第20話 譲れない一線
どこをどう走ってきたのかわからない。
全力のまま十分ほど走ったあたりで、やっと、真っ白だった頭が冷静を取り戻したのを自覚しつつも、もう五分ほど全力で走って。
気がつけば、菜奈神様の社がある、町外れの自然に囲まれた広場で、
「はあ、はあ、はあ」
桜花は、酸欠に喘いでいた。
祖父の遺伝なのか、短距離も長距離も足の速さに定評がある桜花なのだが、ペース配分も何もなく十五分も走ったとなると、さすがに厳しい。
「はあ、はあ…………はぁぁぁぁ……」
数分ほど呼吸を繰り返すことで、ようやく息が整うものの、今度は重いため息が生まれた。
まったく、何をしているのだろう、という自分への情けなさと。
草壁先輩、置いて来ちゃったなぁ、という罪悪感と。
――那雪と信康が、穏やかな空気の中で寄り添っているのを見た瞬間から、胸の中から溢れてくる疼きの感覚とで。
「あれ……」
嬉しいことのはずなのに。
「え……あ、あれ……」
あんなにも、自分は彼女のことを応援していたのに。
「な、なんで……?」
いざ、その時を迎えて、何故、こんなにも――
「ひぁ……っ」
気がつけば、涙がこぼれていた。
「ふ……ぐっ……はぅ……っ」
眼の奥が痛くなって、喉の奥が塩辛くなって、深呼吸をして落ち着こうとしても、ひ、と息が漏れて不安定になって。
ずっと抱いていた胸の疼きが、とても苦しくて。
なんだかもう、わけがわからなかった。
「……わかんない」
心の準備はしていた。
その時を迎える瞬間を、何度もシミュレートしていた。
その後の那雪や信康との向き合い方も、きちんとイメージしていた。
だというのに。
「わかんないよぅ……」
一瞬で、全てが吹っ飛んでしまって、わからなくなった。あの場から逃げてしまった言い訳も、那雪や信康との向き合い方も。
また、更にこみ上げてくるものを感じる。これ以上は駄目だと思うのだが、一度壊れた涙腺は緩く、再びそれが溢れ出そうになったところで、
「鈴木さんっ」
その声が聞こえてきたのは、菜奈神様の社の広場の入り口から。
一瞬、桜花は肩を震わせ、慌てて涙を拭って強引に呼吸を落ち着けてから振り返ると、そこにはマッシュルームカットの、整った造形の少年の姿があった。
今まで走り続けていたのか、息を切らしていながらも、疲労の様子は見せずに気丈にこちらを見つめている。
さっきまで一緒に歩いていた先輩の少年、草壁尚樹だ。
「広場に行こうとしたら、走ってる鈴木さんが見えたから、びっくりしたよ。慌てて追っかけたんだけど、鈴木さん、とても足速かったから途中で見失っちゃって……でも、よかった、ちゃんと見つけられて」
「……あ、あの」
「大丈夫?」
歩み寄り、未だに座り込んでいた桜花に手を伸ばす草壁。
一瞬、迷ったのだが、桜花はおずおずとその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。ただ、さっきまでの感情の暴発があったためか、彼と視線を合わせることができない。
「こういうことを聞くのもなんだけど。何かあったの?」
視線を合わせない自分にも構わず、彼は問うてくる。
いきなりあの場から逃げ出したとしても、こちらを咎める様子はない。
こういう気遣いは有り難いだけに、何も答えられない自分が歯がゆい。
「……なるほど。なんとなく、わかった」
しかし、草壁はそんな自分を数秒見ただけで、察したようだった。
「失恋、しちゃった?」
「え……あ、いや……そんなこと、ない、ですょ?」
「ははは、鈴木さんは嘘が下手だね」
「う……」
ぐうの音も出なかった。
草壁はもう一つ緩やかに笑い、
「じゃあ、僕とは遊びだったってこと? それはそれでショックかなぁ。僕は少しと言わず、結構本気にしてたんだけど……」
「う……ご、ごめんなさい」
「別に良いよ、気にしなくても。ただ……」
顔を背ける桜花の肩に手を置いて、やや強引にこちらに視線を合わせてきて、
「身の上くらいは、知っておきたいかな」
「――――」
