第19話 有り難い先輩

 それからも、那雪は信康にいろんなところに連れていってもらった。

 創業五十年の天丼屋『ド発天』、安価で上質のパスタ専門店『マクスウェル』、週刊誌にも取り上げられたことのある屋台のたこ焼き屋『とっつぁん』、経営する夫婦の仲の良さが評判の喫茶店『Sea&Wind』と……まさに、食べ歩きツアー延長戦ともいえるハシゴっぷりだ。

 と言いつつも、那雪は『玉ちゃん』の時点で限界を迎えていたので、『ド発天』や『マクスウェル』では何も食べず、『とっつぁん』のたこ焼きは三個だけいただき、『Sea&Wind』ではコーヒーを飲むだけに止まった。

 小さな身体とはいえ女の子としてはよく食べる方だと友達に言われている那雪なのだが、さすがに信康のペースには合わせられない。


「ふぃー、食った食った」


 各店のスペシャルメニューを例外なく攻略したにも関わらず、少し膨れた程度の見た目である信康の腹の中は、いったいどうなっているのだろうか? いくら理不尽属性とはいえ、やはり不思議である。

 でも、どの店でも例外なく美味しそうかつ幸せそうに食事をしている信康に、那雪はとても心癒されたし、商店街の広場のベンチで座ってくつろぐ今の彼にも、やはり癒される。

 細い糸目も大きく薄い口元もニコニコマーク。その上、いつもはニュートラルだった彼の雰囲気が、今はほわほわとした軽さと柔らかさにあふれており、まさに『御満悦』の三文字が全身で表れていた。

 彼の隣で座ってるだけで、その幸せが自分にも流れ込んでくる。


「なゆきちー」

「あ……うん、なに、先輩?」

「リセット、できたか?」

「ん……」


 そんな御満悦の調子のまま信康が訊いてくるのに、那雪は戸惑ったのだが。

 不思議と、重い気持ちにはならなかった。普通は、保留にしていた現実が戻ってきて、ズシリと気が沈みそうなものなのだが、自分の中にあるほわほわとした心の軽さの勢いが、この場に於いても持続されていた。

 これも、信康のおかげなのだろう。


「私は、桜花の気持ちを応援するよ」


 だからこそ、そのように言えた。


「でも、なゆきち、オカちゃんとはいつも一緒だったんだろ? オカちゃんが男に取られて、寂しくなったりしない?」

「そりゃ寂しいけど。一緒に居る時間が少し減るだけで、二度と会えないってことはないんだからさ」


 自分が、桜花の人付き合いをどうこう言える立場ではない。

 桜花には何度も助けらているし、今も……手帳の紙片の回収を手伝ってもらっているし、先輩への片想いについても、ずっと前から応援してもらっている。

 もっと、自分の幸せを考えるべきなのだ、桜花は。


「ふむ……なゆきちがそう決めたってんなら、俺はそれで良いと思うぜ」

「うん。でも、万が一、その草壁先輩とやらが桜花を泣かせるのなら、すぐさまぶっ飛ばしてやるけどな」

「ははは、あいつは基本良いやつだし、大丈夫だと思うけど……まー、その辺は俺も同意見だわな。カレッジの言葉を借りるなら、アレだ」


 カレッジ、と聞いて那雪は電気が走ったかのように反応する。信康もニッと笑って背筋を伸ばす。今出てくるあの言葉と言えば、やはりあの言葉だろう。



『正義は、みんなを、泣かせたりしない!』



 町のご当地ヒーロー、カレッジセイバーの謳い文句を二人そろって高らかに言うと、なんだか笑いがこみ上げてきて、抑えきれずに那雪は声を上げて笑ってしまった。

 信康も同じ気持ちなのだろう、ケラケラと笑っている。

 時々ゆるりと笑うことはあったけど、こういう風に笑う彼を、那雪は見たことがなかった気がする。

 彼の笑顔に、ドキッとした。

 彼の笑顔を、素敵だと感じた。

 彼の笑顔が、好きだと思った。

 それらを全部ひっくるめるた想いは。

 那雪に、一歩を踏み出す勢いをくれた。


「ありがと、先輩」

「俺は何もしてねーぜ? どうするかを決めたのは、あくまでなゆきちだ」

「それでもだよ」

「お……?」


 隣に座る信康に近づいて、那雪は寄りかかるかのように、自分の頭を彼の肩に預ける。

 結構恥ずかしいことだと自覚しているものの、与えられた勢いが、己の鼓動をいい感じに沈めてくれていた。

 今のこの体勢、傍目から見たらやはり恋人同士に見えるだろうか?


