第1話 台風の日
解体工事では多少の雨が降っても中止になることはない。むしろその方が粉塵を抑えられて好都合だからである。
しかしさすがに、台風が相手となるとどうしようもできない。朝から県全域に大雨・洪水・暴風警報が発令された十月下旬の木曜日、みさきは会社から連絡を受けてお休みになった。
予想はしていたものの、みさきはがっくりとうなだれた。彼女の会社は日給月給制なので、一日仕事が無くなると一日分の給与が削られてしまうからである。
「台風が来て喜ぶのは学生の時までだよな」
壁にかけてある玲於奈の写真に愚痴る。二枚あっていずれも玲於奈が行きつけの中華料理店「
その相方からLINEの着信があった。読んでみると「おはようございます。今日は休校になりました!」と笑顔の顔文字を三つ付けてのメッセージが。
これには少しイラッとしてしまったが、自分の給与事情など知っているはずがないのでここは大人として「よかったねー」と返事しておいた。
何もせずゴロゴロしているとかえって落ち着かないので、現場の様子を確かめに行くことにした。
みさきは普段であれば自転車で事務所に通勤し、そこから社用車で現場に向かうのだが、自家用車として親からお下がりの中古の白い軽自動車を所有している。それを走らせて現場に直行した。
風は強いが、まだ雨は降っていない。前日に養生シートを外すなどして台風対策を施してはいるが、万が一手抜かりがあると足場が崩れるなどして周囲を巻き込んだ惨事になりかねないので、再チェックは何度やってもし過ぎることはない。
テナントは建物本体の解体が始まったばかりで、駐車場だった箇所に油圧ショベルが置かれている。みさきはその横に車を付けて降り、対策が機能していることを確認した。
車に戻ろうとしたら、聖泉女学院の制服である濃紺のセーラー服を来た、短髪の中性的な顔立ちの美女がみさきを見て目をまん丸くしていた。
「玲於奈? あんた休校になったんじゃ……」
「あれ、みさきさんこそ何でジャージなんですか?」
「こんな風の中で働けるわけないじゃん。ちょっと様子を見に来ただけ。で、あんたはさっき休校ってメッセージを送ってたよね?」
「私もちょっと花壇の様子を見に行こうと思いまして」
「あたしに似て熱心だねえ」
と、みさきは冗談めかした。しかし玲於奈のおかげでつまらない休日ではなくなりそうである。
「送ってやるから乗りなよ」
「ありがとうございます」
玲於奈は即答すると、みさきは「素直でよろしい」と肩を叩いた。
玲於奈がシートベルトを着用したのをきちんと確認してから、みさきは車を動かした。
「みさきさんの私服姿、はじめて見ました」
「前もって言ってくれたら、もうちょいマシなのを着ていったんだけど」
今のみさきは普段家の中で着ている、グレーの無地のジャージ姿である。誰かとおでかけすることを想定していなかったのだから仕方がない。
「いえいえ、みさきさんなら何着ても似合いますよ」
「聖泉の制服でも?」
「……」
「何だよお、その変な間は!」
「あっ、前向いてください、前! 赤信号ですよ!」
玲於奈は頬を指で突っついてきたみさきに注意すると、慌ててブレーキを踏んだ。慣性で体が前につんのめる。少しだけ停止線を越えてしまった。
「あっぶねー、ヒヤリハットだ……」
「ヒヤリハット?」
「事故寸前の危険状態だったってこと。うちに限らずいろんな現場で使われてる用語だな。現場でこれやらかすと職長に報告しなきゃいけないから面倒なんだよなー……」
「でも解体工事って危険が伴う仕事なんですよね? 危険を減らすためには面倒なことでも必要じゃないんじゃないですか」
「全くその通り」
ここは駅前から国道に差し掛かるT字路の信号である。
「これ、スクールバスのルートだと信号を右に曲がっていくんだよね?」
みさきは右折ウインカーを出した。
「はい。そこからぐるっと反時計回りで七、八分ほど」
「遠回りな気がするけど、どこか近道のルートはないか……」
