第32話 自身に問いかける
「……は?」
一瞬、何を言われたかわからず、那雪はキョトンとなった。
バスケをしようって、それはどういうつもりで……?
「七末さん、体育の授業で地味に上手かったから、一度対戦してみたかったんだ」
「ちょ、青山さん?」
「よいしょっと」
ボール片手に、意気揚々とコートに向かっていく椎子。
那雪は慌てて彼女の後を追おうとするが、椎子は変わらない笑顔でこちらにボールを寄越してきて、ハーフライン手前でディフェンスの構えをする。
「よし、来いっ」
「待って青山さん。私は……」
「七末さん、何か迷ってるみたいだからさ、気分転換」
「う……」
やはり、見透かされてしまっていたようだ。
椎子は今一度笑って、
「細かいことはわからないけど、とりあえず何も考えずにバスケやろう。で、身も心もリセットさせたら、何か突破口が開けるかも知れないよ?」
「――――」
その時、那雪の全身を駆け抜けたのは。
昨日、桐生信康に授けてもらった、あの言葉。
『頭の中がまとまらないときは、何も考えずに、美味しいものを美味しく食べる。そんで頭ん中をリセットさせたら、見えないものが見えてくるかも知れないぜ?』
いやはやまったく、この処世術、流行ってるのだろうか?
もちろん単なる偶然なんだろうが、そうやって前に進める人達に、那雪はいつも頭が下がる思いだ。
「じゃあ、ちょっとだけ」
だから、ここでバスケをするのも、まあ、いいかという気分になって、
「うん、バッチ来……お?」
瞬時に、那雪はスイッチを切り替えた。
ディフェンスで腰を落としている椎子の後ろのスペースに、ボールを投げ入れる。
椎子が目を丸くして、後ろのボールに視線を向けようとする頃には、那雪は既に足を踏み出しており、椎子の横を抜けてわずか三歩で、ワンバウンドしたボールに追いつき、
「っ!」
ゴールに目を向ける。距離はまたも三歩分。行ける。
一歩、二歩と大股で距離を詰めワンドリブル、そのままレイアップ――
「カットォッ!」
「な……!」
シュートしたボールが、ハエたたきの如く弾き飛ばされた。
いつの間にか、真後ろで跳んでいた椎子の手によって。
「ふぃー。なかなか味な攻撃だったね。素直にビックリだよ」
「……これに追いつく青山さんにもビックリだよ」
「でも、七末さん、結構直球勝負する方かと思ったんだけどなー」
「う……」
バスケ経験者に正面からぶつかっても確実に勝てないと見て、仕掛けた奇襲なのだが。そんな小細工を労している時点で、迷いも弱気の虫も抜けていない、と言外に言われているような気がした。
「こ、今度はちゃんと攻めるよっ。ほら、攻守交代」
「そう来なくっちゃね」
嬉しそうに、今し方回収してきたボールをバウンドさせる椎子。
今度はこちらのディフェンスだ。
椎子とは十センチほどしか変わらないから、身長的な差はないはず。自分の持つ反射神経と先読み力、叔母に教えてもらった基礎技術があれば、なんとか――
「よいしょぉっ!」
……ならなかった。
ドリブルであっさりと横を抜かれ、そのままゴールを決められてしまった。
人生そんなにも甘くないということだろうが……ここで折れたら負けだ。
「も、もう一回っ!」
「お、乗ってきたね」
再度、攻守交代。
今度は正面から攻めて見るが、やはり易々とカットされる。
攻防が入れ替わったら、開始何秒も待たずにゴールを決められる。
「もう一回っ!」
「うんっ!」
さらに那雪は椎子に挑むが、結果は変わらない。
「まだまだっ!」
「どんどん来いっ!」
技量に差がありすぎるだけに、その光景は何度も繰り返される。
一見して、経験者が素人をいたぶっている風に映るかも知れないが。
それは違う、と何となく那雪にはわかる。
だって――椎子の一つ一つのプレーが全力であると、その動きと汗の量、何より彼女の帯びている熱気で伝わってくるから。
全力で相手をしてくれているからこそ、一回は勝ちたい、と思える。
そしていつしか、それしか考えられなくなる。
「…………」
ほとんど数えるのも億劫になった、那雪の攻撃の番。
幸運か偶然か。
椎子のディフェンスの重心が、わずかに右に寄ったかのように見えた。
そのわずかが最大の隙であり、那雪は、的確にそこを突く。
「お……」
椎子が慌てて重心を戻すも、もう遅い。
ドリブルしたまま身体を横回転させて、椎子のディフェンスを掻い潜る。
未だにある右手右足のわずかな重みから、回転の拍子にバランスが崩れるかと思ったが、余計な力が入らず不思議と上手くいった。
抜ける。
そしてそのまま、ゴールに向かって一直線に――
「とりゃあっ!」
行けなかった。
レイアップシュートの途中で、ボールは、最初の時と同様に椎子に弾き飛ばされた。しかも、しっかりファウルなしでのカットだ。
「――はぁぁぁぁぁ……」
そして、那雪の体力はそこで尽きた。
膝から力が崩れ落ち、しかし何とか受け身をとって、コンクリートの地に大の字になる。しばらくの間、手足を動かせそうにない。
視界に移る空の色は、既に青い。いつの間にか日が昇りきっていた。少しだけのつもりが、結構長い間、椎子とバスケをやっていたらしい。
「い、今のすごかったね、七末さん。さすがに紙一重だったよ」
