第1部 遭遇と黒歴史と初めての変身

第01話 七末那雪という少女


 県立東緒頭高等学校は、新学期が始まって間もないうちに五教科の実力テストを行うのが恒例である。

 生徒の評定には影響せず、現状の学力を把握するためだけの行事であるので、真面目に取り組む者取り組まない者の比率は半々だが。

 本日の終わりのHRにて、その実力テストの結果が返却され、クラス内で学年トップと、それに加えてトップテン以内が二人出たことで、一年六組の教室内は少々の賑わいを見せていた。


「鈴木さん、五教科満点だって」 

「すごーい」

「ねえねえ、普段はどんな勉強をしてるの?」


 特に、学年トップの鈴木桜花の注目度は高い。

 担任が大々的に桜花の成績を発表したのもあるが、やはり、五教科満点というインパクトは計り知れない。


「んー、わたしとしては、あまり特別なことはしてないよ? 今回のも、運が良かっただけではないかね」


 そんな人だかりの中にあっても、桜花の対応はやんわりとしたものだった。フランクで自慢げな印象もない。

 ふわふわの髪、眼鏡をかけた大きな瞳の細面、雰囲気も柔らかで親しみやすいとなれば、自然と人は集まってくる。


「またまたー、謙遜しちゃって」

「謙遜じゃないって。ちょっとした工夫で、普通に点を取れるからさ」

「んなこと言っても、さすがに全部満点はな」

「コツとかあったりするの?」

「んー、ちょっとはあったりする。でも、話せば長くなるかもしれないよ?」

「いや、後学のために是非とも聞かせてほしいね」

「鈴木さん、私も私も」


 勢いよく、わらわらと集まってくる人だかりに、桜花は『おおぅ……』と声を漏らしてから辺りを見回し。

 ものの数秒でぴたりと視線を止め、


「ゆっきー」


 そのように、名を呼んだ。

 一同、彼女が何のことを言っているのかわからなかったようだが、桜花の視線の先には――人だかりから離れた教室の隅っこで、状況を見守っていたらしい小柄な女生徒が居る。

 外ハネにした焦げ茶色の髪、体格と比例するかのように小動物を思わせる童顔の少女は、桜花の突然のコールにビクリと華奢な肩を震わせた。


「え……?」

「すまんね、皆の衆。今日のわたしは、ゆっきーと先約があるのだ」


 人だかりを分け、桜花はその少女に歩み寄りつつ学友に向けて断りを入れる。

 一方で、少女は一瞬戸惑ったようなのだが、桜花と視線をわずかに合わせた後に、小さく吐息して、


「えっと……ご、ごめん。出来があまりよくなかったから、前から桜花に勉強教えてもらう約束してて」


 少々言葉に詰まりつつも、皆にはっきりと聞き取れる声で答える。

 すると、自然と生徒達の勢いは霧散していったようだった。


「んんむ、仕方ないか」

「先約となればな」

「でも七末さん、肝心の結果はどうだったの?」

「……秘密」


 ポツリと、でもはっきりと答えて、きびきびとした仕草で席を立つ。


「帰ろ、桜花」

「うん、帰ろ帰ろ。さらば皆の衆。学業のコツについては後日にゆっくりと」

「……また明日」


 片方はブンブンと大きく手を振り、もう片方は控えめに挙手してクラスメート達に言い置いて、二人は肩を並べて教室を出ていった。

 仲睦まじい二人の様子を見送ってから、一年六組の生徒達も散会して、ポツポツと帰り支度を始める。


「鈴木さんやっぱりすごいねー」

「ああ、しかも体育の授業の時、やたら足速くなかったっけ?」

「足速いだけじゃなくて、球技もすごかったよ。運動部の部長達が期待の新人として狙ってるみたい」

「美人の上に成績優秀、運動神経良好。完璧超人っているモンなんだな……」

「でも、それでいて、イヤミな感じがないのが素敵よね」


 だが、やはり今日のこともあってか、教室に残って鈴木桜花の話題で盛り上がる生徒も居る。

 そして、


「さっきの七末さんも、あまり目立たないけど可愛いよね」

「うん、ちっちゃくて小鳥みたい。ちょっと無口なトコあるけど」

「実際話してみると、結構良い奴だぜ? 挨拶したらはっきり返してくれるし」

「掃除の時なんかも、中庭の木に登って降りられなくなってた野良猫を助けてたよ」

「あ、それ私も知ってるー。それと、通学路で腰の曲がったお婆さんを優しく誘導してたのも見たことあるー」