青信号に変わって右折する。左手の美容室のところに道幅の狭い道路があるのを見つけたため、そこに入ろうとしたがあいにく進入禁止の標識が立てられていた。
「何だ、だめかよ」
「一応、この道を使って歩いていく子はいます。道幅が車一台分しかないし途中で急な坂があるので自動車は一方通行になってますけど」
玲於奈の説明によると、この道路を歩いていくと十分から十五分で学校に着くらしい。ただしスクールバスの運行間隔が十五分に一度なので、乗り損ねた場合は次のバスを待つよりかは徒歩の方が若干早く着くのである。
「近辺に住んでいる子だと家から直接、車で送り迎えしてもらうのが多いですね。親じゃなくて運転手に送ってもらう子もいます」
「かー、贅沢だなあ」
「大好きな人に送ってもらっている私が一番贅沢してますけど」
「ははは、言うねえ」
「みさきさん、赤信号です!」
玲於奈はまた、頬を指で突っついてきたみさきに注意した。今度は何とか停止線で踏みとどまったが、二度もカックンブレーキをやらかしたみさきは玲於奈に謝らざるを得なかった。
運転は下手ではないのだが、隣に特別な人を乗せて走るのは初めてだから調子は相当狂っていた。
とにかくこの信号を左折すれば正門のところに続く道路だがあえて直進し、もう一つ向こうの信号で左折した。ここを通れば裏門の方に出るからである。
やがて洋館を思わせる校舎が見えた。そのまま裏門まで進んでいって停めて、玲於奈を下ろす。門扉は閉まっていたがインターホンを使えば警備員が開けてくれるらしい。
みさきは今となっては完全に部外者なので中に入るわけにはいかず、広い道に出て通行車両の邪魔にならない位置でハザードランプを出して再停車した。
暇潰しにネットで天気情報を調べると、午後から本格的に雨が降り出して明日未明にかけて台風が通過するとのこと。ついでにラジオをつけて普段は聞くことがないNHKの選局ボタンを押すと、アナウンサーが台風関連のニュースの後、交通機関の情報を読み上げていた。そこには玲於奈にとってよろしくない情報が含まれていた。
助手席のドアをノックする音がする。玲於奈が用事を終えて戻ってきたようだ。
「みさきさん、見てください」
席につくなりスマートフォンを見せつけた。本来は校内に持ち込み禁止だが、休校で教職員の監視の目が緩いとみたのだろう。
「ほほう」
みさきは思わず唸った。さまざまな色のバラが花壇をカラフルに染め上げている光景が写真におさまっていた。
「綺麗でしょ? 良い香りも一緒に届けられないのは残念ですが」
「本当に綺麗だなあ。特にこのピンク色のやつ。芳香剤のパッケージでしか見たこと無いよ」
「ロイヤルハイネスという品種です」
「はー、名前からして綺麗だね」
ロイヤルハイネスを触る玲於奈の姿を想像してみると、これがまた似合っている。ハエトリグサの方が好きと言っていたが、やはり綺麗な花を愛でている方がさまになっている気がする。二学期始めの頃に玲於奈の水やりを覗き見していた取り巻きの生徒たちの気持ちがよくわかった。
しかし少し空想の世界に入りすぎて、危うく悪いニュースを伝え損ねるところであった。
「JR線、全面運休で動いてないってさ」
「ええっ!? 運休予定は昼からのはずなのに……」
「人身事故だと。何もこんな時にねえ」
「私鉄を使うしかないかあ……」
玲於奈は頭を抱えた。
聖泉女学院の北側はJR線だが、南側にも私鉄が走っている。それに乗っても帰ることはできるが、最寄り駅へは一時間に一本しか来ない市バスで二十分かかる。特急に乗っても特別快速ほど早くないのでさらに二十分ほど余計に時間がかかっとしまう。しかも今は恐らく、振替輸送で混雑しているかもしれない。
「いいよ、このまま家まで送っていくから」
「え、車だと遠いですよ?」
「東西バイパス使えば時間的に大して変わんないって。ちょっとしたドライブデートと思って、さ」
デートという一言に、玲於奈は態度を変えた。
「お願いします」
