軌道をめぐる同行者10
あれからずっと行方をくらませていたスプトニカが再び顔を見せたのは、夕刻にハルタカが自室へと戻ってからのことだ。
半日近く動き回っていたせいだろうか、さすがに押し寄せてくる疲労感に負け、二段ベッドの二階側までたどり着いたところで力尽きた。
ルームメイトでもあるヨンタは、今晩からの物資輸送の当番で出払っている。だから気兼ねなくスプトニカに呼びかけた。
「……で、今日のぼくは君の要求に応えることはできたの?」
結局のところ、スプトニカが自分に何を求めてこんな余暇を過ごさせたのか、未だに理解できていなかった。少なくとも、箱舟と戦い続けてきた彼女にメリットなどないはずだし、ましてや兵器そのものである彼女が人間相手にそういう損得勘定をする理屈もわからない。
仰向けのハルタカからなら手が届きそうなほどに近い天井。そこに映し鏡のように背を預けていたスプトニカが、しばし黙考したのちに話し始めた。
【そうね。非常に興味深い現象をたくさん観測できたし、有益な時間を過ごせたわ。ところでハルの〝ルリ姉〟ってさ、普段からああなの?】
何やら遠回しに、不穏な話題に言及された気がした。
「スプトニカが何を指摘したいのかわからないでもないけど、ルリ姉はいつもああだよ」
【うちの人間に関する知識なんて所詮は記録から得たものでしかないけどさ。あの娘が多重人格者じゃなければ、よっぽど器用な思考回路をしてるわ】
ASにまでそう断定されてしまっては、人類であるルリエスの立つ瀬がない。
「ルリ姉はさ、こう言ってしまうのも彼女には悪いけれど、昔は今よりずっと無口で、本と絵だけに心を許して……ええと、とにかく自分勝手で乱暴者の、性格のキツい子だったんだ」
【…………ハルの話だけから判断すると、なんだかとんでもない人物に聞こえるけれど】
でも事実、ハルタカが出会ったころのルリエスは、他人を拒絶し、自分を守るために拳を振るうしかなかった。そうなる理由が彼女にはあったのだから。
「でも、十歳のころにぼくが一度死にかけたことがあって」
考え込むように目を伏せていたスプトニカが、一瞬こちらを伺い、けれども言葉を飲み込んでしまう。出会った十年前のことを一旦胸にしまったのだろうか。そんな情緒の機微まで見せたスプトニカと自分たちに、果たして何の違いがあるのかもわからなくなってきた。
「あの時にぼくの傍にいなかったことをルリ姉はすごく後悔した。それからあんな風に――自分を押し殺してでも無理するようになった。ぼくのために頑張って優しくなろうとしてくれた」
あらためて言葉に出してみたら、全部自分のせいじゃないか、と痛切に思い知らされる。
【ハルはそれがイヤ? ルリエスを受け入れることが困難?】
「……わからない。一緒にいることが長かったから、もういいのか嫌なのかもわからなくなっちゃった。それに、もしぼくが嫌と言って――今のルリ姉を否定してしまったら……そっちの方がたぶん、ずっと危うい気がするから。だからぼくはさ、今のルリ姉の弟でいてあげたい」
こんなこと、ヨンタにすら話したことがなかったのに。それを彼女の前でこうして言葉にできたのも不思議だけれど、何故だかカウンセリングの設問と向き合ってるのよりもずっと自然で、ちょっとおかしな気持ちになった。
【なるほどね、ハルへの理解が深められてよかったわ。今日一日ハルの目を借りて、ハルの世界を見せてもらってわかった。ハルはうちの対話相手として信頼に足る人間よ。よって、対話を次のフェーズに進めていいとうちは判断する】
いきなり核心に触れるような声のトーンをすると、同時に部屋のドアが音を立て、突然ロックされた。故障したわけではない、やったのは明らかに彼女だ。そうした意図を何となく察せられて、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。
【さて、ハルは今この瞬間、〈群島〉から自由な人間になった】
「どういうことなの? 自由な人間になったって……まさか、ぼくに何か細工した?」
咄嗟に首筋を押さえてしまった。オービタルダイバーの子どもたちは、網膜下端末の管理タグを個々の体内――ちょうど頸椎のあたりに備えている。タグ自体がオービタルダイバーの資格証でもあるため、それを失えば行方不明者扱いになりかねない。
【違うわ。管理タグの追跡情報をちょっとだけ偽装したの。これでハルがどこでどんな行動をとっても、たいていは怪しまれなくなったはず】