「商店街のおばちゃんから聞いた話なんだが、この前、菜奈神ななかみ様のところに行って、社の掃除をしたり手を合わせたりもしてたらしいぜ」

「さすがは隠れ正義の味方ってやつか」


 桜花と共に教室を出た彼女の話題も、尽きなかったりする。

 目立たず物静かながらも気弱という印象はなく、先程の受け答えや日々の気配りの良さから不愛想という印象もなく、なおかつ町の各所で善行を重ねる『隠れ正義の味方』を囁かれる少女。

 それが彼女――七末那雪への、クラス全体の見解である。


  ☆  ★  ☆  ★  ☆


「隠れ正義の味方って言われてもなー……」


 その見解は、那雪にとっても知るところであった。

 隣を歩く幼馴染の鈴木桜花が、持ち前の社交性の良さを活かしていろんな情報を仕入れてくるのだが、その中にそういう説が囁かれていると知った時には、恥ずかしいやらこそばゆいやら。


「私としちゃ、あまり特別なことをしているわけじゃねーんだけど……」

「それだけ、ゆっきーは良いことしてるってことさ。えらいねー」

「子供扱いすんな。あと、ゆっきー呼ぶな。もう高校生だっつーの」

「わたしにとっては、ゆっきーはいつまでもゆっきーなのさっ。ちょっとしたことで地が出ちゃってるとこなんかもねっ」

「くっ……」


 教室から出て緊張が緩んだのか、口調が昔ながらのラフなものへと戻ってしまっているのを指摘され、那雪は言葉に詰まる。

 この芸風、高校に入ってからは改めようと思い、心機一転してクール系のキャラを目指しているのだが……先ほどにあったようにクラス内で『隠れ正義の味方』説を囁かれたり、この幼馴染みと二人で話しているときは地が出てしまったりと、自分の目指しているものには程遠い状態だ。


「くそう、やっぱカッコつけようとしすぎたか……!」

「いやいや、ゆっきーは十分にカッコいいって。それこそ、中学の頃は裏で『破砕の黒雪』なんて呼ばれて――」

「ほぅわあああああぁっ!? やめ、やーめーてーっ!」


 今や若さゆえの過ちといってもいい時期のことをほじくり返されそうになり、那雪は顔を慌てて桜花の口を塞ぎにかかる。

 思い返すだけでも赤面ものだというのに、他者に口に出されるとなれば羞恥心が半端ない。


「桜花、その話はクラスでは一切なしだぞっ! バラしたら絶交だかんなっ!」

「お、おおぅ……さすがにそれは困るね」


 那雪の剣幕に気圧されたのか、桜花にしては珍しく頬に汗を浮かべてコクコクと頷く。桜花は約束を破ったことはないので、その辺は長年の付き合いである幼馴染を信用しよう。

 幸い、廊下を歩く生徒にこの話の内容が聞こえている者は居なかったので、那雪は心の底から安堵して深々と吐息する。


「ったく、こんなところで黒歴史大公開とか、なんのために必死こいて勉強して東緒頭高に入ったんだか」

「ゆっきー、頑張ったもんねー。去年の夏はほとんど絶望的だったのに」

「まーな。でも、桜花が勉強で手助けしてくれたし、菜奈神様にも毎日手を合わせたりもしたし、何より――」


 と、そこまで言いかけて、那雪はふと思う。

 それを口に出すのは、また別の意味で恥ずかしいのではなかろうか?

 いや、だが、しかし……本人の目の前ではないことだし。

 そういう思いで、那雪はひとつ深呼吸、したところで、


「おー、なゆきちとオカちゃんだ、うぃーっす」


 後ろから聞こえた声に、那雪はビクッと肩を震わせ、


「うっ……ケホッケホッ」


 深呼吸中だったものだから息を詰まらせ、むせ返ってしまった。


「……大丈夫か?」

「~~っ!」


 フラットながらも気遣ってくれているとわかる声音の主に、那雪はひとまず手を掲げることで大丈夫の意思を示す。


「ははは、ごめんね信さん。ウチのゆっきーは昔からおっちょこちょいで」


 うるさいよ。つか、『ウチの』ってなんだよ『ウチの』って。

 そういう思いで桜花を横目で睨みつつも、なんとか呼吸を整えてから、那雪は改めてその声の主に向き直る。

 ツンツンボサボサの黒髪、細い糸目、大人びているというより老けていると表せる顔立ち。那雪よりも頭一つ以上背が高く、高校指定の詰め襟の学生服をまとった五体は針金のように細い。