「素直でよろしい」
みさきは玲於奈の頭を撫でた。
彼女たちは次の日曜日にデートの約束を取り付けている。恋仲に進展した以上、「夜来香」で夕食ばかりというわけにはいかない。
二人は車中でデートプランの詳細を詰めていった。とりあえず先日に聞いた玲於奈の希望では招木市に行きたいとのことだったが、ここは中曽根市の西隣にある城下町で県内でも屈指の観光スポットになっている。
といってもメインは城の鑑賞ではない。実はデートの日に、城の前にある公園で県内のご当地グルメを集めたイベントが催されることになっていた。大食いの玲於奈がこれを見逃すはずがない。
「美味しい食べ物がいっぱい出てるんでしょうね」
みさきは苦笑した。玲於奈は全部の屋台の全ての食べ物を食べつくしかねないぐらいの胃袋を持っている。
車は東西バイパスを通って東の方へと進む。名前の通り東の主要都市である祝部市と西の主要都市である招木市の間を連絡する自動車専用道路だが、その割に通行料金が割安なので、普段は物流関係の車が殺到して渋滞を頻発させている。通勤時間帯は過ぎているので交通量は比較的穏やかとはいえ、それでもトラックとタンクローリーの姿が目立っている。
「台風なのにお仕事ご苦労なこったなあ」
「そうですね」
このやり取りからしばらくの間、会話が途切れてしまった。みさきの方は話のネタが尽きたわけではないが、ある一言を言おうか言わまいか迷っていた。
『家にお邪魔してもいい?』
恋人の家に遊びに行くこと自体は不自然なことではない。ただ、一人暮らしのみさきと違って玲於奈は両親と同居している。
彼女の父親は会社社長で母親は専務と聞いていたので、今は二人とも仕事で家にいないはずだ。その隙を伺って家に上がろうとするのは何だか泥棒と変わらない気がしてならなかった。それに台風の中送り届けてやった恩を形で返せということか、と思われでもしたら嫌だ。
玲於奈は窓の外を見ている。何か考え事をしているようだった。もしかして彼女も自分を家に上げようかと迷っているんじゃないか、とみさきはつい自分勝手な想像をしてしまう。
料金所のETCを通過して再加速したところで、みさきは勇気を出した。
「あのさ、ついでになって申し訳ないんだけど……」
突然着信音が鳴り響く。玲於奈のスマートフォンからだった。
「はい、もしもし。うん……うんわかった。お母さんも気をつけてね」
通話を切る。
「お母さんからです。もう会社を早引けにしてお父さんと一緒に帰ってくるそうです」
「そっか」
みさきは安堵と残念な気持ちが入り混じった複雑な感情を抱いた。
「ところでさっき、ついでというのは?」
「あ、ああ。喉乾いたからサービスエリアに寄って飲み物を買っていいかな、って」
「わかりました。じゃあお礼に奢らせてくださいね。タクシー代として」
「ありがとさん」
こうして料金所から六キロほどのところにあるサービスエリアに立ち寄ることになった。
「お?」
小型車用駐車場にみさきと同じ車種、同じ白色の軽自動車が駐車されている。他にも空いているスペースがたくさんあったのだが、いたずらっぽくわざわざそこの隣を選んで停めたら玲於奈は大笑いした。
「私が買ってきますから、みさきさんは乗っていてください」
「じゃあ、ブラックの冷たいやつだったら何でもいいよ。お願い」
玲於奈は車を降りて自動販売機の方に向かっていった。
ラジオとスマートフォンで台風情報を再確認する。規模はかなり強大で、沖縄の方で大きな被害が出ているとアナウンサーは淡々と告げていた。
駐車したところは喫煙所の前である。みさきはスマートフォンから顔を上げてふと喫煙所の方を見たら、ある女性に視線が釘付けになった。
「あれ、あいつ……」
その女性はパンツスーツ姿で、眼鏡をかけていた。理知的で仕事ができそうな感じだが、スマートフォンをいじりながらタバコを吸っていて少々お行儀が悪い。
彼女はみさきの顔なじみによく似ていた。だが雰囲気が記憶とは大きく変わっている。