ただ、そのように希望してくる。
その紫がかった瞳を目にした瞬間、桜花は、衝き動かされるかのように己の身上を話していた。
――幼稚園の頃、いじめに遭っていた自分を助けてくれた人がいたこと。
その時、その瞬間から、桜花の初恋が始まっていたこと。
何度もその人に守ってもらう度に、その想いは強くなっていったこと。
ただ、言葉にする勇気がなくて、それでも心のどこかで何とかなるかもしれないと言う気持ちで、その人のことを想い続けてきたこと。
そして――言葉に出来なかったがために、時間切れが訪れたこと。
「その人が、他の誰かと楽しそうにしてるのを、見ちゃった?」
「…………」
草壁が問いかけるのに、桜花はコクリと頷いた。
――那雪に信康とのデートをけしかけたあの時から、桜花は、あの二人から目を逸らした。
十年以上、表に出さずに抱き続けてきた自分の初恋が、本当に終わってしまうことに耐えられなかったから。
そして。そのデートの日を待たずして、那雪と信康が寄り添っているのを見たとき、『ああ、上手くいくんだな』と感じた。
瞬間、感情の奔流が止まらなかった。自分でも信じられないほどに。
「じゃあ、今まで僕と会っていたのは、キミの現実逃避の受け皿だったってこと?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。キミの心の隙間を埋められていたなら、それもそれで悪くなかったんだろうし。……これからも埋められることを考えれば」
「え……」
自然な仕草で、草壁は桜花の手を優しく取って、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。彼のことを見る度に、気恥ずかしさを感じた造形が間近に迫り、さらにはその視線の熱っぽさに、桜花の身体は釘付けになってしまう。
そして――前に引き寄せられるような感覚。
「鈴木さんが想っていた人のようには、なれないのかも知れないけど」
「……先輩」
「僕は僕なりに、鈴木さんのことを守って見せるよ。できるなら、これからもずっと」
「――――」
これは、彼の愛の告白なのだろう。
その言の葉は、優しく、甘く、桜花の心に沁み込んでいく。何もかもを彼に委ねられるならば、彼に守られ続けるならば、どれだけ心安らぐことか。
でも。
「ごめんなさい、先輩」
「……え」
桜花の中で引いていた最後の一線は、それを許さなかった。
金縛りのように釘付けになっていた五体は感覚を取り戻し、桜花は草壁に握られていた手をやんわりと解く。もう、前に引き寄せられるような感覚はない。
断られるとは思ってなかったのか、草壁は目を丸くしている。
「昔のわたしだったら、先輩のことを受け入れてたかもしれない」
「じゃあ、何故」
「わたしも、守る側で居たいって決めたから」
彼の、『守る』と言う言葉を聞いて、改めて湧き上がった気持ちがある。
――昔の桜花は、ずっと守られてばかりだった。
そして、その頃の桜花は、それでいいと思っていた
自分が弱いままでも、ずっと守ってくれるものと思っていた。
だけど、人はどんな時も強くあれない。
失敗をしたら落ち込むし、上手く行かないときは悩んだりもするし、何より……悲しいときは、涙を見せることだって、ある。
その、最初の涙を見たあの時。
そんな弱い部分を、自分が守りたいと、強く思ったからこそ。
「約束のためにも、もう守られる側には戻りたくないんだ」
「…………」
桜花が語るのに、草壁は黙って聞き入っていたようだが……やがて肩の力を抜いて、苦笑しながら、降参するかのように両手をあげて見せ、
「まいったよ、キミに対する認識を見誤ってた」
「いやいや、フツーの女の子だったら絶対クラッと来てたと思いますよ」
「……確かに、君はフツーじゃないね」
そのように、草壁がポツリと呟いた、直後、
「でもさ、もう少しだけ考えてみる気はない?」
今一度、こちらに――紫の色が濃くなった視線を向けてくる。同時、彼から漂っていた柑橘系の香りが強くなり、桜花の全身を強烈な違和感がかけ巡っていく。
