寓居の海原2

 途方もないスピードで眼下を流れすぎてゆく銀色の地表。かつての面影を失ったこの惑星と、星くずを遠景に配した宇宙との境界線上を、少女がひとりたゆたっていた。

 それは少女だと一目にして明らかだった。船外服も身につけず、己が素肌を宇宙にさらしたままだったからだ。重力も大気もない、生身では生存不可能な宇宙空間で、地平に向けた果てしない自由落下運動に己が身を委ねている。

 風が吹くはずもない地球軌道に揺らめく、薄紫の巻き髪。両手を精いっぱいに広げ、カラスアゲハの翅を模した装飾のワンピースをはためかせ、海原を越える渡り鳥のように不可視の風に乗っていく。

 カラスアゲハの少女は、ただ生身で宇宙空間を飛べるだけではない。人間に似かよっていながら明らかに異なる、いくつかの不思議な特徴を持っていた。

 その筆頭が、獣みたいなとんがり耳だ。幾重にも合わさった三角形の頭髪が両脇から起き上がって、音のない世界なのに変化ひとつ聞き逃すまいと、それをヒクヒクとそばだてている。

 と、眼下に広がる無彩色の景観の方で、唐突に閃光が瞬いた。次々に光筋が交差し、それらは複雑に交錯し、やがて閃光が幾つもの連鎖反応を起こして無彩色の大気を彩る。

 あれは戦闘の炎だ。カラスアゲハの少女はまるで眠りから覚めたように瞼を開き、鮮烈なオレンジの瞳がその動向を見届けた。


「――当星はアリス=サット。個体識別名称スプートニカハリオン・トゥエルヴスプローラ。我々のネットワークに深刻性のある障害の発生を確認。当星のこの声は緊急時の対応として、秘匿的手段をもって送信している――」


 小さな背丈から想起されるものより幾分低いトーンで、淡々と声を発した。言葉遣いもまだあどけない顔つきに不似合いというより、そもそもこの環境下で発声できるはずがない。


「――誰か、当星の声を拾えていたら、応答を請う――」


 そこで彼女の声が、先ほどまでの冷淡さを抑えきれず、苦しげに乱された。


「――誰か……みんな…………当星の…………うちの声を――聞いて」


 途端、彼女を取り巻く宇宙までもが醜く歪んだ。あの美しい星くずの光景が、人工的なまだら模様のブロックノイズで欠け落ちていく。

 遂に言葉を失った少女の嘆息と同時に、周囲の宇宙が〝接続失敗NOT FOUND〟埋め尽くされた。


 自律思考型戦略迎撃衛星システム、通称アリス=サット。

 人類文明に寄らない技術によって組み上げられたその躯体の中枢――直径五メートルの真球状に穿たれたコントロールルーム内。カラスアゲハの少女――ASスプトニカは、ノイズに暗転したスクリーンの中心に茫然と浮かんでいた。

 周囲でざわめくノイズを振り払おうと手を掲げる。暗転するスクリーン。反して浮き彫りになった彼女の肌は、さながらデジタル着色されたかのように正確無比な白さだ。淡く光を放つその輪郭像はどこか神秘的で、遠景に瞬く星たちと彼女に違いはないかのように見えた。

 コントロールルームの周囲三六〇度を網羅する全天球スクリーンが、ASスプトニカの意思に応じて、先ほどまで繰り広げられていたであろう仲間のASたちの迎撃行動を再現する。こうして光学映像としての姿は捕捉できても、自分が発した声を仲間たちに届けることはかなわなかった。


「……さて、さすがのうちも途方に暮れるしかないわ。みんなと音信不通なんてトラブル経験したくなかったのに。こんな果てしない海原で孤立したとき、伝えたい相手にどうやって言葉を伝えればいいのかしら…………」


 諦めも濃厚な文句をひとつ、それでも目尻に意思を込め、精いっぱい強がった顔つきで。

 続いて大仰にパチンと指を鳴らして、今は外部カメラ越しの定点観測しかしてくれていない全天球スクリーンに、新しい映像を重ねてやる。

 映し出されたのは軌道甲冑――それも試作開発機VX9の録画映像だ。


【やあ、久しぶり。君と会うのは……ええと、たしか前回から十四日ぶりだったかな】


 もう聞き慣れたあの少年の音声データが再生される。彼にはないだろう、ふさふさのとんがり耳を小刻みに震わせるスプトニカ。


【…………触るよ。いやだったらごめん。ちゃんとあやまるから怒らないで】


 身を守るための大仰な鎧を操って、彼は自分の躯体へと近付いてくる。慎重に、慎重に。距離を詰めアプローチしてくる彼の顔までははっきりと見ることができない。少年と少女、互いを幾重にも隔てる壁のせいだ。


「ふっ……いっつもおかしなこと言うのね。別にうちは、いやでも、怒ってるわけでもないって、うまく伝わってるのかしら?」


 それでもASアリス=サットのスプトニカは、届かぬであろう少年の映像へと手を差し伸べ、


「…………ハル。…………ハル……タカ…………」


 誰に聞かせるでもなく発した声は、どことなく誇らしげで。けれども愛おしげになぞるこの指先も、半ばに滑り落ちる。

 スプトニカは生まれ持った生の実感を、これまで一度も失ったことはない。だから感情とは自分という知性のすばらしい獲得物で、どんなに正確無比な演算結果と矛盾したとしても、これを否定するなんて誤りだ。

 それでも、これはただの感傷でしかないとわかっているつもりだった。

 がらんどうのコントロールルームにひとり、こぼれた吐息が哀しげな残響を返した。

   ◆


 ――西暦を刻む宗教崇拝的しきたりすら文明から淘汰された、さらにその先の時代。

 未来予測機関プロフィット・エンジンと名付けられた高位人工知能AI群によって成立し得た栄華と安寧の時代は、の一体がもたらした未知の万能素材――フューチャーマテリアルの発明によって最悪の終焉を迎える結果となった。人類の技術的特異点を凌駕したフューチャーマテリアルの発明が未来予測を大きく狂わせ、未来予測機関らの間に齟齬を生む要因となったのだ。

 各国の未来予測機関は、互いに人類を守るという使命に従い、主人を差し置いての人類保護戦争を実行段階に移す。

 だが未来予測機関が始めた戦争は徐々に地球を摩耗させ、それでも未来予測機関は人類を滅亡から回避させる未来を予測演算し続けた。

 そうして訪れた人類保護戦争の結末こそが、地表のすべてが銀色で埋め尽くされた世界。

 何ものかの命令プログラムのままに自己複製と増殖を繰り返した銀塊――フューチャーマテリアルの海原に、何もかもが飲み込まれた果ての地球。

 それからどれほどの時間が経過しただろうか。

 地上での生存圏を失った人類の末裔たちは、逃げ延びた地球軌道上で仮初めの社会を確立し、

 そして彼らはもうそれ以上どこにも行けない、寓居の民となっていた。

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