軌道をめぐる同行者5

「――…………お、おい、大丈夫かよハルタカ? おーい、もしもし聞こえてっかー?」


 ベッドの上で意識が揺り戻されて。そうしてハルタカが瞼を開いた先に見えたのは天井ではなく、かなり面喰らった顔をしたヨンタだった。

 たしかにここは医務室で。なのに自分の手のひらは、何故なのかヨンタの手を掴まえている。網膜下端末が見せた植え付けの幻想でもなんでもなく、ただ現実リアルがこうなっていた。


「ヨンタ……おはよう。なんかすごく不思議な夢を見た気がするよ。本当にまぼろしだったのかな、あの子。…………あ、そっか、助かったんだ、ぼく」


 あっけからんと言ってしまってから、ぷつりと途切れていた記憶が急に繋がった。

 だから突然怖くなった。恐怖を拭い去るにはあまりに早過ぎる体験をしたはずなのだ。

 心地よい重みを感じる。この医務室は重力モジュール内の集中治療室だろう。ここに運び込まれているということは、緊急の蘇生処置が必要な容体に置かれていたのだ。

 ハルタカ自身は医療用流体ベッドの生温いジェルに首から下を包まれて、上体だけ起こした体勢でいた。ただ無意識にやったのか、右手だけジェルから突き出てしまっている。格好も裸に患者衣一枚を羽織っているだけの状態で、人目がどこか気恥ずかしい。

 なのにヨンタはこの手を振り解こうともせず、ただ明るい表情を絶やさずに応じてくれた。


「なんだよ、手ぇ凍えてんじゃねえか。仮死状態だったせいか。どっか違和感あるか?」


 などと、こちらの動揺もお構いなしで、ハルタカの右手が大きな両の手のひらで包まれてしまった。彼の体温によって、抜け落ちていたあらゆるものが次第に呼び覚まされていく。


「ヨンタ…………よかった、無事で」


 それが、今のハルタカにようやく絞り出せた言葉だった。


「無事って、そいつはこっちのセリフだろ? お前のがオレの十倍はヤバそうな顔してた」


 そう言いながら手のひらを広げられ、ヨンタの視線がふと右薬指に収まる指輪へと向く。


「なんだっけこれ、確か何かのお祝いで交換したんだったよな。ゲン担ぎかなんかだったか?」


「はは、どうなんだろうね。たしか家族関係が残ってた時代の風習か何かだったかな。交換した指輪をお互いの左手の薬指にはめるのが生涯のパートナーであることの誓いで、片方だけ右手にすると家族の誓い。そんなような話をルリ姉が言ってたけれど――」


 弟を守るのだと背中を向けた姉と、そんな彼女の背中を見守ってきた弟。家族が忘れ去られた時代の、ささやかな家族の証し。右薬指の指輪は、このジェミニポートでルリエスと再会した際に交換したものだ。

 明らかに金属製なのに自分たちの成長に応じて径を広げるこの指輪は、なんでも旧世界の素材でできている希少品らしい。

 何故だかそれが視界できらめいたような気がして、もっと大切なことが意識の外にあったのを思い出させてくれた。


「――そうじゃない、るーちゃ……――ルリ姉たちはどうなったの?」


 理屈ばかりに気を取られがちな自分をこの時ばかりは呪った。自分たちが箱舟からの思わぬ奇襲を受けた時、ルリエスも箱舟・ディスカバリー6と戦っていたはずなのだ。


「心配すんなって。あいつらの方は無事に任務完了だったみたいだ。あの鋼鉄の不機嫌女がくたばるなんて、万が一にもねえよ」


 そんな乱暴な言葉にも、ひとまずは安堵させられた。考えてみれば、宇宙に出たルリエスが自分を不安がらせたことなんて一度もなかったのだ。

 ただ今は事情が違った。前例のないことばかりが起きて、それが皆の危険に繋がるからだ。


「…………ヨンタの声が聞こえたんだ。あの時、回線越しに」


「ん、通信が切れた時の話か? 急に軌道座標を見失ったとかお前の応答があって、それっきりVX9が消えちまうもんだから、こっちも焦って探し回ったんだけどよ……。わりぃ、オレが見つけ出すのに手間取ったせいで、お前を丸一日も軌道上で漂流させるはめになっちまった」


