楽しみは潰えて
旅館に七時集合って言われていたけれど、五時前には着いてしまった。
先生はどこかへ行っていてまだ戻って来ていないと旅館の人が教えてくれた。早く戻ってきたと伝えるより先に私たちは名前を聞かれ、その後部屋に案内された。
「ねえねえ、お姉さんすごく綺麗だよね」
前を歩く旅館の女性に聞こえないような小さな声で、月葉が私の耳に手を当ててささやいてきた。
私たちより少しだけ年上だろうか。それでもたぶん私たちとあまり歳がかわらないその女性は確かにきれいな人だ。後頭部で束ねた髪をまとめた姿は浴衣とうまく調和して妖艶な雰囲気すら感じる。
月葉ならきっとこんな感じなんだろうな。なーんて思っちゃう私。恋の病にだいぶ侵されているみたい。もし月葉に私の気持ちをを自分の口で伝える力があるのなら苦労しないよ、こっちは。こんなにこじらせてもいない。
冗談めかして言うのはありかなとか考えてる時点でダメな気がする。
あー、もうわかんない。
口にしているわけではないのに、たくさんの言葉でのどが渇く。
「こちらになります。どうぞ」
部屋の前に来た。それでものどの渇きが気になったのは、たぶん単純に夏の太陽のもとを歩いたことが原因だ。
部屋にはお茶か何かはあるとおもうけど、ジュースが飲みたい気分。
「飲み物買ってからいくよ。荷物も全然ないしこの足で売店行ってくる」
「うん。いってら~。部屋で待ってるね」
「うん、なにかいる?」
「コーラがいい」
なにをすれば月葉の近くにいられるだろうか。なにをすれば自分の想いを打ち明けることができるのだろうか。
「わかった。待ってて」
私はぐるぐると思考を回しながら、ふらつくことのないように来た道を戻った。
この後起こることも知らぬまま。
四人で一室にしては少し広くゆとりのある畳の部屋。私は飲み物を買いに行くと言って旅館内の売店に歩いて行った朱音を見送ってから、部屋に入った。
「では、ごゆっくりどうぞ」
私たちと歳のあまり変わらない女性、たぶんこの旅館の管理する人か何かでお手伝いをしてるんじゃないかな。なんて思った。
その人の声の後、ぴたりと戸が閉められた。
「……」
こんなにも早くチャンスが訪れるとは思っていなかった。このあとは、旅館の部屋に朱音と二人っきり。
旅行前に四人部屋と聞いて、実はちょっと残念に思ってたけど、こんな状況になったのはすごく運がいい。
でもいざこの状況になってなにをしようかという問題が発生してる。
二人きりになったときにイチャイチャするの絶対楽しいって漠然とした気持ちと一緒にそれなりの準備はしてきたのだけれど、朱音に変に思われたりしたら嫌だと思うと何一つ行動に移せる気がしない。
「王様ゲームは大人数だから盛り上がるんだしなあ」
それに、これは私と朱音との距離感とは違うのではないかと。そう思うとやはり歩みを進めることはできない。
どうしようと考えながら部屋の中を見渡す。テーブルが中央に置かれテレビもふちにある。小さな冷蔵庫の中身を見るとなぜか飲み物が入っている。
ベッドは探していたけど、見当たらない。
「月葉、コーラあったよ」
「あ、おかえりー。ありがとね」
自分の家でもないのに、おかえりはちょっとおかしい。頭ではそうなのに、この新鮮さが楽しいと思う。
プシューという音が小さく鳴る。ペットボトルの蓋は思ったよりも固くて、苦戦していたら、朱音が開けてくれた。
「あ、そういえば」
「どうかした?」
朱音は買ってきたリンゴジュースをゴクリと飲んでから応えた。
「ここは、布団だけなの?」
「そうだよ。月葉の家は、みんなベッドで寝てるって言ってたっけ?」
「うん。だから布団だけで寝るのは初めてだから楽しみだよ。それに朱音と一緒に寝れるしね」
私がそう言って笑いかけると朱音が困った顔になる。
はじめてという言い方がちょっとまずったのかな。私がいつも外に出られなくて落ち込んでいたのを朱音は知っているから。そのせいで経験がすくないことを朱音に嘆いたりしたこともあったから。
また私が落ち込んでいるって思わせてしまったかもしれない。文脈的に違うってわかってもそう思ってしまったのかもしれない。
「ちがうからね。私は朱音と一緒にいろんな初めてをできて幸せなくらいだからね。落ち込んでなんていないよ」
「そういうのは、私に以外言ってはだめだよ」
朱音は恥ずかしそうに顔を背けた。
わかってるのかな。朱音だから言うんだよ。私の気持ちは、朱音以外に向かないんだから。
もっと他のやり方があると解っていたとしても、私は道にもたれかかってしか歩けなかったのに。朱音は私にとっての特別を上書きしてくれた大事なひと。
「当たり前だよ。私が朱音以外にさ、こんなことを言いたくなることなんて無いんだから」
私も少し恥ずかしくなった。少しと言うには控えめすぎるかもしれないくらい。
ぐるぐる回る。視界がおかしくなったと思ったら、次は体も軽くなってふわふわしたかんかくに陥る。
朱音が叫んだような気がした。いつもの冷静な雰囲気の朱音とは違う、大きな声で。
なぜだろうか。身体が鉛みたいで、立っているのがだるくて、だるくて、だるくて。
私の身体が畳に打ちつけられても、朱音の声は途絶えない。
朱音の言葉は徐々に遠くなって、私の目が役割を放棄した頃に意識は失われた。
そんな状態では、朱音の腕に抱かれた温もりを感じるだけで精一杯だった。
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