「ははは、今日のなゆきちは甘えんぼさんだなー。よしよし、いい子いい子」


 ただ、信康にとっては兄妹のじゃれ付きみたいなものであったらしい。……半ば予想出来ていたことであり、頭を撫でられるのもそれはそれで幸せなのだが、那雪が求めるものはそうではない。

 先ほどは鋭くこちらの心理状態を言い当てたというのに、ここに来て、この行動の意図に気づかない信康は、鋭いのやら鈍いのやら。

 少し肩透かしを食らった気分だが、今、那雪はここで立ち止まったりしない。


「先輩、私――」


 信康に寄りかかるのをやめて、改めて向き直ろうとした、その時、


「――――」


 那雪は気付いた。

 広場の片隅で佇んで、こちらを見ている、長身の少女に。

 ふわふわの長髪に、線の細い顔立ち。垂れ気味の大きな瞳と、それに比例するかのような大きなサイズの眼鏡。


「……桜花?」


 見間違えようはずがない。

 そして、今――桜花の顔に浮かぶ感情は、いつもの身近に感じていた柔らかさとは、遠くかけ離れたものだった。

 一文字で表すならば『緊』。そして、その後にもう一つ――


「!」


 感情が浮かぶ前に、桜花は踵を返し、背を向けて走り出した。

 文字通り、この場から逃げだすかのように。


「な……ちょ、桜花!?」


 慌てて呼びかけるも、桜花は振り返らない。

 道行く人と軽くぶつかりながらも、それでも体勢を崩すことなく、見慣れた後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまう。

 一瞬の出来事に、那雪は硬直するしかない。この前のように、自分と信康がいいムードだったので、気を利かせてこの場を去ったと考えれば辻褄が合うのだろうが……これは違う。絶対に、違う。

 それならあんな逃げるような走り方はしないし、何より、あの『緊』の表情の後。

 彼女には最も似合わない、あんな顔をするはずは――


「なゆきち」


 と、呼びかけられる声に、那雪はハッと現実に戻る。

 見ると、信康はいつもと変わらない表情で、立ち上がっている。

 先の『御満悦』状態から平時に戻るということは、それだけ、事の深刻さを承知している証だ。


「ボーッとしてる場合じゃない。今すぐ追いかけるぞ」

「……う、うん」


 わかっている。

 なんとか自分も立ち上がって、信康と共に桜花が走り去った後を辿るのだが、那雪の足取りは重い。

 理由がなんであれ、桜花にあんな顔をさせた要因は、自分にある。

 桜花自身の気持ちを尊重しようと、決意した矢先の出来事であるだけに、ああいう顔をされると、今、那雪は彼女とどう向き合えばいいのかわからない。

 何を話せばいいのかが、わからない。


「迷ってるな、なゆきち」

「え……?」


 走りながらも、またもや信康がこちらの思考を読みとってきた。


「俺も同じだ。オカちゃんと何を話したらいいのかわかんね」

「先輩……」

「でも、これだけはわかる。今のオカちゃんを一人にしちゃダメだ」

「……うん」


 そうだ。先ほどから生まれている胸の中のモヤモヤが、この問題を絶対に放置してはならないと警笛を鳴らしている。

 とても、いやな予感がする。今、桜花の中に仮襲名の神様が憑いているとしても。

 ただ、桜花と会って何を話せばいいというのか――と迷い、詰めたところで。


「先輩」


 なんとなく。

 信康と話していた時の軽快さの残滓が、那雪の中で一つの閃きを生んだ。


「ん?」

「桜花のこと捕まえたら、その足で『印度屋』に連れてってくれ」

「……おいおいなゆきち、今、そんなこと言ってる場合じゃ」


 那雪の物言いに信康は首を傾げるのだが、構わずに那雪は続ける。


「桜花と先輩と一緒に、何も考えずにビッグバンカレーでも食べて、いろいろリセットさせたら、何か話せることが浮かぶかもしれない」

「…………」


 一瞬、信康は驚いたかのように細い目を開いてこちらを見たのだが。

 直後にいつもの糸目になって、『なるほど』と頷いてくれた。

 とても、嬉しそうに。


「よっしゃ、その時はお兄さんが奢ってあげよう」

「うん。ありがと、先輩」


 そのように、やることが定まれば、自然と、那雪の重かった足取りは、呪縛が解けたかのように力強さを取り戻す。

 本当に。

 今、隣にいる人は、先輩としても男の人としても、有り難い。

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