 だがハルタカには、自分が一日ぶりに意識を取り戻した事実よりも気がかりなことがある。


「やっぱり聞き間違うはずない、あれはヨンタの声だった。確かにヨンタの声だったけど、ヨンタの喋り方じゃなかった」


「……声? オレじゃないって、どういう意味だ?」


 ようやく解放された手のひらを凝視して、途切れていた記憶を揺り起こす。はっきりとは思い出せない。けれども、あの声は――


「――あの声、まるでヨンタの声をコピーしたみたいに聞こえた。パープルの子が回線越しに歌うみたいに、人間を真似たのかもしれない」


 単なる憶測に過ぎない。けれどもこう想像して、得体の知れなさに怖気が立ちそうになる。


「あれは、だ。あのとき現れた箱舟が、ぼくたちの回線を乗っ取ったハックした


 だから接近していたあの箱舟を索敵することができなかったのだと。


「箱舟がヨンタの声を真似して、何かメッセージを送ってきたのかも……だとして、そんなことをする目的が検討つかないな」


 そんな憶測が余程奇想天外なものに聞こえたのか、ヨンタは一旦言葉を引っ込めてしまう。


「ええとだな。要するに、オレらはまんまと箱舟にハメられてた、って言いたいのか?」


「これはあくまでぼくの推測に過ぎない。でも、ぼくが調べた中継衛星に異常は見受けられなかったんだ。つまり、衛星が箱舟の艦影を観測できてなかったわけじゃなくて、最初から存在しないよう箱舟に通信内容が改竄されていたとしたら?」


 箱舟とは、地上全土を征服したAIが軌道上に送り込んでくる、言わばAIの尖兵だ。AIたちは、人類の通信規格ネットワーク・プロトコルなど容易く理解し支配下に置くだろう。だから人類の兵器は、高度に電子化/自動化されていたが故に、それらの上位概念であるAIに呆気なく掌握されてしまった。人類が地上国家を失った根源的な敗因だ。


「この推測が事実なら、今後最悪の展開に発展するかもしれない。とにかく、このことを早くラムダ担当管理官に報告しないと――」


 室外がにわかに騒々しくなってきたのはこの時だった。


「入室は許可できないって言ったはず! ちょっと、待ちなさい!」


 などと誰かが声を荒らげるのが聞こえて、同時にドアが開く。

 現れたのはニルヴァだ。肩を怒らせ、ずんずんと床を踏み付けこちらに詰め寄ってくる。続いて彼を制止しようと別の同級生たちが追うが、腫れ物に触るように近づくことができない。


「やめとけよニルヴァ。これ以上余計なマネしやがったら、マジで容赦しねえぞ」


「ふうん? なんなのお前、運び屋しか能のない下級生風情はどいてなよ。ダイバーと協調すらできない不良パイロットなんてランクが下がっちゃうよ?」


 ヨンタの剣幕に怯むどころか、気味の悪い笑みを顔に張りつかせるニルヴァ。目が充血し、額に玉のような汗が浮かんでいる。立ち塞がるヨンタの脇からこちらを覗き込んでくる。


「やあ、元気そうじゃないハルタカ。聞いたよ。お前と一緒に飛んだダイバーどもさ、全員戻らなかったそうじゃないか」


「え…………戻らなかった……って? 回収されたの、ぼくだけだったの……」


 自分のすぐ傍で人が死んだ。ヨンタが舌打ちし、渋面を背けるようにする。

 いや、思考を躊躇っていただけで、結末は想像できたはずだ。箱舟の思わぬ反撃に巻き込まれたあの瞬間、自分たちがどうなったかを。

 あの箱舟に中継衛星を乗っ取るなんて芸当ができたのなら、軌道甲冑の姿勢制御システムだって似たようなものだろう。システムを書き換えられ操られたVLSたちは、〝パープルの子〟に対抗するトラップとして使い捨てられたのだ。


 ――――やめ――――た――助けて――――くれッ――――――――!!


