた。

 あれほどアガルタを照らしたスプートニカハリオンは、今や自分たちを乗せて無重力世界を漂流する一員だ。彼女との繋がりもなくしてしまった。姿も声も知覚することができなくなったし、彼女はもう機械マシンとしての生涯を終えてしまったのだろうか。

 ここは孤独で、全てが死に絶えた場所の中心にも思えた。

 あと一時間も待たずに、自分には何もできず、誰も助けられないままここで凍えてゆくのだろう。耳元で説教を続ける仮死化装置を手動で解除キャンセルする。きっとニルヴァたちは助けに来ないだろうから。

 足もとにずんと振動を感じて、思い出したようにスプトニカの様子を窺う。アガルタからの離脱途中で何かと接触したのだろうか、スプトニカの円環型ユニットが無残にもひしゃげていた。それに、電子的な損傷を受けたことがどう影響したのか、彼女の躯体そのものがさながら腐り落ちる果実のように色彩と輪郭を歪めつつあった。

 スプトニカの躯体の中心あたりがまだ淡い光を宿しているのに気づく。いつだったか、彼女が自らを生命体であるなどと主張したことを思い出した。ハルタカはルリエスを抱えたままスプトニカの胴部を這って、その光へと近寄った。

 薄紫色だったスプトニカの表面がいつの間にか劣化し、脱皮するように萎れて剥がれ始めていた。灰色で、色づきを失った姿。ちょうど地球を覆うフューチャーマテリアルそっくりだ。


「…………そんな……君たちも箱舟と同じ……フューチャーマテリアルでできてたのか」


 さすがにそれを見まごうことなどない。地上国家時代を終焉へと導いたAIが発明したという未知の素材――フューチャーマテリアルだ。電子的な命令プログラムを与えることで分子レベルから組成を変化させる特性を持つことから、旧世界遺産においても〝神々の分子ロボットナノマシン〟などと記され、停滞のさなかにあった人類文明を次の枠組みパラダイムへと発展させるきっかけになるだろうと目されていた。

 だがあまりに複雑すぎるフューチャーマテリアルを扱うにはAIに一切を委ねなければならず、これを手に入れた奇跡は人の思い通りにならないまま、やがて旧世界の負の遺産となったという。

 理屈はわからない。でも、スプトニカに呼ばれている気がした。

 ルリエスを抱いてスプトニカの光を目指し、鼓動を打つように発光する胴部ユニットの装甲にそっと触れる。

 グローブ越しに伝わってくる、呼吸するような脈動と、柔らかな感触。スプトニカの躯体そのものが流体化したように、そのまま腕まで沈み込んでしまう。

 まだスプトニカは生きている。こうして人間には考えも及ばないやり方で生まれ変わろうとしているのだろうか。

 全てが死に絶えた場所の中心で、ただ彼女だけでも生き延びてくれるならと、一握残された光に涙がよみがえった気がした。


 それから自分がどうなってしまったのか、ひたすらに記憶があやふやだった。確かに、誰かに手を握られ、それから強く引き寄せられたような――そんな感覚を覚えた気がした。

 見れば、真っ青な宇宙を銀幕に、色とりどりの星雲があたり一面に瞬いている。そんな目を見張るような鮮やかさの真ん中に、ハルタカ自身が浮かんでいた。

 胸にはまだルリエスがいた。こんなにも幻想的な光景のさなかなら夢で終わってほしかったのに。それでも無限の星明かりに照らされた姉の顔は、どこか安らかなものにさえ見える。

 割れたヘルメットの奥から綺麗な髪の毛が揺れて、思わず指先で触れようとしてから自分がまだ船外服を纏ったままなのを思い出す。これを脱ぎ去るまでは触れることすら叶わない。


【――ごめんね、ハル】


 声がした。どくり、と周囲が鼓動を打って、初めて悟った。きっとここはの中なのだと。

 ここは小さな宇宙で、さながら羊水で満たされた保育器の中を想起する。あのまま凍えるか窒息するはずだった自分が、どうしてまだ生きていられるのかも不思議で、理解が及ばない現象のさなかにいることだけがわかる。


「どうして君が謝るの? こっちこそ謝らなければいけないのに。君は危険をおかしてまで人間を信用してくれたのに、それを過ちにさせてしまった。ぼくたちが君を裏切ったんだ」


