フューチャーガールズ・テレサット 次世代少女通信衛星機構
学倉十吾
Orbiting-0: 寓居の海原
寓居の海原1
――空はとても暗く、地球は青かった。私はまわりを見回したが、神は見当たらなかった。
旧暦一九六一年、人類史上初の有人宇宙飛行士となった、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンが語ったものとして記録されている有名な一節だ。
そんな大昔の逸話が連想されるのも不思議ではないと、ハルタカはこの光景を前に思う。
今、ハルタカの眼前を遮る耐圧
現在ハルタカは、
「――ヒューストン。こっちは予定位置に付いた。合図したらカウントを始めてくれ。どうぞ」
ごく簡潔に状況を返す。回線が拾った自分の声は、まだ変声期を終えたばかりの少年のもの。まったく、様にならないなと思う。網膜下に瞬く投影
【――ハルタカ訓練兵。こちらヒューストン。準備は万端だ。合図は何にする? どうぞ】
交信相手であるヒューストンからの応答がすぐさま返る。視界の片隅で、相手側オペレーターの厳めしい金髪男がモニターされているのがわかる。
ハルタカはグローブで闇の彼方を指し示す。カメラ越しにあちらにも見えているだろう。その先に、眩いばかりの白光が、さながらダイアモンドリングのごとき輝きを放ち始めていた。
ハルタカの眼下に在るものが、次第にその全貌を照らし出されていく。
「現在の軌道座標からだと、もう間もなく。我らが地球の夜明けだよ」
それは、視界に収まりきらないほどの、途方もなく巨大な天体。分厚い大気層に覆われた、太陽系第三の固体惑星。
自分たち人類が生まれたとされる場所――地球だ。宇宙のただ中で静止していたかに見えたハルタカの体も、実際には万有引力のままに、地平の向こう側へと落下し続けていたのだ。
だが、太陽光が嘗めるように暴き出していくその地表には、かつての面影はなかった。
地平に弧を描く、淡青色のヴェールをまとった大気層、そして白く渦巻く雲の下は、ほぼ全てが鈍色の銀世界に変貌している。陸部はかつての起伏を残しながらも規則的な銀の幾何学模様で塗りつぶされ、海洋までも銀模様の包装でパッケージされたかの有り様だ。
ガガーリンの口にした青い惑星は、もはや失われた遠い未来。
「予定時刻だヒューストン。これより試作開発型
その交信を合図に、窒素ジェットを噴いたハルタカが急上昇した。
向かう先は、自身から伸びた命綱の基点。縛る重力も空気抵抗もない、無限の慣性力を追い風に、ものの三秒でそこまで到達する。
命綱の基点には、全長四メートルほどの奇妙な人型巨人が浮かんでいた。軌道上における人間の船外活動能力を補助するために開発された、船外服拡張ユニット――
VX9と呼称された試作開発機は、ちょうどハルタカの船外服を一回り大きくしたような造型をしていた。補助装備を詰め込んだ大がかりな
ハルタカは無重力下で姿勢変更を続け、最短動作でVX9をキャッチする。命綱を巻き取りつつ機体を蹴ると、宙返り体勢を経て胸部ユニットに自身の下半身を潜り込ませる。ちょうど胸部と頭部が欠けた見てくれの巨人VX9に、船外服の上半身だけが露出した格好に収まる。
VX9のシステム起動に同期し、網膜投影グラフィックスが新しいものに変遷する。
「――VX9、システム起動完了。そっちは問題ないか、ヒューストン?」
【アプローチ開始からタッチダウンまできっかり二〇秒。相変わらずお見事だぜ、ハルタカよ】
回線向こうで嘆息ひとつ、金髪男が緊迫の表情をようやく綻ばせた。
「見事なのは、ぼくの腕前じゃなくて機体の方だよ。誰が装着しても、どんな環境下でも一定の性能を発揮できるマシンに仕上げるのがぼくたちチームの目標だ。みんな本当によくやってくれてる」
両手グローブで、自身と一体化した軌道甲冑の腰部に備わるコントロールユニットを掴む。指先の操作に呼応した各部スラスターノズルが、真空下に無音で蠢いてみせる。火の入ったエンジンの咆哮は届かないものの、脈動が船外服越しに鼓膜を振るわせてくれる。
【VX9との連携開始を確認。