そんな青の視界の中、息を切らしながら、椎子がこちらに声をかけてくる。彼女も彼女で体力が限界であったらしく、大の時になる那雪の傍らでヘたり込んでいた。
那雪の思った通り、本気で相手をしてくれていた、ということだ。
なんだか、ちょっと嬉しい。
「バスケの選手だった親戚の叔母が、テレビの試合でいつもやってたやつの見様見真似だよ。こんなにも上手くいくとは思わなかったけど」
「親戚……え? も、もしかして、あの、
やはり、椎子も知っているようだった。
バスケットという界隈では、我が叔母は結構有名人である。
「う、わ、ほえええ、私、大ファンなんだよ。じゃ、じゃあやっぱり、七末選手に教えてもらったことって、あるの?」
「ん、それはまあ、少しだけ」
「ええ~、あ~~~、いいなぁいいなぁ!」
心底羨ましそうだった。
「あ、でも、それだと七末さんの、あの凄かった動きも納得いくね」
「単なるラッキーだよ。それに、青山さんに勝ちたいって気持ちが重なっただけ」
「いやいや、そういう気持ちは大事だよ。勝つんだって燃えてる状態と、負けるかもと不安になってる状態とじゃ、全然違うでしょ」
「……まあ、それはそうだけど」
バスケに限らず、何事に於いても、心を強く持つのは最初の一歩だ。
「青山さんは、私に勝ちたいって思ってた?」
「うーん、私の場合は、もっと根本的なことを思ってたかな」
「? 根本的?」
「うん。――とにかく、バスケやりたいって」
「……は?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
首を傾げる那雪に、椎子は柔らかく微笑んで、
「上手く言い表せないんだけど、試合に勝つのも負けるのも、単なる結果の一つだと私は思うの。結果にたどり着く前に、練習だったり研究だったり、いろんな過程があるわけだけど……結果も過程も全部ひっくるめると、バスケットボールって競技に集約されるでしょ? 私はそれをやりたいのだって、一つの欲望にまとめてるの」
「欲望」
それは、ここ最近で那雪が何度も聴いた言葉だ。
「だから、上手く行かなくて迷ったときも、試合に負けて凹んだときも、それでも、やっぱり私はバスケがやりたいって気持ちで、またボールをつくんだと思う」
「…………」
「七末さんは、何かに迷ってるようだけど……今、一番に何がやりたい?」
「……私は」
夜に寝ているとき、那雪は何を考えていたか。
先輩を助けないといけない?
甲冑の怪人との戦い方を考えないといけない?
桜花と先輩との向き合い方を考えないといけない?
それらは全部、やらないといけないことか?
違う。
思い出してみるといい。
菜奈姫は何と言っていたか。
――自らが他者に行う善行は、己が望みを持って初めて良い形を成す。
思い出してみるといい。
那雪の憧れるヒーローはどうあるのか。
――義務ではなく、意志で人を笑顔にしている。
だからこそ。
それらは全部、やらなければならないことではなく、那雪がやりたいことであり……しかし、一番ではない。
一番に、七末那雪がやりたいことは、一体何か?
「青山さん」
「なに……ふぉおおおぅ!? な、な、な、七末さん!?」
気付けば、那雪は起きあがって、傍らに居た椎子を抱き締めていた。
椎子が裏返った声を出してビックリしているが、関係ない。
「ありがと。いろいろ、魂入った」
ただただ、彼女に感謝を伝えたかった。
今、この場に於いては、それが那雪のやりたいことであり。
そして、もう一つ。
「な、七末さん……」
「那雪でいい」
「え?」
「名前。友達ってのはそういうものでしょ? 私も、青山さんのことをこれから椎子って呼ぶから」
「あ……うん。うんっ!」
那雪の言ってることの意図を汲んでくれたらしい。
椎子はこちらのことを抱き返して、
「詳しいことはわからないけど、力になれたようでよかった。……やりたいこと、頑張ってね、那雪ちゃん」
「ああ、本当にありがと、椎子」
新たに出来た友達の言葉を胸に、那雪は立ち上がる。
無意識に右足を軸に立ち上がったのだが、もはや重みはない。右腕も、いつの間にか違和感がなくなっている。
何故だろうという疑問は、些細なことだ。
迷いも晴れて、身体も本調子に戻ったならば、那雪にとっては万々歳だ。
「じゃ、そろそろ行くよ。またね、椎子」
「うん、ばいばい那雪ちゃん。また明日、学校で」
「ああ。明日、学校で」
全部終わらせて、また明日、学校に行く。
それもまた、やりたいことだ。
そしてこれからも、やりたいことは、どんどん増えていくのだと思う。
でも。
「……よし!」
今なら、出来る気がする。
そして今、一番にやりたいことが目前にあるから、それに向かって突き進める。
走り出す那雪の足は、朝起きたときの何倍も軽い。
☆ ★ ☆ ★ ☆
余談。
そのように、意気揚々と走っていく那雪の背を眺めながら。
「那雪ちゃん、か。いいな、この呼び方いいなぁ……へへ、うへへへへ」
その場で十数分ほど、頬をほんのり染めつつ悶え浮かれていた椎子は。
その日の女子バスケ部の午前練習に、見事に遅刻した。
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