第21話 鈴木桜花の決心
桜花がその名を呼びかけ、頭の奥から――この町の仮襲名の神様、菜奈姫の声が聞こえた直後、桜花の両足のくるぶし辺りに、『↑』の記号付きモニターが表示されるのを確認した後、
「とうっ」
地を蹴って、跳躍。すると、
「ふわ……っ!?」
おおよそ体験したことがない浮遊感が桜花の身体を支配した。
己の身が六、七メートルくらい上空に浮き上がっているのに本気で驚嘆しながらも、桜花はすぐに我を取り戻してなんとか姿勢制御。
広場に生えている木の枝に着地する。
「ナナちゃん。そ、想定よりもすごい跳んだよ?」
『我の加護にかかれば実に容易い。オーカの運動能力が良いのもあるがな』
「う、うん……さすがにみんなビックリしちゃってるようだね」
『壮観じゃのう、ククク』
頭の中のシニカルな笑い声が示すとおり、眼下の人達はおろか、草壁マタンゴすらも、寸胴の中央にある目を見開いてこちらを凝視している。
まさに、想定外という三文字が似合う表情だ。
「鈴木さン、それは一体……!」
「ごめんね先輩、わたし、身体の中に神様飼ってて」
『……おい、飼ってるとは何じゃ』
頭の中の神様からの抗議は、とりあえず受け流しておいて。
神様という言葉を聞いて、草壁マタンゴは更に驚くかと思われたが、
「まさか、鈴木さンも……!」
「? も?」
「否、そんなことがあるはずがなイッ! 菜奈神様にお願いしたから、僕は――!」
桜花の想定とは別の意味で動揺していたようだが、それを振り切るかのように全身で頭を振り、草壁マタンゴおよび操作された人達は、こちらへの追撃を開始する。
『脱出するぞ、オーカ』
「うん、わかってる」
気になることがあるものの、まずはこの場から離脱しないといけない。
桜花は加護を利用して、テレビや漫画で見るような忍者の如く、木の枝から別の木の枝へと跳び移る。……なんだか貴重な体験だった。
『まったく、ギリギリまで我に自重させおって』
移動の最中、菜奈姫が咎めるような口調で声をかけてくる……いや、これは実際に咎めているのかもしれない。
「ははは、ごめんね、ナナちゃん」
『実際、我の言う通りであったろう。あの草壁少年が怪しいのは』
「ん……」
――初めて会ったとき。
無意識に名前を教えてしまうほどに他者を惹きつける彼の異様な雰囲気から、菜奈姫は、最初から草壁のことを疑っていた。
ただ、その時点では確信がなかったので、探りを入れるために、桜花は敢えて草壁尚樹と一線を越えない友達付き合いをすることにしようと思った。……那雪と信康から目を逸らす大義名分でもあったことだし、菜奈姫もそれをわかっていた。
ただ、あの時。
那雪と信康が寄り添っているのを見て、桜花が感情を暴発させたのが、菜奈姫にとっては誤算だったようだ。
『正直、見てはいられなかったぞ。お主があんな……壊れるように泣き出す様など。何度、その場で飛び出していこうと思ったことか』
「ん、ごめんね。確かにちょっと辛かったけど。草壁先輩を釣り出すことができたし、それに、自分の気持ちにも向き合えたから、結果オーライかな?」
『他人事のように言うでないわ。……で、お主が見せた決意は、真か?』
どこか神妙な様子で訊いてくる菜奈姫。『決意って何のこと?』と、普段の桜花ならトボケていたのだろうが、今は違う。
これは、鈴木桜花のこの十年の中で、一番に大事なことだ。
「うん。わたし、無事に脱出できたら、告白するんだ」
『……なんだか今、死亡フラグ的なものを感じたぞ』
「……わたしも、自分で言っててそう思ったよ」
『ククク、チンクシャや学友からはいつも完璧に見られておるというのに、自身の色恋に関しては、オーカはどこか抜けておるのう』
「と、とにかく! フラグ回収しないためにも、早く脱出しないと」
間抜けなやりとりはともかく、あともう少しで出口――というより、菜奈神様の社から出る、小山の入口へと至る。