 ただ、その手にはいつも食べ物がある。

 今も、アルミホイルとラップに包まれた拳大のおにぎりが一つ。


「……こんちは、桐生先輩。相変わらず常に何か食べてるよな」

「んー? 腹が減ったらなんか食べたくなるのは当然だろうよ。なゆきちも欲しい?」

「いや、遠慮しとく……」


 もしゃもしゃとおにぎりを淡々と食べ終わりつつも、カバンの中から、学食購買では人気と目されているラージあんパンスクエア(二百三十円)を取り出す彼に、那雪は苦笑。

 那雪の中学時代からの先輩であり、桜花にとっては遠縁の親戚にあたる少年――桐生きりゅう信康のぶやすは、広大というより長大な胃袋を持っている。


「ふむふむ……で、二人は相変わらず仲良さそうだけど、何話してたん?」


 取り出したラージあんパンスクエアも程なく食べ終え、信康が訊いてくる。

 会話の内容が気になったとかではなく、世間話のついでと言った響きだ。

 これは悪戯心で『乙女の秘密というやつです』と思わせぶりに言っても『ふーん、そりゃ残念』と残念ではない感じに返されてしまいそうなので、どのように答えたものか――


「信さん、これは乙女の秘密というやつですよ」

「ふーん、そりゃ残念」


 勝手に桜花が答えて、予想通りの反応をされてしまった。


「桜花、そこはもうちょっとヒネれよっ!」

「ゑー? じゃあ、ゆっきーならなんて答えるの?」

「うぐっ……そりゃあもっとこう、先輩を楽しませるような話をだな……!」

「信さん信さん、これからゆっきーが面白い話をするそうだよ」

「ほー、それは楽しみだ。どんな話が飛び出すのやら」

「ぃ……っ!」


 しかも、墓穴を掘った。那雪は大きく仰け反るのだが、もう遅い。

 桜花はニコニコと、信康は少々期待の眼差しでこちらを見てくる。


「あ……いや、その……」


 その視線に圧力みたいなものを感じ、那雪は大いに焦りつつも思考をグルグルと働かせた。

 どうする? いきなり面白い話といっても早々にネタなんて浮かぶはずが……いやまあ、さっき言った通りに桐生先輩を楽しませたいというのは事実であるし、こんな風に先輩に見られるのも恥ずかしいような嬉しいような……って、待て待て待て、何を考えているんだ私、落ち着け私、もう少し場を弁えろ私。ここは平常心平常心平常心……よし、鎮静成功、私はもう冷静。さて、なんだったっけか……そうそう、先輩に面白い話を聞かせるんだった……って、早々にネタなんて浮かぶはずが――


「うんうん、やっぱりなゆきちは見てるだけで飽きないよなー。八十五点」

「それがゆっきーの魅力なのだ。九十点」

「……あれ?」


 考えているうちに、何故か採点されていた。しかもそれなりに高得点だった。

 ……何も話をしてないのに、そこまで得点をもらってもいいのだろうか、という那雪が釈然としない気持ちを抱える中、


「ま、よかったかな。オカちゃんが傍にいるにしても、なゆきちが楽しくやってるみたいで」


 信康が、安堵したかのような顔を見せていた。


「なゆきちが東緒頭高に入ってちゃんとやれてるか、少し心配だったんだよ。それこそ、なゆきちは中学の頃いろいろあったわけだし」

「ん……」


 先ほど桜花によって頭の中で思い返させられたことをそのまま信康にも言われると、またも何とも言えない気持ちになる。

 ただ、いつもニュートラルで細かいことを気にしない彼が、きちんと自分のことを心配してくれていたのには、嬉しさ半分、申し訳なさ半分で恐縮せざるを得ない。


「ゆっきー、わたしの時とリアクション違うのはなんでかなー?」


 横から桜花がツッコミを入れてくるが、那雪は無視。


「学生の時間ってすごい貴重だって重三センセイも言ってたから、高校生活こそはもっと楽しく過ごさないとな」

「……うん」


 過去にいろいろあった後でも、この人が普段と変わらず接してくれて、何度、自分は救われたことだろうか。そして、今も、いつもと変わらぬ緩やかさでありながらも、こちらのことを気にかけてくれている。