ちょっと降りて確認してみようかと思ったところで、玲於奈が戻ってきた。
「お待たせしました」
ボトル缶の少し値段が張るコーヒーを手渡すと、受け取ったみさきは「ありがとう」とお礼を言って頭を撫でた。
「ちゃんと迷わずにこっちを選んだな」
「そりゃみさきさんが乗ってるんだからわかりますよ。それに隣の方には厚生労働省のステッカーが貼ってありましたし」
「え? 気づかなかった。じゃあこれ、お役人の車か。高級車を乗り回してるもんだと思ったけど意外だな」
みさきは公務員という職種にほんの少しだけ親近感を覚えた。
ポツッ、と音がして、フロントガラスに水玉が付着した。
「おっ、雨が来たな」
パンツスーツの女性の正体を掴みたかったが、玲於奈を無事家まで届けることを優先した方が良さそうである。みさきはワイパーのスイッチを入れて、車を再発進させた。
祝部市に入ってさらにバイパスをに東に進み、二つ目の料金所を通過してトンネルを越えると風景は都会的なものへと変貌する。
県最大の都市、祝部市は古くから港町として栄えてきた。今日の日が台風でなく晴天であれば、バイパスからでも遥か彼方に海が見えていたはずである。
みさきの車は玲於奈の指示した箇所でインターチェンジを降りて、バイパス道路の真下の国道を道なりに進んだ。
「この信号を右折してください」
「あいよー」
右折してさらに進むと、やがて巨大な高級マンションが見えてきた。JR線に私鉄線、地下鉄の駅が徒歩圏内にある、交通アクセスの良好な土地に位置しているそれは無骨な鉄筋コンクリート造ではなく、無機質な印象を与えないための瀟洒な意匠が凝らされている。そこの一角に間違いなく玲於奈の部屋があるのだ。
「でけー……」
みさきは車内から見たみさきは呆然としつつも、これを解体するには何人で何日かかるだろうかと考えてしまう。悲しい職業病である。
駐車場から真っ赤なスポーツカーが出てきた。
「うわ、フェラーリだ!」
「あれはお隣さんです。この人も会社の社長をやってるんですけど台風なんで仕事を休みにしたみたいですね」
こんなハイソサエティなところに、中古の軽自動車を駐車させたら場違いも甚だしいとみさきは思った。今日は家に上がらなくて正解であろう。
「玲於奈って、マジで凄いところに住んでんだなあ。今は確か三人暮らしだっけ?」
「はい。兄と姉が二人とも東京の大学に進学していますので、現在は私と両親の三人ぐらしです」
「三人だと大きすぎてかえって落ち着かなくない?」
「落ち着かなくないことはないですけど、掃除が大変です」
「ははは」
雨足がだんだんと強くなり、風もますます強くなってきた。名残惜しいが、いったんここで別れた方が良いと判断した。
「今日はありがとうございました。本当に助かりました」
「日曜日、楽しみにしてるからな」
「私もです」
ちょうど、周りには人気がない。それを見計らって、二人は抱きしめあった。普段の「朝終礼」ではできないことだ。
二人は恋人どうしになってまだ一ヶ月弱とはいえ、まだキスをしたことがない。玲於奈はどう思っているのかは知らないが、みさきには実のところ、少々抵抗感がある。
みさきが中学時代にいろいろあって気の迷いで同級生の男子と付き合いだした時、相手がキスをしつこくせがんできたため仕方なくしてあげたことがあった。ところが相手は興奮しすぎたのか、口づけるというより噛みつくような乱暴なキスをしてきたため、唇が切れて流血してしまったのである。
こうして彼女の大切なファーストキスはほろ苦いどころか、鉄サビの味となってしまった。それがいまだにトラウマになっているのが抵抗感を抱いている理由である。
激しい雨がフロントガラスを打つ中、みさきはスピードの出しすぎに注意しつつバイパスを引き返した。
「まあ、どうにかしたいっちゃしたいんだけどなー……」
そうひとりごちた。
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