「了解。VX9、オペレーション第一フェーズを
腰部コントロールユニットを大きく押し下げると同時に、試作開発型軌道甲冑VX9が地平の彼方へと飛び立った。
ハルタカの二本脚をそのまま延長したかのような脚部航行ユニットが、
「――戦闘機動テスト。左ロール」
ハルタカの操縦に応じて
「――右ロール。次、左ヨー……」
右
機体の基本機動が流れるようにテストされる。右
「ああ、そうだ……ここでわざと姿勢を乱してみようかな。ちゃんと姿勢復帰できるかも試しておかないと」
【おいおい、テストであんま無茶すんな。シミュレーターじゃないんだぜ? お前がそのままどっかにすっ飛んでっちまってオレが追いつけなかったら、それこそ
「そうならないための自動姿勢復帰システムをこいつに組み込んだのだから、ぼくが率先してその有効性と信頼性を証明しないとね」
【あっ、おいハルタカ――】
狼狽えるヒューストン側の声を置き去りに、両手でコントロールユニットを乱暴に捻る。VX9の各部スラスターが、出鱈目な方向に推進剤を噴き出す。
思わぬ
「……ぐっ………………自動姿勢復帰、動作はしているけど……」
船外服内で体中が締め付けられ、胃の内包物が逆流しそうだ。ブザーがヒステリックな音を上げ、
それでも、ゆっくりとながら姿勢の安定を取り戻していくVX9。モニターしている
ふと視界を銀の光筋がよぎる。地上から宇宙へと一直線に伸びるあの構造物は、赤道上に三基残されている旧時代の軌道エレベーターだ。あれが視認できる軌道座標まで流されてきたとしたら、自動姿勢復帰にまだ時間がかかりすぎているのだろう。システムに改良の余地がある。
そうして制御不能から約一二秒後。高ぶる呼吸を押さえ込み、VX9が安定姿勢を概ね取り戻せた時のことだ。
――あれは……?
ヘルメットバイザー越しに映る地球軌道の景観に、あるものをハルタカは視認した。
「ヒューストン、こちらVX9。自動姿勢復帰システムの動作テストをクリア。ただ、こんなところで面白いものと会った。ちょっと寄り道するよ」
応答はない。ヒューストン側のモニターが
――やっぱり間違いない、あれは彼女だ。
だが大したことじゃない。遮る壁も目印もないこの世界では命取りになりかねない事態だが、ハルタカにとってそれを忘れさせるほど心惹かれる存在と遭遇できたのだ。
ハルタカの眼下、わずか二〇〇メートルほど離れた軌道に、こんな光景には場違いとも思えるものが居た。
「やあ、久しぶり。君と会うのは……ええと、たしか前回から十四日ぶりだったかな」
さらに近づこうと、ハルタカは機体の高度を落とす。あっという間に手が届きそうになる。
ハルタカが遭遇したのは、色彩を失った地球軌道からの眺めにはいささか不似合いな、
遠巻きには花冠に錯覚される、複雑怪奇な
しいて定義を当てはめられる言葉を探せば、それは人工衛星。
「珍しいね、君がこんな浅い地球深度まで上がってきてるなんて。どうしたの……ひょっとして友だちとはぐれちゃった? ふふ、まさかね。どんな技術を使って君たちが自分の座標を測位してるのか、こっちが教えてほしいくらいだもの」
しかしVX9と同じ地平へと流れていく花冠型は、人工衛星と呼ぶには異質だった。自分たちの軌道甲冑と並べてみて、この造形だけ取っても越えがたい技術水準の壁が見出せる。ハルタカの目には、別の星からやって来た高等文明によるものとすら思えるほどだ。
「――アリス=サット。君たちは一体誰が
"ArtificiaL InterCEption SATellite"、通称
特にこの薄紫色の花冠型は、これまでに確認されているアリス=サットの中でも、ハルタカにとって最も顔なじみと言える一基だった。
「…………触るよ。いやだったらごめん。ちゃんとあやまるから怒らないで」
今の彼女はさながら花弁を広げたかのように、半透明のヴェール状組織を展開していた。
――あのヒラヒラしてるの。太陽電池パドルに相当するパーツなのはわかってきたけど、なら今のこの子はリラックス状態って受け止めていいのかな……。
スラスターで微調整して
