閑話休題

第31話 奥底にある弱気


 七末那雪の朝は早い。

 起きる時間は午前五時半きっかり。窓のカーテンの隙間から射す陽光はまだ薄く、外からは雀の鳴き声が微かに聞こえてくる。


「……ん」


 身を起こして伸びをし、洗面所で顔を洗って歯を磨く。


「おはよう、母さん」

「あら、おはよう、なゆちゃん」


 台所にて、水玉模様のパジャマにクマさんエプロンといった出で立ちで、いそいそと朝食を作っている母に挨拶。

 朝の母の姿を見る度に、『麗しの母』よりも『可憐な女の子』というワードがよく似合うなー、などと那雪はぼんやり思いつつも、冷蔵庫から出した冷たいお茶で喉を潤し、自室に戻る。

 寝間着から上下揃いの色のジャージに着替え、自室を出て台所の母に『いってきます』と一声かけ、ここ数年愛用しているランニングシューズを履いて玄関を出発。

 家の前で、入念に準備体操をして手足をほぐしてから、


「……よし」


 ゆったりと走り出す。

 ――朝のランニングは、七末那雪の日課である。

 昔、体術と蹴り技を教えてくれた師に課せられて始めたことなのだが、初めの頃はよく面倒くさがったものなのだが。

 師に鍛えられていくうちに基礎体力の大切さを思い知った那雪は、こうやって毎日欠かさず朝のランニングを行っている。

 スタートして一分間の緩めのジョギングからスピードを徐々にあげ、体感で時速十二キロのランニングに達したのがわかったらペースをキープ。


「…………む」


 だが、いつもの朝に比べて、身体のキレはどうにも悪い。

 それもそのはず。

 那雪は昨夜、一睡もできていないからだ。




『明日の午前に対策を練って、午後一番にまた仕掛けるぞ』


 菜奈姫の見解によると。

 甲冑の怪人、ライトニングソニックメビウスナイトとなった桐生信康が町の加護を吸収し尽くす刻限は、そこまでは長くない。

 となれば、上層部が強硬措置を執行する時間は、今すぐにと言うわけではないが、早くて翌日――つまり今日の日没辺りとのことだ。

 つまり、次の日没を迎えると、先輩は……。

 そう思うと居ても立ってもいられず、那雪はすぐにでも信康のことを取り戻しにいきたかったのだが。


『お主の身体はまだ本調子でなかろう。対策も練っておらん。今行っても返り討ちに遭うだけじゃ。まずは身体と、心の調子を整えよ』


 そう言われると、反論出来なかった。

 一度感覚を失いかけた右腕と右足の動きには、まだ多少の重さがあり、それがすぐには回復しそうにないのも何となくわかっていた。怪人と闘うには厳しい状態だ。

 桜花も桜花で初戦闘の影響で疲れていたし、菜奈姫も菜奈姫でやることがあるとかで、対策は翌日の午前に練ろうということになり、その日は解散となったのだが。

 その日の夜、那雪は眠れなかった。

 桜花や菜奈姫と話しているときは良好なテンションだったのに、いざ、一人になると、考えてしまうことがたくさん溢れ出てきた。

 信康を巻き込んでしまったことの後悔もある。

 桜花と想いを重ねた今、これから先、どのように桜花や信康と向き合っていくか、という思いもある。

 甲冑の怪人を相手に、どのように立ち回るかも考えないといけないのもある。

 だが、それらよりも大きく那雪の心を支配したのは。


 ……勝てるのか、アレに。


 疑問であり、迷いであり、一番に恐怖であった。

 情けない話だ。桜花や菜奈姫に向けては、『先輩を取り戻そう』と力強く決意を新たにしたし、三人で力を合わせれば何とかなるかも知れないとも思えたというのに……いざ一人になって、肌で感じたあの怪人との実力差を想起すると、どうしても弱気の虫が出てくる。