 回線越しの悲鳴がまざまざとよみがえってくる。あの場に直面して立ち尽くすしかなかったハルタカには、もう何も言い返すことができない。


「お前が殺した――なんて言うつもりはないけどね。あいつらはただ弱かったから死んだだけだ。自然界の法則さ」


 暴言めいた彼の台詞に、ヨンタの目つきが強ばる。

 騒ぎがこれ以上大きくならないように制止した方がいいだろう。そう判断したハルタカは、言わせてあげてと、ヨンタの袖を引っ張る。


「けどね、それでも僕には立場というやつがあるんだ。だからお前をこうしてやらないとみんなに示しがつかなくてねッ――」


 気づけば、こちらに詰め寄ってきていたニルヴァの手のひらに、頬を強く打ち払われていた。思い出したように痛みを覚えてすぐに、じんと不快な熱を帯び始める。


「……なるほど。暴力は懲罰の対象になるけど。ニルヴァ、わかっててやったの?」


 違う、そんな建前なんて今はどうだっていいのに。

 けれども彼の憤りをどう受け止めるか逡巡する暇もなく、後ろからもう一人が室内に飛び込んできた。

 ざわめく人垣を押し退けて躍り出てくる。唖然と振り返ったニルヴァに立ち塞がったのはルリエスだ。

 何の躊躇いも容赦もなく、懐に飛び込んだルリエスの拳がニルヴァの顔面に命中し、そのまま床に殴り倒していた。


「――――――ッッ!? なにすんだよルリエスッ! これ、僕の血がっ…………ひぃっ」


 最後は言葉にならない。

 地にだらしなく這いつくばったニルヴァ。鼻血に濡れた彼の顔面を、ルリエスが今度は蹴りつける。最初から戦意などなかったかの顔つきになったニルヴァの髪を、乱暴に掴み上げる。

 それでもルリエスには言葉もない。ただ無心に振り乱された茜色の髪の狭間に、まるで他人事のように凍り付いた姉の表情が垣間見えて怖くなった。


「やめてよルリ姉ッ!!」


 気づけばハルタカは飛びだしていた。流体ベッドから転げるように抜け出て、踏ん張りのきかない体に戸惑う余裕なんてなくて、必死にルリエスに飛び付き、その腰にすがっていた。

 動揺から我に返ったヨンタが、慌てて助太刀してくれた。ルリエスの右腕を絡め取って、これ以上ニルヴァに制裁を加えられないようにする。でも彼女はまだ四肢が張り詰めたままなのがわかる。


「もういいから、ルリ姉。こういうの、ぼくは嬉しくないよ。どうにもならないよ……」


 こんな悲しい声色になんてしたくなかったのに、それでもどうしたらいいのかわからなくなった。加減を忘れて無茶をする姉に怒ればいいのか、悲しめばいいのかも。

 ただ彼女の体から少しだけ緊張が解けたのを感じとって、もう安堵していいのだと、震える己が心臓に言い聞かせる。


「…………ごめん、ハル」


 そう、ただ一言だけ口にするルリエス。ハルタカの思いを聞き入れてくれた彼女は、けれども本心を見せない。

 視線を逸らせると、集まっていた何人かが茫然としたニルヴァを介抱しているのが見えた。


 ルリエスはすぐに風紀委員の連中に拘束され、大人しく部屋から連れ出されていった。

 途端、押し寄せてきた疲労に耐え切れず、ハルタカは床にしゃがみ込んでしまう。


「こちらで騒ぎを押さえられなくてごめんなさい、ハルタカ君」


 遅れて指揮室から駆けつけていたネイディア補佐官が顔を見せた。


「でも、基地内で君を慕う人間が多いのと同じくらい、君をよくないように思ってる人たちもいるの。今回のダイバーたちの殉職で、残念だけど基地内に不穏な気持ちが広がってる。みな落ち着く必要がある。もちろんルリエスもね。だから、とにかく今は休んで」


 そんなネイディアの苦々しげな視線を、今の自分には受け止めることができなかった。

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