第2話 不審者
台風が東北地方をかき回している中、みさきの住んでいる地方は前日まで台風が来ていたのがウソのように晴れ渡っている。絶好の仕事日和となった。
「よーし、どこも崩れたりしていないな」
社用車を降りた職長は安堵した。
まず養生シートの貼り直し等復旧作業を行い、安全をきちんと確保してから工事を再開するのが今日の仕事の流れである。工事は少々遅れるが、「安全第一」は現場で守られるべき鉄則だ。
午前八時の作業開始までに職人たちは各自の準備を整える。みさきは油圧ショベルの状態を指差し呼称しながらチェックし、点検表に記入する。その途中で声をかけられた。
「おはようございます!」
声の主は玲於奈ではなく、若い女性警察官であった。同僚の誰かが何か悪いことしたのか、と不謹慎なことを考えつつもみさきは挨拶を返す。
「お忙しいところすみません。実は昨日、駅の北口に不審者が現れまして」
「昨日!? 台風の中何考えてんだか……」
しかし何を考えているかわからないからこそ不審者なのかもしれない。
警察官はみさきにビラを手渡した。その文面を見たみさきは思わず噴き出してしまった。
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10月XX日夕方、宝来駅北口付近で年齢不詳の不審者が女性通行人相手に「ぼくとつきあってください」と張り紙をしたクマのぬいぐるみを押し付ける事案が発生しました。
【不審者の特徴】
身長は150~160cmぐらい
服装は茶色のコートに帽子、サングラスとマスク着用
▲
犯行の様子を想像してみるとシュールで、被害者には申し訳ないが笑いがこみ上げてきてしまう。
「しかし結構チビだな。しかも格好が漫画に出てきそうな典型的な変態だし。かえって目立つんじゃないかと思うけど」
「怪しい人物を見かけたら、直ちに警察に通報してください」
「わかりました。頼りにしてますよ、おまわりさん」
女性警察官はニッコリ笑って敬礼して立ち去っていき、彼女と入れ違いになる形で玲於奈がやって来た。
「おはようございます。そのビラ、みさきさんのところにも配られたんですね。今ロータリーでバス待ちしている生徒にも配られています」
そう言って同じビラを見せてきた。
「まあ、聖泉が一番被害を受けそうだからねえ。子羊みたいなお嬢様ばかりだし」
「みんながみんなおとなしいわけじゃないですよ。ほらこの前、『夜来香』に私の取り巻きたちを連れていった時にみさきさんに食って掛かってたサイドテールの子がいたでしょう? あの子、武道を嗜んでますから襲おうものならたちまち痛い目に会いますよ」
「え、そうなの? 箸より重たいのを持ったことなさそうな感じだったけどなあ」
「人は見た目じゃないですよ」
それで苦しんできた玲於奈が言うと、重みが違う。
「仕事がなかったら車で送り迎えしてやるんだけどな……とにかく、なるべく集団で登下校しろよ」
「わかりました。みさきさんも気をつけてくださいね。特に土曜日の飲みの後は」
「あはは、わかったよ」
いつもはみさきの会話を邪魔しまいとしている職長が「お楽しみ中申し訳ないが今日は早めに朝礼やるぞ」と真剣な面持ちで声をかけてきた。台風明けの作業だから朝礼で注意を喚起するべきポイントが多いのだろう。
「じゃあな玲於奈。今日も一日ご安全に!」
「何ですか、それ?」
「現場で使ってる挨拶。聖泉の『ごきげんよう』と同じだと思って」
「何だか違う気がしますけど……でも言葉の響きがいいですね。みさきさんもご安全に!」
「おおー、元気でいいねえー」
「本当、朝礼っぽくなってきやがったなあ」
やり取りを見ていた職長が冷やかした。
*
聖泉女学院の一日は朝のお祈りから始まる。月曜日は聖堂に集まって行われるがその他は校内放送を利用して教室でお祈りをする。それが済めば朝礼、一時限目の授業開始という流れである。