 謝るというならお互い様だろう。少なくとも彼女は人間を守ろうとしてくれた。なのに、そんな彼女を深く傷つけたのは人間の方だ。ルリエスを奪ったのは弱く愚かな人間同士のいざこざで、本当にくだらないことが積み重なった果ての、取り返しの付かない悲劇でしかない。


 ――そうか、ルリ姉を失ったのに悲しくない理由って、くだらないからなのか。


 そう気づいてみれば失望しかなかった。こんなことでかけがえのない姉を失ったというなら、もう人間のためにこの身を捧げる価値すらわからなくなる。


「君があんな姿になって、すごく心配したんだ。もう会えないかと思ってた。ねえ、ここはスプトニカの中なの?」


【そうね、ASの中枢とも呼べるわ。この場所が……ううん、正確にはうち自身が、かしら】


 聞こえた息づかいから、微笑んでくれたのだとわかる。彼女がAIの人格プログラムではなく本当に心があるのなら、ハルタカには彼女をいま微笑ませたことすらも悔しかった。


「……スプトニカ。君はこれからどうなるの?」


 彼女は明確な形で応答した。すぐ目の前に、あのホログラム――とんがり耳付きの女の子として現れたのだ。ただ、その姿には衝撃を隠せなかった。体のところどころが傷付き、ノイズに歪んで、今にも壊れてしまいそうな形相をハルタカに見せる。

 躊躇い笑いのようにかすかに鼻を鳴らせて、そして彼女が応えた。


【ハル。うちはもうここまでよ。人間で言うところの〝寿命〟を全うすることになるわ】


「そんな――どうして君までなの? あのブラッドアンカーが君を傷つけたっていうの?」


【――それは過程のひとつにすぎないわ。うちはこの軌道上で百年あまりを生きた、最も旧い世代のアウラのひとり。人間とカタチは違うけれど、アリス=サットも永遠ではないって、うち自身が証明する結果になる。スプートニカハリオンは長く生きすぎたのよ】


「長く生きすぎた……? ASとしての老朽化の話をしているの?」


【――そう言い換えてくれてもいいわ。だからこそ後に続く若い娘たちのためにも、うちと人間が手を取り合って〈楽園〉を取り戻して、新しい時代を約束してあげたかった】


 そう言って、彼女の目が諦めの表情を形づくる。そんな顔など一度も見せたことがなかったから、彼女が自分に謝ったことの意味がひとつだけではないのだとようやく理解する。


「……君を助けられなかったのか。ぼくは約束を守れなかった。…………ルリ姉も、助けられなかった」


 いま胸にある、かつてルリエスだったもの。緋色の船外服をより色濃く染める紅。胸部にぽっかりと開いた空洞から、姉を象っていた全てが流出してしまったかのよう。

 そして自分にも同じような穴が開いて、何か大切な感情ごとアガルタに落っことしてきてしまった気がした。


【――ねえ、同じ質問をしていい? ハルはこれからどうなるの?】


 少しだけ明るい声をつくってくれて、溜息をひとつついてからそう問いかけるスプトニカ。


「ぼくにはもう何もできないよ。これ以上どこにも行けそうにない。人間はとても脆くて弱いんだ。さっきからエア切れの警告が出てる。ぼくたちは宇宙では、この狭苦しい服の中でしか生きていけない。ぼくたちが大人たちのために都合よくつくられた子どもだというのも、たぶんおかしな話じゃないと思う」


 スプトニカは何も言わず、ただ静かに目を伏せた。


「ぼくも――ここで寿命を終えるのかな、スプトニカやルリ姉と一緒に」


 死を恐れる感情なら自分にだってある。過去に宇宙で二度死にかけたところで慣れるものではない。ただ今回はこうして道連れがいるから客観的でいられるだけかもしれない。


【――そっか、悲しい結末しかないわね。いやだな、うちは】


 彼女の瞳から、雫のようなものが生み出されていく。それは悲しみの感情表現のための涙なのか、雫がほうき星みたいにこの小さな宇宙を漂って消えていく。


「君たちにも悲しいって感情があるのが、前から不思議に思ってた。でも、今なら何となくわかる。何でも支配してしまえる箱舟に対抗するための条件が〝機械じゃない〟ことなら、君たちアリス=サットがぼくたちに似た形になるのは自然なんだ、って」