 本当に有り難い人だ、と思う。

 だからこそ、


「先輩、私――」


 ぐごごごごご~~~~~っ


 と、那雪が切りだそうとしたところで、地響きとも言える大きな音が遮った。


「さて、腹も減ったし、帰りに『印度屋』にでも寄って帰るか」


 信康の腹から響いた音だった。

 ……ここで『さっきあんなにも大きいおにぎりとあんパンを食べていたのに?』というツッコミは無粋なのだろう、やはり。

 ちなみに『印度屋』とは、信康が昔から行きつけにしているカレー屋であるのだが、それはともかく。

 複雑な那雪の心理状態にも構わず、信康はひらひらと手を振りつつ、


「じゃ、またな、なゆきち」

「……ん、まあ、また今度」

「オカちゃんも、なゆきちのことよろしくー」

「お任せあれ。わたしにかかれば、ゆっきーの高校生活はまさに薔薇色だよ。なんならピンク色にだって染めちゃいます」

「おいやめろ」

「おー、そりゃ楽しみだな」

「いや、楽しみにしなくていいからっ!」


 そんなボケツッコミを背に、信康は揚々とした足取りで廊下を歩き去っていく。

 ご機嫌そうなのは大変結構なことなのだが、


「……なんつーか、有り難いんだけど、どこか抜けてるんだよな」

「そんな残念要素が憎めないのも、惚れた弱みというやつだね」

「むう……」


 狐に摘まれたような顔であろう自分の頭を、桜花はよしよしと撫でてくる。

 そう。

 先のやりとりと桜花の言うとおり、那雪は、桐生信康に慕情を抱いている。

 いつからであるかについては憶えていない。

 中学生の頃、先述の通り遠縁の親戚である桜花からの紹介で彼と初めて会って……最初こそはあまりいけ好かなく思っていたけど、接していく中で、本当にいつの間にか好きになっていた。

 ただ、そういう原因などはわりと些細な問題だと那雪は思う。

 そして、些細な問題は理屈をも凌駕する。

 那雪がこの東緒頭高校に入ったのは、言わば彼の通う高校だからと言う理由が八割以上を占めているといってもいい。


 ……きちんと、伝えようとは思ってんだけどなー。


 勇気がないわけではない。

 実際、彼に想いを伝えようとしたことは何度かあるが、あと一歩と言うところで上手くいかない。

 先のように信康の腹の虫に邪魔されたり、出だしのところで那雪が台詞を噛んであとが続かない状況になったり、猫が高所から降りられなくなっているのが視界に入って放っておけなくなってしまったり、おばあさんが重そうに荷物を運んでいるのが視界に入って(以下略)

 つまるところ、理屈を凌駕しても、謎のインターセプトという理不尽を乗り越えることができない。

 原因は自分の運のなさか、それとも、それを行うにはまだ、自分には何か足りないものがあるという、運命の見えざる差配か。


「まあまあゆっきー、次頑張ろう、次」

「……桜花」

「ただ、あんまりモタモタしてると、わたしが取っちゃうからね。ゆっきーを」

「なんでだよ。そこは普通に先輩を……って、ダメだ、それでは私が困るっ!」

「そう律儀に突っ込んでくれるゆっきーが、わたしには愛しくてたまらないのさっ」


 どこまでもフリーダムな幼馴染が笑顔で抱き着いてくるのに、那雪はもう好きにしてと言わんばかりにされるがままになる。

 まあ、彼女が那雪に抱き着くのは、昔から行われていたスキンシップではあるのだが……抱き着かれる度に、その、なんだ、彼女が保有している二つのミサイルとも言えるソレが那雪の背中やら肩やらに押し付けられたりする。

 しかも、日を重ねる毎にミサイルは徐々に膨張して面積を増しており、そろそろロケットになりそうな具合だ。

 自分のはミサイルどころかピストルの弾にすらならないというのに。


「…………むぅ」


 正直、女性的な面で桜花には勝てる気がしないので。

 恋愛で桜花と対立することがないと解っているだけで救われる気持ちになりつつも、なんとなく虚しさに見舞われる那雪であった。

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