しかし今日の朝礼の時間はかなり長く、一時限目の開始が遅れるぐらいだった。というのも、不審者が宝来駅近辺で出没したという情報が学院にももたらされたため、生徒に対して充分に注意を喚起する必要があったからである。
そして駅から学校へと続く狭い道路に関しては、しばらくの間そこを歩いて登下校しないよう担任から言い渡された。道路には街灯が無い箇所があるので、夕方になれば不審者にとって格好の活動場所となり得る。学院の指導は正しかったが、生徒の多くからは不興を買った。
「とはいっても
昼休みに中庭で集団の中心に立って力説するサイドテールの少女。以前にみさきを裏門の花壇まで案内したことがあった彼女には
見た目こそ清楚、純心、お上品を絵に描いたような聖泉女子だが、「
「悲しいかな、私達女は力では男には勝てません。しかし神様がアダムとイブを造り給うた時、女が男に勝てる手段もお作りになられたのです。今日はこの私、富丸瑞貴がこの昼休みの時間を借りてその手段をレクチャーいたしますわ」
「それはいったい……」
「『ギョク』を狙うのです」
ギョクという言葉を聞いた聖泉の乙女たちはその意味を理解するや、ある者は顔を真っ赤にし、ある者は笑いだし、またある者は眉をひそめた。
「瑞貴さん、ギョクって何?」
一人だけ理解できなかった者がいた。玲於奈である。
「そ、そんなレオ様……私の口から言え、とおっしゃるので? なるほど意図がわかりましたわ。私をこの場で試そうとおっしゃるのですね? お友達であれば言えるはずですものね?」
「いや、本当にわかんないんだけど……」
「ああっ! しかしこれを口にしてしまうなんて聖泉の乙女にあるまじきこと! 恥ですわ! だけどレオ様との友情と引き換えにはできません。ならば私は喜んで……」
「アダムにあってイブに無いものよ」
一人がそう玲於奈に耳打ちすると、それで理解して「なるほど」とうなずいた。ギョクを漢字に変換すると……つまりはそういうことである。
瑞貴は大きく咳払いをして仕切り直した。
「ギョクに対する打撃は男にとっては地獄のような、の一言では片付けられないほどの痛みなのです。事実、致命傷になったケースも多々あるようです。しかし道端で襲ってくるような変態は別、容赦は一切必要ありません! 先程そこら辺でちょうどいい木の枝が見つかりましたので、これを使って実演いたします。美代子さんと雪奈さん、申し訳ないけど枝の両端をしっかり持って頂けますかしら?」
瑞貴は二人を指名して木の枝を持たせた。枝といっても太さが野球のバットぐらいで、二人で持っても相当な重量感がある。台風でどこかの木から折れて飛んできたと思われるそれはくの字に曲がっていて、大股開きになっている人間の下半身にも見える。
「変態が現れたら、こうしてやるのです!」
気合のこもった掛け声とともに、瑞貴は枝の分かれ目を思い切り蹴り上げた。木を持っていた女子二人が悲鳴を上げて尻もちをつき、枝は真っ二つに裂けるようにして折れた。
「わあ、すごい!」
拍手喝采を受けた瑞貴はしてやったりといった顔になる。
「足には腕の三倍の力があるといいます。私のようにいかなくても、あなた方のか弱い脚力でも一撃で充分倒すことが可能でしょう。とにかくギョク! 躊躇せずギョクをお狙いなさい! ギョクを蹴り潰してギョク砕させるのです!」
「ギョク、ギョクってはしたないよ瑞貴さん」
玲於奈は笑いを堪えながらたしなめた。
「あらレオ様、私としたことが。ごめん遊ばせ」
生徒の一人が「質問!」と手を上げる。
「後ろから襲われた場合はどうするの? 抱きつかれて距離を詰められたらひとたまりもないのでは?」
「それも今からレクチャーいたします。相手は申し訳ないですけど、レオ様にお願いできますかしら?」
「私?」
「私達の中で一番上背がおありですので」
「なるほど」
男性の変質者を想定するなら少しでも背が高い方がいい。玲於奈は瑞貴の後ろに立った。二人の間には頭一つ分を少し越える程度の身長差がある。