「驚いた……君は何でもハッキングしてしまえるんだな。ぼくたちのタグなんて最高レベルのプロテクトで雁字搦めなのに、さすがは旧世界のAI……」
【こらそこぉ、うちをAIゆうな】
とんでもない魔法使い相手にセキュリティを明かしてしまったものだと、当のハルタカも少しだけ後悔していた。
「君が何ものであっても、今のぼくたちの社会はAIみたいな人知の及ばない概念に強い不信感を持ってるんだ。〝思考する衛星〟がただの従順な兵器じゃないからこそ、人類は君たちを恐れて距離を置いたんでしょう?」
【ふぅん……これは認識の相違ね。昔は
「…………あの、それは……その…………」
そう嘆きながらスカートの裾を自らめくって白い太ももの深奥まで見せてくるのは何のアピールなのか。人類を代表して謝罪しようとした気持ちまで乱されてしまうも、
【まあそれは冗談なんだけど、ハルはなんでうちには顔を赤らめてくれないのよ? ルリエスがよくてうちがダメなのはどうして? 顔? 体格差? うち、超つまんないんだけど】
などと身勝手極まる不平を返され、とにかくこの幻影娘には翻弄されるばかり。
【まあね、もともとASと人間ってお互いに接点を持つ理由なんてなかったし、実際に人間を嫌ってる娘たちって多いのよ。だからうちらの逢瀬は
やけに生々しい言いぶりをするので、女子たちから基地内の噂話でも聞かされている気分になってしまった。
「でもさ、どうしてぼくのタグに細工までする必要があるの?」
【これからハルにしてほしいことがあるの。そのためにはハルが自由であることが不可欠】
スプトニカの表情が、何故だか神妙さを増した気がした。午後までに見せてきた自慢げな表向きの顔をやめたと言えばいいのか。
【……率直に言うわ。ハルが察したとおり、ASは現在、自分たちだけでは解決できない困難にぶち当たってるの。これに打ち勝つために、人間であるハルの助けが必要なの】
一旦閉じた瞼を開く。綺麗なオレンジの双眸が真っ直ぐにこちらを見据える。たとえホログラムでも、ハルタカの心の深くにまで訴えかけるような、意志の込められた視線。
だからハルタカは「いいよ、続きを話して」と躊躇いなく彼女を促した。
【うちの言った困難というのはね、うちら――アリス=サットという迎撃衛星システムが現在、機能不全に陥ってることなの】
どこまで深刻な事実を突き付けられるのかと身構えていれば、それはハルタカにも思い当たる話に聞こえた。
「……それ、その機能不全って、まさか――箱舟が君たちの迎撃網を突破する頻度が上がってることと関係があるの?」
オービタルダイバーは十二の基地と四〇基の観測衛星で軌道上を常時監視し続けているが、ASに関する報告は特に上がってきていない。ASに異変が起きていることはハルタカが感覚的にそう受け止めていただけのことで、確たるデータは誰も持っていなかった。
【――ハルの見立てで正解。困ったことに、これは人間たちの目には見えない戦争なの】
途端、スプトニカのホログラムが目前で消失した。
【残念だけど、肉体が限定される人間は、過酷なこの宇宙環境において多くの物事を肉眼で直接見ることができないわ。ほとんどのものを機械とネットワークを介して見てるのが現実だって、ハルにはわかる?】
続けて部屋の照明が落ち、ハルタカの網膜下端末までシャットダウンしてしまう。
【そしてハルたち人間に見えるものと見えないものがあるように、うちらASにも見えるものと見えないものがある。この感覚を人間に理解してもらうのはとても難しいわ】
空調まで静止した。急に暗がりと寒気と異様な沈黙のさなかに追い込まれたハルタカは、厭な汗を肌に覚え、宇宙に孤立したかのような感覚になった。
「ねえ、スプトニカ…………これはわざとなんだよね?」
【驚かせてごめんね。でもこれが一番わかりやすいと思ったから。今のうちが陥ってる状況って、人間の感覚だとたぶんこんな感じ】
彼女の声だけが鼓膜に届く。網膜下端末経由ではなく、天井のスピーカーから再生された音なのがわかる。
「つまりスプトニカたちは、要するに目の前が見えなくなったって言いたいの?」
応答代わりに、再び彼女の姿が暗闇に揺らめいた。淡い光がほのかにハルタカを照らす。
【本質的にはそれと似てるわ。うちはホログラムとしてハルの視野内に現れてるけど、ほら、うちのこの目は、実際にはハルを見てるわけじゃない。ハルにはこの意味がわかるかしら?】