 手をスプトニカに差し伸べる。その頬を拭ってやるか、頭でも撫でてやりたい衝動が自分の内に生まれたからだ。

 と、彼女の内世界はさながらに小さな宇宙なのに、まるで水中にいるようにこの手からが立っていくのが見えた。この空間自体が真空ではなく、何らかの液体で満たされているのにようやく気づく。


【――うちらは、今のカタチでは、もうここまで。それでもハルはこの先の場所に進みたい?】


 差し伸べた手は彼女の頬を拭うことなく、代わりに互いの手のひらが重ね合わせられる。グローブ越しなのに、指がぐっと握られる感触が伝わってきて。

 何故だかすごくゾッとして、それから心臓が目を覚ましたように鼓動を打って。


「……………………………………ぼく……は…………」


 何も応えられなくなる。ノイズまみれのスプトニカがとんがり耳をそばだてる。オレンジ色の光を宿した瞳が、人間にはない幾何学紋様を虹彩に輝かせて、こちらを魅入るように視線を奪ってくる。


【当星の約束を守ってくれようとしたあなたに、最後の秘密を明かしてあげる】


 ――このスプトニカは、


【アリス=サットの正体は、〈楽園〉に生きる量子生命体。躯体カラダはフューチャーマテリアルで形づくられる。そしてフューチャーマテリアルはね、うちが心から願えば、何でも望みを叶えてくれる魔法になるの】


 スプトニカの白い手が、自分のヘルメットに触れてぺたんと音を立てる。


【だいじょうぶよ、こわがらなくていい。うちにはまだハルが必要なの。必要で大切、だから好き。この特別な感傷をわからせてくれたハルが、確かに好きだと知ることができてうれしい】


 バイザーに遮られた手のひらが――ホログラムとなって通り抜けてきて頬をなぞってくる。彼女のもう片っ方の手が、ルリエスの頬を優しげに撫でている。


【お互いにカタチが違っても、ハルはうちと出会ってからずっと、うちとともに在ってくれたから。これは、そういう繋がりだとうちはもう決めていたから】


「…………スプトニカ……君は一体………………」


 心の内に仕舞っていた思いを伝えてくれたのだと受け止める。彼女が自分と同じ社会の住人ならば、その言葉の意味のとおりなのだろう。なら、そうではない彼女の思いが何を意味して、どう応じてあげればいいのだろうか。もう何もかもがハルタカの手に負えなくなる。

 スプトニカの姿に急激な変化が訪れた。カラスアゲハのドレスが少しずつほつれ始めていた。次第に彼女の腹や胸の青白い皮膚が曝け出されていき、とても見ていられなくなって。

 ハルタカは堪えきれずに、スプトニカの肩を抱き寄せてしまっていた。


「ああ……スプトニカ………………」


 ようやく悟った。彼女はきっと、このまま終わりを遂げようとしているのだと。


【――最期に教えて、ハル。あなたの一番の願い。もし魔法で願いごとが叶うなら――あなたにとってひとつっきりの、一番強い願いは、なあに?】


 自分の、一番強い願い。

 彼女は言った。何でも望みを叶える魔法になる、と。

 本能で、そして理性で抑え付けた果ての結論だとしても、願いはたったひとつだ。自分たちが大人に創られて仕組まれた儚い存在だという事実すらも、その前には他愛もないことなのだ。

 もしそんな願いが叶えば、まるで物語の感動的な場面みたいに、きっと主人公はドラマチックに演技して涙するのだろう。だから、これはなんて愚かしい願いなのだろうと、悔しくて馬鹿で本当に考えなしな自分に涙が溢れてきた。


「――――どうか、たす……けて……ルリ姉………………ぼくの、るーちゃ……を…………」


 嗚咽にすらならない声を、もう制御の効かなくなった己が喉が吐き出し続けている。耐えることなどあるものか。これ以上何が残るというのか。もう何も自分には――


【ヒトは天上までたどり着いても、結局は神さまに会えなかったの。〝死〟という生命活動の終着点はもう誰にも変えられないわ】


 この背に彼女の手が強く回されるのを感じた。

 潮のようなにおいがぐっと鼻を突いて、それから唇にくすぐったくて暖かい感触がして、


【でもね――うちがその娘の魂の行き先をハルに見せてあげる】


 もうこのまま自分というちっぽけな形を覆う殻が、船外服ごと溶けて水底へと沈んでいく気がして――――

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