「レオ様、どうぞ」
「こう?」
「あっ、はあんっ、いい感じですわぁ……」
玲於奈に後ろから抱きつかれた瑞貴が恍惚の表情で口をだらしなく開けて嬌声を漏らす。取り巻き時代からレオ様に触れたいという願望を、自分の置かれた立場を悪用して叶えた形になった。
「……で、ここから先はどうするの?」
「はっ! 私としたことが。ごめん遊ばせ」
生徒たちからもブーイングが飛び出してきたので、瑞貴は名残惜しそうに演習を再開した。もちろん木の枝と違い生身の人間が相手なので実際に攻撃するわけにはいかず、動作だけで説明する。
「この場合、まずかかとで相手の足を踏みつける。もしくはスネ、俗に言う弁慶の泣き所を蹴飛ばすのです。手の自由が効くのであればギョクを殴るのもいいでしょう」
玲於奈はまたもやのギョク発言に笑いそうになったが精一杯我慢した。
「そして怯んだスキにこうやって自分の腕を目一杯のばして相手の腕を振りほどいて……」
「うわっ!!」
「きゃっ!!」
玲於奈と少女たちが悲鳴を上げた。瑞貴が振り向きざまにシュッ、と空気を切って放った掌底が玲於奈の顎に当たりそうになったからである。
「……と、私なら反撃しますが腕を振りほどいた時点で逃げ出すのが賢明ですわね。そして大声を出して助けを呼ぶのです。この時も『助けて!』ではなく『火事だ!』と叫んでください。こちらの方が野次馬根性で人が集まりますから」
「へえ~」
感心した生徒たちがうなずく。
「聖書に『右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ』とありますが、それでは自分の身は守れません。『右の頬を叩かれたら左右のギョクを潰す』ぐらいの覚悟が無ければいけないのです。さあみなさま、オオカミどもが襲ってきたら一泡吹かせられるよう訓練していきましょう!」
品のない言葉だが少女たちの気勢は大いに上がった。体育の授業以外で運動をあまりしたことがない彼女たちでも自分の身を守るためならばと、真剣になって瑞貴のレクチャーを実践した。
放課後、玲於奈は環境委員会の活動を終えて下校しようとするとエントランスで瑞貴に出会った。帰宅部の瑞貴と一緒になるのは珍しいが、話を聞くとクラスの雑用で残っていたらしい。
「瑞貴さんは車で登下校してるんだよね」
「ええ。本当は電車通学したいのですけど。お父様が痴漢が出るかもしれないからどうしてもダメだ、っておっしゃるので」
「お父さんは結構厳しいって聞いたけど、意外と過保護なんだね」
瑞貴に手を出したら昼間の木の枝のような運命をたどることになるはずだが。
二人は駐車場に向かった。ここはスクールバスの発着場になっているが、学院から許可を得た保護者が車で送迎する場所にもなっている。裕福な家庭の出身が多いので登下校時間はさながら高級車展示会の様相になるが、瑞貴の車はひときわ目立つと評判が立っていた。それはとりわけ高級だからという理由ではない。
「あ、来ましたわ」
ゆっくりと入ってきた黒塗りの車。陽光を受けて不気味なほどの光沢を放つそれはスポーティーでも重厚感あふれるスタイルでもなく、その筋の人が乗っていてもおかしくないような威圧感を放っている。それを見た玲於奈はただ圧倒されるばかりであった。
「す、すごいね……」
「これは銃弾だけでなくロケットランチャーの直撃にも耐えうる防弾車ですわ。お父様の会社では要人警護のために何台も保有していますの」
中から降りてきた運転手もサングラスに角刈りというその筋の人のような風貌で、黒色のスーツがはちきれんばかりの筋骨たくましい肉体を持っている。彼が瑞貴の近くにいたら不審者どころか誰も近寄らないであろう。
「レオ様、家まで送ってさしあげますわ。どうぞお乗りになって」
「え、そんなの悪いよ。瑞貴さんとは家の方向が正反対だし、遠いし」
「そんなつれないことをおっしゃらずに。たまには友達らしいことをさせてくださいな」