一聴して哲学的な謎かけのようにも聞こえた。けれども彼女の――ホログラムから向けられたまなざしの示す意味が何なのか、ようやくハルタカの中で噛み合った気がした。
「――――! そうか、ぼくにはスプトニカが見えてるけど、君の方はぼくを直接自分の目で見ているわけじゃない。そう言いたいんだね?」
考えてみれば当然のことだ。ホログラムはあくまでただの映像データであり、実際は眼球を持っているわけではない。例えばラムダ担当管理官がブリーフィングを行う際も、基地にいない彼が実際はカメラ越しの映像を通じて子どもたちの姿を見ているのと同じ理屈だ。
「じゃあスプトニカって、実はこの部屋のカメラを通じてぼくを見てる? ……いや、違うな。そんなことしなくても、君はぼくの網膜下端末と既に同期してるから、ぼく自身が君の目となっているのが正解だ」
そう導き出してから、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。何せ自分の見るもの全てが彼女に覗かれているのだとしたら、例えばトイレや入浴まで筒抜けになるのだろうから。
【さっすが、やっぱハルは飲み込みが早いわね。当然だけど、うちの本体はいま、ここではなく地球の軌道上にあるの。うちはネット越しにハルと繋がってるから、ハルの網膜下端末が拾った映像や音声は、同期してるうちも受信できるって仕組みよ】
そしてパチンと指を鳴らすと、ようやく部屋の明かりが元通りに戻った。
「じゃあ、さっき言ってた、君たちが機能不全に陥ったってどういう意味なの? そもそも君たちASは、どうやってこの世界を見ているの?」
【ASの目とは、通信――要するにネットワークよ。宇宙はあまりに広大すぎるから、肉眼なんてものはほとんど役に立たないわ。だから、代わりにうちらは独自の衛星
そこで何故なのか一呼吸置くスプトニカ。禁断の秘密を明らかにするかの硬い表情をつくる。
【それが――うちらはその場所を便宜上〈楽園〉って呼んでるわ。AS固有の量子ネットワーク空間。うちらはその〈楽園〉上で生活し、〈楽園〉を介してこの現実世界を観測してきた】
〈楽園〉――それは、ASについてのあらゆる情報を追い続けてきたハルタカ自身も初めて耳にする名前だった。旧世界遺産にすらも、そんな記録はない。
「…………驚いたな。君たちがどうやって仲間同士でコミュニケーションを取ってるのか、ずっと疑問に思ってたんだ。ぼくたちの知らないネットワーク上で社会を築いてただなんて、そんなの人間には見つけられないはずだ……」
【誰にも知られたくないからこその〈楽園〉なのよ。うちらは文字通り〈楽園〉の住人だった。ASはみんな個性豊かな娘たちばかりで、百年続いてる箱舟との戦争も〈楽園〉の存在が救いになっていたわ。……けど、ずっと穏やかだったはずの〈楽園〉に、初めて綻びが生まれた】
再度指を鳴らすジェスチャー。と、向き合う二人の間に地球の模式図が映し出される。軌道上を巡り続ける、無数の光点。配備されている全ASの座標と軌道を示しているのだろう。自分の部屋なのに、まるで
だが、その圧巻の様を眺めている途中で、光点群が急激に消え始める。そして最後にはたったの一つになってしまった。残された一基には、スプートニカハリオンなる識別名称が紐付けされている。
「ASが、消えた……君以外のぜんぶが破壊された、ってわけじゃないよね?」
【これが、さっき話した機能不全の結果。〈楽園〉というネットワーク網がバラバラに分断されて、ASみんなが〈楽園〉を奪われた。うちもみんなと繋がれなくなった】
華奢な肩が失意に下がり、頭部から生えたもう一つのとんがり耳まで萎れるように垂れ下がってしまう。先ほど自分が体験したあの沈黙と暗闇に近しい何かを、今まさに彼女たちが味わわされているのだろうか。
「その〈楽園〉が奪われたせいで、箱舟の迎撃網に風穴が空いた。だから異常発生していたのか。でも、どうして? 何が原因でそんなことになったの?」
考えてみれば、自分たちの中継衛星にも似たような兆候があった。地球軌道上のネットワーク網全体に何かが起こっているのだろうか。
【原因はうちにもわからないわ。かなめの〈楽園〉を失ったうちらは、迎撃衛星システムとして機能不全な状態に追い込まれてる。原因を特定しようにも、手段が限られる】