桜花は木から木へ跳び移るのをやめて、舗装されていない道に着地し、そのまま走って、もうすぐ町中の路地に出ようかと言うところで、
「――って、おおぅ……!」
行く先、人という人が待ちかまえており、皆、一様に紫色の目でこちらを見据えていた。のろのろと緩慢な仕草で迫ってくる様は、まるでホラーだ。
嗅覚に意識を向けてみると、柑橘系の香りが微弱に感じられることから、
「無駄だヨ、鈴木さン。僕の支配からは、逃れられなイ……!」
遠くから聴こえる草壁マタンゴの声。
どうやら、草壁マタンゴがオールレンジマインドブレスの範囲を即座に広げたらしい。町一つを意のままにできるとは、よく言えたものだ。
『ここぞと言うときに発揮される、チンクシャの設定が恨めしいのう』
「中級以上だからあんまり妥協できなかったんだよ、きっと」
『ふむう。ともあれ、暢気に言っておる場合ではなさそうじゃな』
「ん……」
おそらく、このまま逃げ続けてもいずれ捕まるだろう。
桜花と菜奈姫としては、ここで打てる手がないわけではない。
だが、ぶっつけ本番で試すには、この手は未知の領域だ。決断はなるべく慎重にしたい。上手く身を潜め続けて体力を回復し、それからの決断でも遅くは――
べべべん・べん・べん・べべべべべーん♪
『む。この、三味線主体の勇気溢れる音楽は一体どこから……!』
「わたしのケータイの着メロだよ」
いきなり制服のブレザーの内ポケットから盛大に鳴り響く、カレッジセイバーのテーマソング――もとい着信メロディ。
この音楽は、桜花にとってはただ一人に設定されたものだ。
それをわかってるからこそ、今も抱き続けている胸の疼きが強くなって、一瞬、桜花は電話を取るのを迷ったのだが。
「……よし、大丈夫」
一つ呼吸をして、震えそうな手を制止させつつ、電話の応対に出る。
「もしもし、ゆっきー? どったのー?」
『桜花、やっと繋がった! 一体どこに行ってたんだよっ!』
聴こえてくるのは、もっとも馴染みの深い声。
七末那雪の、声。
切羽詰まっていて、息遣いも荒い。彼女が桜花のことを心配してくれているのと、捜して走りながら電話をかけている、というのが考えずともわかる。
「ごめん、ゆっきー。ちょっとびっくりしちゃってさ。今は大丈夫だから」
『そっか。……いや、まあ、私もちょっと間が悪かったとは思ってる』
電話の向こうの那雪は、少しバツが悪そうだ。
悪いのは桜花の方なのに、彼女のこういう気遣いには本当に頭が上がらない。
『とにかく今、どこにいる?』
「ナナちゃんの社がある山の中で、マタンゴグレートから逃げ回ってる」
『なっ……ぬ、あ……ぜ、全然大丈夫じゃないじゃねーか……!?』
電話の向こうでものすごく切羽詰まったような呻きを漏らし、ややあって、那雪は声を殺して話しかけてくる。『どーした、なゆきち』と電話越しに声が聞こえることから、桐生信康も傍らにいるのだろう。おおっぴらには話せないと言ったところか。
『……つか、なんでマタンゴが桜花を襲ってるんだよ』
「ちょっといろいろあってね。今は詳しく説明できないよ。今も操られてる人達に追っかけられてることだし」
『ぬぅ……と、とにかく、待ってろ桜花! 今すぐそこに行く!』
「ああ、ちょっと待って、ゆっきー」
那雪が電話を切ろうとしているのを察して、慌てて桜花はそれを止める。
「今のゆっきーでは、多分わたしの元にたどり着けないかも」
『? なんでだよ』
「だって、ゆっきー、手帳持ってるわたしやナナちゃんとは離れてるから、変身できないじゃん」
そう。
変身のための手帳は今、桜花の手元にある。
よしんば那雪の手に手帳があったとしても、今、菜奈姫の力が届かない距離にいる那雪は、シュバルツスノウに変身ができない。
菜奈姫の加護がないとなれば、マタンゴグレートによって操られている人々で封鎖中の社周辺に近付くのは、那雪でも手に余ると思われるのだが――