 菜奈姫は、これを見透かしていたのかもしれない。

『身体と心の調子を整えよ』と言っていたのは、『心』の方に重点を置いていたのだろう。

 こういう時、自分に体術や蹴り技を教えてくれた師に助言を乞いたかったのだが、現在、師は外国に旅に行っているとかで、音信不通の状態だ。

 なんとタイミングの悪い……とは思うが、先輩の上に師までも巻き込んでいいのかどうかについても、後ろめたさがあったりで。

 頭の中で考えることが多すぎて、悶々としている内に、今に至る。

 ……でも、よくよく考えると。

 朝の寝起きから母への挨拶、準備運動から走り出す過程までは本当にいつも通りだったので、もはや習性じみたものを感じて、苦笑と共に気が少し楽になった。


「……今日は、少し別のコースに行ってみるか」


 いつもなら河川敷が見える道沿いから通路を曲がって緒頭公園に向かうのだが、あえて直進して、自分達の通う東緒頭高校を挟んで反対側の地区の住宅街へと、那雪は走る。

 あまり行かない場所なので、知らない道もたまにあったりするが、頭の中で描いている地図を考えれば、迷うということはないだろう。それに、


「この辺りは確か……ぬりカベになった綾水と戦った路地だっけ?」


 思い出した。最近来たということもあってか、憶えている。

 現場に急行するために愛用の自転車を使って、その自転車で怪人に体当たりしたのも、遠い日のことにも思える。

 アレは結構無茶だったよなぁ……。

 あの場でぺしゃんこになって、二日後、菜奈姫の加護による修復によって戻ってきた五年以上愛用の自転車を思いつつ、しみじみしていると、


「……ん?」


 何かをバウンドするような音が聴こえた。一定のリズムで音は続き、その後に、スパッとした布の音も聴こえる。

 これは……そう、バスケットボールの音だ。

 親戚の叔母が元々はバスケットの選手であり、小学生の頃にいくつか教えてもらったこともあるから、那雪にとっては馴染みがある。


「…………」


 少し気になった。

 その音に向けてランニングの足を向けると、コンクリートの地面とバスケットゴールのある広場にたどり着く。

 そこには……今し方、ジグザグに動くドリブルからの、ストップ&ジャンプでミドルシュートを放つ、Tシャツとスパッツ姿の少女が居た。

 ドリブルの速さと鋭さ、そこから急制動をかけてもブレないフォームでジャンプシュートを決める技術は、一目見ただけでもかなりのレベルだとわかる。

 那雪は思わず息を呑んだ。


「ふぅ……あれ、七末さん?」


 そして、その少女のことを、那雪は知っている。


「あ、青山さん?」


 青山椎子。

 那雪の学校のクラスメートであり、今さっき思い返した通り、綾水ぬりカベから那雪が救い出した少女だった。




「へー、七末さんも朝早くから走ってるんだ。さすがだねっ」

「さ、さすがって……そんな、大したことないよ」


 足が止まったから何となくインターバルを取ろうと思ったのと、椎子もちょうど休憩を取るつもりだったとかで、那雪達は広場の隅っこで談笑する形となった。

 椎子は女子バスケ部所属だと、桜花から聞いたことがある。しかも、小学校低学年からの経験者なんだとか。

 と言いつつも、外見はスポーツ少女という雰囲気はなく、色素の薄い瞳とクセのあるセミロングの髪、少々丸みのある顔立ちは、西洋人形のような愛嬌に溢れている。


「青山さんは、いつもこの時間から練習してるの?」


 いつものラフモードではなく、クラス内でのおとなしめの口調で、那雪は椎子に問う。

 椎子は苦笑して、


「私は人一倍練習しないと、高校バスケットでやってけないからね」

「でも、さっきの感じでは、相当上手く見えたけど」

「いや、まだまだ上手な人がたくさんいるし、それに私はこの身長でチームにとってマイナス二十五点のようなものだから、身長以外で出来ることは全部やっとかないと」


 と、目測で身長百五十五センチくらいの全体を示して見せる。

 確かに、バスケットの選手としては小柄といってもいい。だとしても、那雪よりも十センチは高いのだが。

 ……私、どんだけ小さいんだよ。

 一人で勝手に思ってちょっと凹んだが、それはそれとして。


「そっか……がんばってるんだね。私、青山さんのこと応援するよ」

「え……う、うん、ありがと」


 好きなことに真っ直ぐに努力できる人は誰だって尊敬できる思いで那雪が言うと、椎子は少し照れたようだった。


「ええと。七末さんは、やっぱり格闘技のための体力作り?」

「か、格闘技?」

「ほら、この前、鈴木さん守ったときに見せてたじゃん。後ろ回り蹴り」

「回り蹴りじゃなくて、回し蹴りだよ。……まあ、格闘技っぽいことはやってるけど、そんな大したものじゃないから」

「そうかな? 鈴木さん守ってたときの七末さん、すごいカッコ良かったよ? こう、ズバッ! ズババッ! て動いてさ」

「私は、そこまでカッコ良くないよ。あの時は、桜花のことを守ろうって夢中だっただけで、今は――」


 今、と言う言葉が口に出た途端に。

 夜に抱いた疑問が、迷いが、そして恐怖が、また表に出てきそうになる。

 必死に抑えようとしても、止まらない。


「…………」


 せめて青山さんに見えないようにしなければ……と、顔を俯かせて考えてしまう辺り、やはり自分は格好良くないと思える。

 そんな思いを知る由はない椎子には、今の那雪はどう映るだろう?


「――七末さん」


 と、呼んでくる声に、ふと視線を向けると。

 椎子が、屈託のない笑顔で、


「とりあえず一緒にバスケしよっか」


 そのように言ってきた。

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