瑞貴は口を尖らせた。
「わかった。じゃあ、宝来駅までお願いできるかな?」
「喜んで!」
運転手が後部座席を開けて「どうぞ」と促したので、恐る恐る乗り込んだ。
「何だかVIPになった気分だね」
「この防弾車は優れものですのよ。何と言っても紛争状態にある国家の政府要人の御用達ですから。この前も某国で武装組織の襲撃を受けた大臣がこの車に乗っていたおかげで助かっていました」
「へえ……」
そんな車を学院から最寄り駅までタクシー感覚で使うのは申し訳ない気がした。
車はすぐに駅前ロータリーのところに着いた。
「ありがとう。じゃあまた明日ね。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
玲於奈が運転手にドアを開けてもらって車から出ると、通行人が何か見てはいけないものを見てしまったのような反応をしてきた。瑞貴には申し訳ないが、送ってもらうのはこれが最初で最後だろう。
玲於奈は早速、愛する人がいる現場へと向かっていった。
車がロータリーを一周して帰路につこうとした時である。
「あっ!」
「どうされましたかお嬢様?」
「
「はい、仰せのままに」
杣田と呼ばれた運転手は、近くのコンビニエンスストアの駐車場へ車を停めた。それを見た客が驚いて避けていく。
「お嬢様、いったいどうされたのですか?」
杣田がもう一度聞いた。
「さっき、解体工事の現場を見たけどそこにレオ様のご友人……いえ、私の因縁の相手を見かけたわ。まさかレオ様、家でなく駅に送って欲しいと頼んだのはそいつに会うためでは……」
瑞貴は車から駆け出し、杣田も慌てて後をついていった。解体工事現場から車道を挟んで向かい側の建物の影に身を潜めて、現場の方を見る。
案の定、玲於奈とみさきが楽しげに会話している光景があった。
瑞貴は直感した。この二人はデキている、と。聖泉には友情を越えて結ばれたカップルが何組かいるのを知っている。彼女たちと全く同じ雰囲気を身にまとっていたのだ。
嫉妬の炎が心の底からメラメラと燃え上がってきた。
「そこまで仲が進んでいたなんて……」
敬愛するレオ様の腰巾着から友人関係になったが、それで満足したわけではない。願わくばもっと友情を越えた、もっと上の関係へと昇華したかった。
「ううっ、その女のどこが良いのですか……」
ハンカチを噛んで涙を流すぐらいに悔しがるところだったが、ふと冷静になる。よくよく考えればレオ様と学校で一緒になっている分、接している時間は自分の方が長いのだ。心をなびかせるチャンスはまだある。
「
実家の会社、防人警備保障の企業理念でもある四字熟語を唱和して心を奮い立たせた。
「あの、お嬢様」
「何かしら杣田?」
「私は視力が10.0なので、ここからでも二人の口の動きがはっきり読めました。どうも次の日曜日に招木市へデートに行くようですね」
「本当!?」
招木市は瑞貴の住んでいる街でもある。日曜日にご当地グルメイベントが開かれることを思い出した彼女は、二人はここに行くに違いないと確信した。
「よし決めたわ。あの女がレオ様にいかがわしいことをしないように密かについていくわ」
「お嬢様、それはストーカーと言うのでは?」
杣田が無表情でつっこんだ。
「失礼ね! あなただって私がおでかけする時にこっそりついて行ってるじゃない。何が変わらないの?」
などと反論していると、唐突に女性の声がした。
「ちょっとそこの二人、何をしているんですか?」
「誰かしら? 気安く私を呼ぶなんて……げっ」
女性警察官が立っていた。
「ちょっと質問いいですかー?」
大柄でサングラスをかけた黒ずくめの男と女子高生の組み合わせを見て、疑いを持たない警察官はいない。
この後、瑞貴たちがお叱りを受けたのは言うまでもない。
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