『関係ねーよっ!』
ほぼ、即時ともいえる速さで、那雪は桜花の懸念を両断した。
しかも、先のような押し殺したものではなく、電話口からであっても桜花の鼓膜を突き抜けるような大声で、だ。
『変身できようができまいが、桜花のピンチを放っておけるかっ!』
「……ゆっきー」
『守るって約束しただろっ! 昔も、今もっ!』
「――――」
ああ。
本当に……強い人だ、と思う。
そして、彼女の言うとおり、昔も今も、こんなにも自分のことを守ろうとしてくれているのに、桜花の胸は自然と熱くなり。
――そして、疼きが加速する。
胸の奥から様々な感情が溢れてきて、熱さも痛みもごちゃごちゃに混ざっていって、また、涙がこぼれそうになってくる。
誰も泣かせたくないと言う彼女の信念を想って、ここは我慢するが、こんなごちゃごちゃの中で、ただ一つ言えることは――
「いやー、ホント。ゆっきーはわたしの王子様ですなぁ」
『おい、冗談言ってる場合か!』
「うん、そだね。約束したもん。ゆっきー、わたしのこと守ってくれるって。そして……わたしが、ゆっきーのこと守るって」
『え……桜花? 一体、なにを――』
「だから待っててね、ゆっきー」
那雪の答えを待たずに電話を切って、桜花は周囲を見渡してみる。
草壁マタンゴによって操作された人々が、遠巻きにこちらを包囲しており――その包囲網の最奥に、草壁マタンゴの姿があった。
「もう逃げ道はないヨ、鈴木さン。観念して僕の許にくるんダ」
「……答えはわかってるはずだよ、先輩」
明確な拒絶を示して、桜花はまた一つ深呼吸。
『オーカ』
自分のやろうとしていることを察したのか、菜奈姫が声をかけてくる。彼女が何を言いたいかについては、桜花もまた察している。
「ナナちゃん、ちょっとお願いできる?」
『まったく……先も言ったが、お主は本当にどうしようもない変わり者じゃのう。おそらくは、チンクシャ以上に』
「ははは、もう、こればっかりはどうしようもないよ」
――だって。
「ゆっきーのこと、愛しちゃってるからね」
初めて守ってもらった、あの時から。
鈴木桜花は、七末那雪に恋している。
絶対と言えるほどに、彼女のことを愛している。
女の子が女の子になど、いけない恋だというのはわかる。
那雪の、桐生信康への懸想もわかる。
何より、この想いが決して報われることはないのも、わかっている。
でも。
やっぱり、長年抱き続けた自分の気持ちに、嘘を吐けるはずがない。
『ふん……ここまでとなると、もはや何も言えぬわ』
「あれあれー、ナナちゃん、もしかして妬いちゃってるのかなー?」
『……まあな』
「おおぅ、マジ返しとは。……でも、ありがと」
『礼は、この危機を乗り越えてからじゃ』
「うん」
一つ頷いて『よし』と自身に活を入れてから、左手に手帳を取り出してページを開き、右手に菜奈姫のカミパッドを展開して、自身の両眼に投影する。
桜花の意識が奥に潜り、変わって菜奈姫の意識が身体の表面に出た直後、
「菜奈姫の名の許に、其の記述を――鈴木桜花の力とするっ!」
言霊は発せられる。
左手に持った手帳からは一粒の琥珀色の光が生まれ、天高く飛翔。直後、菜奈姫は手のひらにカミパッドを浮かべて我が両眼にかざし、再び出番は桜花に。
そして――桜花は、天に向かって右手を伸ばした。
手のひらを空に向け、何かを掴もうとするかのように。
出来るだろうか、と思う。
出来る、と強く念じる。
すべては、今、愛する人を守るために。
「光臨っ!」
ごちゃごちゃになっている胸中をすべて吐き出すかのように、叫んだ瞬間――落ちてきた琥珀の光が、我が手中に収まり。
桜花の視界は、灰色に染まった。
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