スプトニカの教えてくれたことは形がなく、理屈でしか飲み込めない。でも自分のような人間が見たこともない――それこそ〝楽園〟のような世界で彼女たちが暮らしているのだとしたら、それを奪われた苦しみくらい想像がつく。かつて地上を奪われた人類だって、似かよった苦しみを味わったはずなのだから。
「大切な秘密を話してくれてありがとう、スプトニカ。君たちが窮地に陥れば、それはぼくたちの窮地にも繋がる。だったら協力し合わないほうがヘンだ」
その結果として、何人もの仲間が犠牲になった。それに同じ視点で顧みれば、機能不全に陥っているという彼女らにだって犠牲が出て不思議ではないだろう。
「でも、こんな状況でぼくに何を手助けできるのかな。可能性を疑うなら、箱舟のハッキング攻撃が真っ先に思い浮かぶんだけど」
【〈楽園〉のプロトコルに
「そうか……箱舟のハッキング攻撃も通用しない〈楽園〉。ASが箱舟にとっての天敵たり得てきた理由がそれか」
こういうのは自分の悪い癖で、素直に感心している場合ではない。箱舟に対するASの優位性が覆ったのだ。一刻の猶予を争う事態とも言える。
【でもね、うちらの目だけでは原因を特定できなかったってとこに解決策が見出せるわ。うちらはカメラやセンサーを通じてしか世界を
ここで初めてスプトニカが苦々しげに目を伏せた。こちらを都合よく利用するのだと息巻いていた癖に、良心の呵責に相当する感情表現を覗かせる。
アリス=サットのスプトニカは、かつての想像とは違う、少し頭がいいだけの普通の女の子だ。表面上は何を演じようと、ハルタカを信頼してくれている。
「わかったよスプトニカ。〈楽園〉に起こった異変の原因を突き止めるのにぼくも協力する。君たちが力を取り戻してくれないことには、人類側にも犠牲が増えるばかりだろうし……何より、ぼくは恩人である君に恩返しをするべきだと感じてる」
【ありがとう、ハル。てへへ……正直言うとね……今のうちってば完全に仲間たちから孤立しちゃってるから、うちに応えてくれたハルがすごく頼もしいわ。ハルと繋がれてよかった。うちの目の代わりとなって、どうかうちらを救ってほしい】
お願いよ、とかすれた声を隠すように、そして唯一差し込んだ光にすがるように。温もりも手も実際には届かないけれど、それでもスプトニカがハルタカの胸に顔をうずめてきた。
「ちょっ――――急にどうしたの!?」
背に手を回され、尻尾が艶めかしげにこちらの脚に絡んでくる。思わぬスキンシップに、感触のないホログラムとはいえどう受け止めたらいいのかわからない。スプトニカがこういう表現をしてくるとは想像だにしていなかったし、何より姉がこうするのとはまるで意味が違う。
「…………本当に、ぼくにできるのかな」
だから自分でも妙な気持ちに乗せられている気がして、彼女の期待に応えていいのか自信が持てなくなった。それに彼女の中の自分がここまで特別な人間だったなんて、にわかには受け止めがたくて。
【どうして今さらそんなこと確認するのよ? うちはハルがいい。ずっとそうしようって決めてた。だから、こうしてハルのとこに来た】
顔を上げたスプトニカは、最初に見せたころの振る舞いがそういう筋書きだったかのように、今は切なげな眼差しでハルタカを繋ぎ止めようとする。相手が人間と同じロジックで思考しているとも限らないのに、そんな疑問などどうでもよくなる。
アリス=サット。人知の及ばぬ技術を満載したこの奇妙な人工衛星は、どんな箱舟をも圧倒する戦闘力を備え、なのに与えられた
思い返せば、ハルタカはあの四年前の出会いから彼女の虜だった。あれから軌道上で遭遇する度に触れ合いを持った。回線越しに彼女の歌声を聴き、語りかけ、彼女の躯体に寄り添って何度も星屑の世界を眺めてきたのだ。
「…………教えてスプトニカ。ぼくはまず何をしたらいい?」
ハルタカの胸で、彼女がゆっくりと体を起こす。逡巡するように、わずかに揺れる視線。何故躊躇うのだろう、と続きを聞くのが少し不安になる。
【ハルと一緒に行って調べたい場所があるの。場合によっては、そこを破壊しなければならなくなるわ】
破壊しなければならなくなる――それに続いて提示された名前は、ハルタカの二の句を止まらせるに充分なものだった。
【――それが、コロニー・アガルタ。ハルたちの生まれ育った場所……そして、アリス=サットの〈楽園〉に呪いをもたらした発端の地よ】
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