人工衛星としての彼女を構成する躯体――その
通信機のチャンネルを合わせる。すぐに
【――――……евушки――гляньте】
チャンネルから拾ったのは、女性の声だ。悲しげな旋律を奏でる、まだあどけない少女の歌声。伴奏のない独唱で、言語も耳慣れないものなので意味はわからない。そもそもハルタカたちの文化圏では音楽を耳にする機会も貴重だから、これはおそらく旧い文化のものなのだとは推測できる。
――Гляньте на дорогу нашу
――Вьётся дальняя дорога
――Эх―да развесёлая дорога
少女はさらに言葉を紡いでいく。どことなく不安定に口ずさまれる歌には、不思議と現実味があった。一体誰がどうやって歌っているものなのかもわからない。ただ一つ確信があるのは、どうやらこの音声データが花冠型ASから電子的に発信されているもので、自分たち人間にとって未知の存在であるこの人工衛星たちを〝彼女〟たらしめる、根拠の筆頭だった。
だが、その歌が唐突に切り上げられた。彼女に寄りかかる部分を通じて、鈍い振動が伝わってくる。ふと見渡すと、彼女はさっきまで広げていた太陽電池パドルを収納し始めていたのだ。
「……どうしたの。今日の食事はもうおしまいなのか。…………いや、あれは……」
薄紫の躯体越しに眼下を見下ろして、ハルタカ自身もようやく事態を把握した。自分たちの位置するよりもずっと低軌道側で、無数の光が繰り返し明滅しているのが見えたからだ。
「――――戦闘だ。そっか、あそこで君の友だちが戦ってるんだね」
爆発を示す赤光がチラ付く。迸る一条の閃光は、何らかの指向性エネルギー兵器のものか。
遠方で繰り広げられる交戦を他人事のように観察していた、その時のことだ。
【――……ルくん……――……ハルく……――……ハル……ん……なの…………?】
唐突に、ノイズ混じりの音声が回線から吐き出された。先ほどまでの歌声でもヒューストンのものでもない、だがハルタカにとっては個人的に耳なじみのある女性の声。
果たしてそれに驚いたのかどうか、掴まっていた薄紫色のASがスラスターを噴き、ハルタカから離れ始めていた。
【――……ハルく……――……あっ、繋がった!? そっちは無事なの? 状況を教えなさい!!】
彼女に置き去りにされてしまったハルタカの視界に、交信相手の顔が割り込んできた。鮮やかな
「……あーあ、行っちゃった。もう、脅かさないでよルリ姉。折角イイところだったのに……」
【ビックリしたのはこっち! 急に消えちゃったからから大騒ぎになってたのにわかってないの?! 非武装の機体で単機行動なんてどうかしてるよっ! わたしもヨンタもすっごい心配してたんだから!!】
「……そっか、そうだったね、ごめん。今から帰投するよ。ヒューストンの軌道座標を送って」
さっきまで見失っていたヒューストンの座標データが、〝ルリ姉〟を介して転送されてきた。さほど遠くまでは離れていなくて安堵させられる。
「ありがとうルリ姉。……心配かけてごめん。どうしても調べたいことがあったんだ」
【そうじゃない。わたしいつも言ってる。無茶はしないで。危ない真似はしないで、って】
萎んだように、少女の声が当初の勢いをなくす。こちらの無事にようやく落ち着きを取り戻せたのだろう、それ以上追求はしてこない。
【…………とにかく、ハルは無事に基地まで戻って。話の続きは部屋で。交信終わり】
「あっ――――まったく、あのひとは……」
急に冷たい声色に豹変したかと思えば、一方的に交信が切られてしまった。
命綱を見上げると、主を失って抜け殻のように漂う軌道甲冑VX9が視界に入る。歌う薄紫色のASはもう見えなくなっていた。
眼下には、銀色の海原に飲まれ朽ち果てた地球と、その上に墓標然と聳え立つ軌道エレベーターの姿。そしてここより遥か低軌道側――ハルタカらにとっては危険深度となる領域では、先ほどの交戦がまだ終わりを見せないでいた。
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