軌道をめぐる同行者6

「じゃあな、しばらくはおとなしく安静にしてろよ。お前の言ってた箱舟の件は、オレからラムダに報告しとくから」


 何かあったら呼べよ。そう言ってヨンタが退室してしまうと、集中治療室にはハルタカひとりだけが取り残された。

 機材の低く唸る音だけが鼓膜に届く。ここには覗き窓すらなく、基地の状況がわからない。網膜下端末経由で基地内ネットを確認すれば情報は得られるが、ネイディア補佐官の言葉が脳裏をよぎり、気乗りがしなかった。

 自分をよくないように思っている人たちもいる。考えてみれば想定できたことだ。

 AI技術に由来するシステムがVX9に組み込まれている事実が、ニルヴァによって基地内に知れ渡ってしまった。そんな人間が、護衛に付けたダイバーたちを見殺しにひとりだけ戻ってきた。

 時折ドア越しに聞こえてくる通行者の声。それが非難の声にも錯覚されて、冷たい人間だと評価されてきた自分でも、さすがに耳をふさぎたくもなる。

 それに、あんなにも取り乱すルリエスを見たのはいつ振りだったろうか。ニルヴァは平気で他人を傷つけられる人間だけれど、それでもハルタカの命まで奪おうとしたわけではない。なのに弟の何を守るために姉が拳を振り上げたのか。ハルタカにはもう何も考えられなくなる。

 そうして思考が無の底へと沈殿していくと、ハルタカの意識はある違和感に行き着いた。


 ――あれ……何だろう、これ。何となくだけど、いつもの基地と雰囲気が違うような。


 そういえばおかしなことだ。さっきだってそう。なぜ外のざわめきまで自分の耳に入ったのか、ハルタカは今さら疑問に思った。密閉性の高い〈群島〉のドアや壁は、そんな生半可な構造じゃないはずだから。

 途端に違和感が胃のあたりまでせり上がってくる。何の変調だろうか。網膜下端末でヨンタを呼び出す。なのに、いつまでたっても応答がない。


「…………なんだ、聞こえてないのかヨンタ? まさか、また通信障害……」


 中継衛星だけにとどまらず、この基地のシステムまで箱舟に乗っ取られていたとしたら。

 ゾッとして周囲を見渡す。ハルタカのベッドを取り巻く医療用の機材が、自分の生体状況を測定し、規則的に動作していることくらいしかわからない。


【――――意外と察しがいいわね。飲み込みが早いやつ、うちも嫌いじゃないわ?】


 思いがけず鼓膜の裏側でした声に驚いて、ベッドの奥まで飛びのいていた。

 自分が身を委ねていた流体ベッド――その足元のあたりに、いつここに忍び込んだのやら、見知らぬ女の子が座っていた。


「びっくりした。君、どこの子なの? どうやってここに入ってきたの」


 真っ黒な色をした、カラスアゲハの翅を思わせるワンピースのドレス。首元から肩にかけてを、ヴェールみたいに透きとおったマフラーで覆っている。


「――いや、違う。君は訓練生じゃない。君は……まさかあの時の」


 どう見てもジェミニポートの制服じゃなかった。そこから伸びる細く真っ白な手足を、ベッドに腰かけたままぶらぶらと退屈させている。

 ぼんやりと気だるげな表情をたたえハルタカを伺う顔はまだあどけなく、ちょうどこの前に講義した子どもたちと似た年頃のものだ。けれども合成物のように鮮やかな薄紫色をした髪は、基地で会っていれば忘れるはずがないほどに長く、そして計算しつくされたように正確な波を描いている。

 そもそも、この女の子は人間ではないことを隠そうとしていなかった。彼女の頭の両脇に、髪の毛が不自然な三角形に起き上がっているのだ。それがぴくんと蠢く。映像遺産でなら見たことがあるネコ科の動物みたいな耳状の器官が、ちょうど頭部から生えていると言っていい。

 と、あまりにそこを凝視しすぎてしまったせいか、こちらに向けられていたオレンジの瞳が不審そうに窄められ、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。


