発生点/転換点6
第七保育室と称されたこのブロックは、そもそもから異常そのものだった。
船外服でようやく通り抜けられるだけ開いた隔壁扉から、ハルタカが内部の暗がりを覗き込もうとした。
着地する足場がないのに気づいたのは直後だ。靴底が何もない宙を蹴る。半開きだった扉に掴まり損ね、背後からルリエスに抱き留められる。重力があったらどうなっていたことかと、船外服内のアンダースーツに不快な汗が染みるのを感じた。
ライトで周囲をぐるりと照らすも、ねっとりとした闇ばかりが浮き彫りになるだけだ。建材の破片か何かがヘルメットに当たり音を立てる。明かりの消失した第七保育室は、果たして何が起こったのか、床が完全に抜け落ちていた。
「何てこと……人工子宮プラントどころか、保育室ごと床が抜けちゃったのかな。それにこれ、アガルタの外側にあった穴と似てる気がする。抜けたというより、何かで削り取ったみたい」
あっ、とルリエスが短い声を上げる。彼女のライトが追ったのは、暗闇の宙を漂って離れていく妨害衛星。さっきので驚いて手放してしまったのだろう。銀色をした筒状のそれが闇の彼方へ消えていく。
刹那に蒼い電光が迸った。それに一瞬何かが照らし出され、ばちり、と聞こえるはずのない音を網膜下端末が吐き出した。
【――――駄目よハル、そこから離れなさいッ!!】
ハルタカの視界いっぱいに、スプトニカのホログラムが瞬く。
さっきの光は妨害衛星の破損を意味するものだったと察した時には、スプトニカの輪郭がブロックノイズに歪んで消滅した。
体に力が入らないのに気づいたのはこの瞬間だ。ぐらりと天地が揺らぐ感覚。自分のヘルメット内に何か滴のようなものが漂っている――自分の血液だ。
途端に、網膜下端末の表示が狂ったように視界を流れ始める。自分の身に何が起こっているのかすらわからない。でたらめに吐き出される文字列。何も反応できず、まるで他人の体みたいにすべてを傍観するしかない。ルリエスの声まで理解できなくなる。取り乱したように、後ろから腕を引かれているのだけはわかる。
どれほどの時間が過ぎたのか、自分が体感しているこれが明確な頭痛に変わり始め、麻痺した感覚が徐々に現実へと戻っていく。
【――ハルくん! お願い、しっかりしてっ――ハルく――――――――】
擦り切れそうな悲鳴を上げるルリエスの声がまたノイズにかき消された。なのに今度は聞こえるはずのない声がする。
〝――お伝えしま――――西海岸沿いの――地区から――ホワイトハウス――〟
何のことなのか理解できない。
〝――報道官によりますと――各国首脳陣――に――環大西洋未来予測機関――条約機構――〟
鼓膜の裏側で暴れるような脈打ちとともに、声という声の奔流が勝手に押し寄せてくる。
〝――フューチャーマテリアル災害の被災地域――暴徒化したアジア諸国の避難民は――しかし――未来予測機関の予測演算により提案された人類保護――百項目あまりの隔離策の――〟
どこかで聞いたような言い回し、出鱈目に読み上げられる言葉の羅列――そう、これはまるで旧世界遺産の記録音声みたいな――。
ホールまで引き戻された自分の前に、何か奇妙なものがいる。
向けられたライトの光源がそれを捉えた。第七保育室の抜けた底――その宙に浮かぶ、三メートル四方ほどの鈍色をした何か。
最初は瓦礫か氷塊にも見えたが、直後にその表面が液体のようにどくりと波打つ。物体の下部から、長い管状のものが無数に伸びている。
そしてその周囲の暗闇を漂う円筒状の容器。それも十や二十の数ではない。かつて地上の海に君臨した海洋生物が、孵化前の卵を守っているかの光景だ。
その大きさから、あれらの容器全てが人工子宮プラントの保育器だと悟った時、
【あの素材――フューチャーマテリアル!! まさかこいつ、箱舟なの!?】
この未知の存在にルリエスが明確な意味を与えた。
眼前に現れたそれは管状の器官を蠢かせて、さながらクラゲのごとく無重力下を漂っている。もはや船でも何でもない。箱舟とはもっと大型の船体を持つ、フューチャーマテリアルの怪物のはずだ。それにアガルタのような安全深度までいかなる手段でたどり着けたのか、何の目的でこの廃墟に潜伏していたのかもわからない。
ルリエスが自分を庇い、慎重に、少しずつ後ずさっていく。
クラゲ型は隔壁扉を潜り抜けられるサイズではなく、こちらを認識できているのかいないのか、第七保育室内を漂い続けるだけだ。
【――応答してシグノス、エイトン、ニルヴァ! アガルタ基底部に箱舟らしき敵性存在を確認! 何が起こってる……聞こえてないの!? もうっ、はやく応答しなさい――――】
取り乱したようなルリエスの声ばかりが届く。不安と焦りとが濃い霧のように意識を覆っていく。なのに肉体と意識が切り離されたみたいに、全てが他人事に感じられる。
【ねえハルくん、お姉ちゃんの声、聞こえてる? お願い返事して。さっき何があったの……】
声が出せなかった。抱きかかえられて通路を進んでいるのだけはわかる。最初の頭痛は薄れてきたが、全身隅々まで重たく、手の甲で彼女をノックして合図するしかできない。
「…………ルリ……ねえ………………見えない……なにも……」
妨害衛星が壊されたはずなのに、あの瞬間からスプトニカが全く応えなくなった。ホログラムどころか、網膜下端末が暴走したかのような表示を延々繰り返している。鼻腔あたりに、血が固まった鈍い感触がした。
【わかった、しゃべらなくていいよ。いま軌道甲冑のところに戻ってる。すぐアガルタを離脱して基地に救援要請するから】
そう優しく囁いてくれたルリエスが、【もうだいじょうぶ】と。
【ハルくんはお姉ちゃんが守るから】
そう、自分で確かめるように言った。
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