この違和感には記憶がある。
先ほどの告白の時のような前に引き寄せられるような感覚も、彼のお誘いに頷いてしまう無意識も――そして何より、彼と初めて会った時から抱いていた好感も。
以前は違和感と認識しなかっただろうが、守る側で居たい、という気持ちを改めて胸の中で抱いた今は、全部が解る。
解るからこそ、割り切られる。
解るからこそ――切り捨てられる。
「ごめんね。それでも、わたしは先輩の言葉を受け入れられない」
「! そんな、どうして……!」
初めて、草壁の表情に焦燥が浮かびあがった。
同時、彼の口元からは紫色の煙のようなものが漏れだし、次いで、紫がかる程度だった瞳も、全体に渡って本格的に色が染まり始めている。漂っていた柑橘系の香りは濃さを増し、もはや臭気となって桜花の嗅覚を刺激する。
そんな、明らかに尋常でない変貌にも、桜花は動じない。
「先輩の気持ちは嬉しいし、先輩と居て楽しかったのは本当だよ。でもやっぱり、わたしはこの気持ちを捨てられないし……捨てないからには、もう、目を逸らしたくない」
「そんな、終わったことにしがみついてちゃ駄目だ」
「ううん、まだ終わってないよ。十年以上、気持ちに蓋をしてたんだから、蓋を開けないまま終わりにするなんて、そんなことは出来ない」
「……まさか、鈴木さん」
「うん。――告白する。明日とは言わずに、今からでも」
そのようにハッキリと意志を口に出したのは、初めてのことだったかもしれない。
口に出せたからこそ、今なら出来ると確信する。
多分、びっくりされるだろうし、絶対と言っていいほどにフラれてしまうんだと思う。
でも、それでいい。後悔を残すより、ずっといい。
まったく。
さっきまで何もかもがわからなくなって泣き崩れていたのが、嘘みたいだ。
「理解できない。そんな、自分から傷付きにいこうとするなんて」
「そうだろうね。でも、迷わないよ。わたしの終わりはわたしが決める」
「く……ならば――僕もまだ、終わってない」
その言葉を最後に。
――草壁尚樹の姿は紫の膜に包まれ、数秒の後に殻を破って異形への変貌を遂げた。
薄紫と赤茶色の斑模様の傘と、短い手足が生えた紺色の寸胴の身体。これだけを見れば大きなキノコなんだろうが、身体の中央に草壁の整った容貌があるあたり、一種の愛嬌を感じさせる。
昔に桜花が見た那雪の手帳の、記憶に合致する。
中級怪人、マタンゴグレート。
「少し手荒な真似をしてでモ、僕の許に来てもらうヨ」
腹の底に響きそうな低温の声を発しながら、草壁尚樹――もとい、草壁マタンゴの口からは柑橘系の香りが放たれる。
町一つを意のままに出来るといわれるマタンゴグレートの特有能力、オールレンジマインドブレス。
またも発生する違和感が桜花の全身を包み込もうとするのだが、先ほどから何度も味わっている感覚だ。既に、桜花はその違和感を切り捨てる方法を体得している。
おそらく、草壁マタンゴ自身もそれがわかっているはずなのだが……。
「――!」
そこで、桜花は気付く。
この社の広場を囲うかのように増えていく、尋常とは言えない数の人の気配。正確な数字はわからないが、先日、草壁マタンゴが操作する人達に襲われたときと同等のようにも思えた。
時を待たずして、周囲の木々の木陰からは、紫に目が染まった老若男女を問わない人達が次々と姿を現してくる。
「予め、配置していたって言うの?」
「十中八九使わないと思っていた手だけどネ。いきなり走り去っていったキミの位置を突き止めるのも、僕が操作した人達の伝を使えば容易だっタ」
なるほど、用意周到と言うべきか。
「さあ、あの娘を捕まえるんダ!」
草壁マタンゴの指示で、人々は一斉にこちらに襲いかかってくる。人々の動きは緩慢ながらも、方角は全包囲、逃げ道がない。
「ナナちゃんっ!」
『承知』
――だが、こちらとて、何も用意していないわけではなかった。
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