「……そうだ、ぼくは君と一度会ってる。ほら、ぼくが軌道を漂流してた時。違う?」


 あれはまぼろしなんかじゃなかった、と朦朧としていた漂流時の記憶が呼び覚まされる。


【それさ、ハルはいつの話を言ってるの? 二〇時間前の漂流、それとも三五〇四〇時間前の漂流、さてはて、どっちのことかしら?】


「えっ…………どっち、って……? っていうか、ぼくの名前、なんで知って――」


 動揺して返答に詰まってしまったこちらに、女の子は精一杯の微笑らしき表情を浮かべる。

 と、まばたきした次に彼女が跡形もなく消え、もう一度まばたきすると仰向けのハルタカの上にまたがっていた。


【うちさ、実体リアルの男の子見るの初めてなのよね。むふふっ、感極まって口から心臓エンジン出ちゃいそうだわぁ……】


 鼻息が荒いし、この至近距離だ。驚愕のあまり呻き声が漏れ、後ずさろうにもこれ以上逃げ場はない。耐えがたい距離感に目線を逸らせば、この奇妙な女の子のおしりのあたりに、さらに奇妙な蠢くものを発見する。

 なんとあれは尻尾だ。ネコ科の耳に対応した、体毛に覆われた尾が生えているのだ。


【どこ見てんのよ。うちとハルの違いがそんなに興味深いのかしら?】


 応じて耳がピクリと伏せられ、挑発するようにユラリと尻尾が立ち上がる。人間にそんな代物が付いていた歴史はない。


「わっ――だからちょっと待ってって!」


 咄嗟に彼女を押しとどめようと伸ばした手が、ドレスから剥き出しの肩を突き抜けて向こう側の空を掴んでいた。


「――ホログラム! ぼくの目にだけ見えてるのか。ってことは、ここに君の実体はない。君は基地のネットワークを乗っ取ったの?」


 だったら全て説明がつく。自分の網膜下端末に聞こえない音が聞こえたことも、管理の厳重な基地内に部外者である彼女がいることも、そして彼女が人間ではないことも。


【ご名答、と言いたいとこだけどさ。〝ハルの網膜下端末を借りている〟が正解よ。基地を乗っ取っただなんて心外。うちになんのメリットもないし、演算リソースの無駄づかいで疲れる】


 再び女の子が掻き消えると、今度は重力環境にもかかわらず天井を逆さまに歩いてみせた。

 驚かされたハルタカは、瞬きしたり目を覆ってみたりする。

 確かに、女の子は網膜下端末が描画している映像データだとわかった。眼輪筋の伸縮に連動する網膜下端末の特性が、女の子の姿にまで影響を与えていたからだ。


【そもそもさ、ハルはVX9のシステムコードにわざと自分の網膜下端末への侵入経路バックドアを潜ませてたのよね? 誰かぼくをハッキングしてくださいと言わんばかりの、あからさまなやつ。『アリス=サットのみなさん、ぼくとお友だちになりませんか?』とか求愛のメッセージ入りだったし】


「VX9のバックドア……………………そっか、君はあれを通じてここまで来たんだ」


 彼女は嘘を言っていない。事実、ASとの意思疎通手段を模索していた時期に、その可能性の一つとしてそういう仕掛けをVX9に仕組んでいた。


「ってことは……ひょっとして君、ぼくの網膜と直結してる、ってこと!?」


【そうよ。自分であんな隙つくるとか大ばかじゃないの。ハルは死にたいの? 命は一度っきりしかないのだから、大切にしなさいよお馬鹿!】


 何故なのか、女の子はまるで自分のことのようにハルタカを叱ってみせる。

 事実、そのバックドアとはVX9開発チームとしての立場を悪用して付け加えたものだった。もしバレれば非難されても釈明の余地などないし、味方を撃つなどと罵ったニルヴァの言ったとおりになっても不思議じゃなかったのだ。


【だけど、今回は例外中の例外でうちが引っかかってあげたわ。あいつらにハルが弄ばれるのもさ……うちもなんか癪だったし】


 そう言って面倒くさげに目を逸らせた彼女の頬は、ほのかに紅潮していた。


「あいつら、って……?」


 あまりに見透かされた話しぶりに、ハルタカもそう言い返すのがやっとだった。


【――ハルたち人間が〈箱舟〉って呼んでいる概念。箱舟はうちらの敵でもあるからさ】


「じゃあ、君はあのパープルの――つまり、アリス=サットのAI……人格プログラムなの?」


 この女の子について端的に表現した言葉を口にしてみる。ASの内部にはきっと、人間の脳に相当するAIが搭載されているはずだ。

 自律思考型戦略迎撃衛星システム。彼女らはその名称が示すとおり、人間からの命令なしに、自らの頭だけで考えて箱舟と戦ってきた戦略迎撃衛星だと目されてきたのだから。


【ぶっぶー! やめてよねそういうの。こんなにかわいいうちをAI呼ばわり? 人格プログラムだとかよ最悪。乙女のハートが傷つくわ】


 ところが彼女は、何故なのか唇をとがらせへそを曲げてしまった。


【ハルってば相変わらずレディの扱いがなってない。うちのこの性格のよさが滲み出たルックスなんて、生まれ持ったもの以外のなにものでもないじゃない】


 どう見ても性格が悪かった。

 それに尊大なことを言ってのけた割に、いじけて壁に落書きまでし始める。そういえばルリエスも絵画の趣味を持っているが、人類にして基地内前衛派の最右翼であるルリエスに比べ、こっちはAIの癖におそろしく下手くそだ。

 いや、うっかり性格の歪んだ下級生を相手にしているつもりになっていたが、我に返ってみればこんな珍妙で冗長性と無駄の権化みたいなAIが果たして実在していいのか、技術者肌のハルタカには全く想像が及ばなかった。


「ああっ、そんなとこにまで描かないでよ……」


 ついに医療機材にまで落書きし始めた。ベッドサイドモニターの上に〝私が助けてやったのにボーイミーツガールのときめきがない〟だの〝この波形が絶好調なのは私のお陰〟などと下手くそな文字で書きなぐる。

 それを見て、彼女の訴えたかったことの意味がようやく理解できた。壁一面の落書きの絵は、彼女とハルタカが最初に出会った四年前――工場群島での漂流を絵にしたものだったのだ。


【いいじゃない、こんなのどうせハルの目にしか見えてないもの。せっかくうちに拾われた命なんだから、もっと面白く愉快に生きなさい】


「ごめん。ぼくも初めてのことで、一体何から話していいのかわからなくなってるんだ。とにかく助けてくれてありがとう、君は命の恩人だ。漂流したぼくを助けてくれたの、君だったんだよね? これは思いがけない、ぼくたち人類とASの素敵な出会いファーストコンタクトだと思う」


 ハルタカにとって精一杯の言葉を送ると、彼女は照れくさそうに頬を染めた。ようやく機嫌を直してくれたのだろうか。


【えへへへ、褒められちった。助けたっていうか、うちはハルの居場所を横流ししただけなのよね。ほら、さっきのぶん殴ってた赤くておっかない子】


「それってルリ姉――ルリエスのこと?」


【それそれ、その子。あんとき衛星が箱舟に掌握ハックされてたから、地球の反対側にいたその子の回線ネット匿名アノニマスで漂流中のハルの軌道座標を送り付けたやったの。その子がうちのデータを信用しなかったら船は捜索を諦めたかもしんないし、そしたらハルも助からなかったわ。ね、うちらの出会い、運命的でしょ?】


「ああ、うん、そうだね。すごく運命的だし、みんな繋がってた。そっか、それでヒューストンがぼくを見つけれたのか。ルリ姉、さっきはそんなこと一言も言ってくれなかったのに……」


 基地内で暴力沙汰を起こしたルリエスはニルヴァと同様に、二、三日は懲罰房での謹慎となるだろう。体が動くようになったら、真っ先に話をしに行こうと誓う。


【ふっふっふ。さて、この出会いは運命的であり、そして必ずや未来につながる物語の幕開けとなるわ】


 そうしてこの不思議な女の子は思いを新たにして、軽やかなワンステップで落書きを消し去る。それからハルタカの前でスカートの裾を摘まむ仕草をして、儀礼的なお辞儀カーテシーをしてみせる。


【だから、まずは名乗ってあげる。みんなはうちを〝スプトニカ〟って呼んでくれてるから、まあハルも遠慮せずそうなさい】


「スプ……トニカ?」


 スプトニカ。どこかで聞いた響きを持つ名前。それにこの時ばかりはこのスプトニカも、年頃の女の子みたいにはにかんでみせた。


【うひひっ、人間に名前呼ばれるの初体験。やば、照れくさくてウケる。はずかしい】


 恥ずかしい、などと感情を吐露するアリス=サットのスプトニカ。

 彼女の振る舞いには唖然とさせられるばかりだった。外見も仕草も派手ながら人間に準じたものだ。それどころか基地内の子どもたちもかくやと思わせる、予測のつかない行動の数々を、この数分の間にハルタカの前で演じてみせた。


【さあ、聞きなさい人類代表。はアリス=サット、個体識別名称スプートニカハリオン・トゥエルヴスプローラ。人格プログラムなんかじゃない、正真正銘の、一個体の知的衛星生命体であると当星はここに宣言するわ!】


 したり顔でそう宣うと、自称ASスプトニカを盛り立てるように、ハルタカの網膜下端末上でど派手な視覚エフェクトが炸裂した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る