肆
闇の神が封印され、この都は再び平穏を取り戻した。
その裏には、一人の少女が命を失い、彼女と親しくなった者は嘆き悲しんだ。
あれ以来、満影はまた姿を消し、居なくなった。
命を落とした少女…山本桃子は、陰陽師の力で身体が朽ちぬように紫宸殿で厳重に封印してある。
棺に入れて眠っているような彼女に、晴明もそして話を聞いた道長も何日か落ち込んだ。
「そう嘆いていても仕方ない。いつまでそうしているつもりだ」
そのある夜の、晴明の屋敷。
大の大人が二人、向かい合ってお通夜気分で桃子のことを思い出していると、いきなり保憲が来訪してきた。
「や、保憲殿。久しぶりですね」
道長が慌てたように立ち上がり、挨拶をする。
「何の用だ保憲」
機嫌が悪い晴明が見向きもせずに冷たく呟くと、保憲が大袈裟なため息をついた。
「報せを受けてきたんだよ。帝から『後三日で期限だ』そうだ。そして…昨晩なんだが、何者かに、あの娘が棺こと盗まれたようだ」
それを言われた途端、晴明が弾かれたように顔を上げた。
「なに!?まさか、道満か!」
叫ぶ勢いに乗って立ち上がると、保憲は真剣な表情で頷いた。
「ああ、そうだろうね。それで晴明、道満は…奴はあの娘を救うために動いたんだ」
「そんな…!保憲殿、あの男は一体どこにいたんだ?いや、知っているのかい?」
道長の言葉に微かに顔を強張らせ、頷いた。
「道満は…異界に居たんだ。あの娘がいる世界で力を手にし、あの娘を蘇らせるつもりだ」
「え?な、なんでそれを知って……は!まさか、道満に会ったのですか?」
「奴は、数名の陰陽師を操っていたのだ。娘を連れだったそこにいた私は、奴が空間を捻じ曲げ、見知らぬ場所に向かったのをこの目で見た」
「異界か…。それで保憲!どうやって、奴はどうやって行った?」
保憲に詰め寄り、切羽詰まった様子で問い詰めた晴明に、保憲は頷いた。
「内裏に行け。真実は、紫宸殿にある」
保憲の答えに晴明は息を呑み、次の瞬間には裾を翻し駆け出した。
「晴明!?」
道長が慌てたように後を追う。
それを見届け一人になると、保憲はふんと鼻を鳴らした。
「初めからこうしていれば良かったんだ。晴明…貴様も、あの娘を愛したバカな男だったのだ」
保憲が意地悪な笑みを浮かべる。
その姿がぶれて、徐々に姿形が変わっていく。
真紅の目と、白銀の髪。
その場にいたのは、保憲に化けた道満だった。
「桃子…俺はまだ諦めていない。必ずまた…お前を見つけにいく。それまではあの鼻持ちならん陰陽師に預けておこう」
道満はふっと微かに笑いそう告げると、パッとその場から煙のように忽然と姿を消した。
★★★★★★★
こんなに、こんなに必死になったのは久しぶりだった。
式を使い紫宸殿まで運んで貰うと、晴明と道長は止めようとする検非違使を蹴散らせ、寝殿の奥に向かった。
「な、何事だ!」
御簾の向こう…帝が突然現れた二人に驚いたように声を上げた。
「はぁはぁ…!すみ、ません主上!い、一大事なんです!あの娘を…棺はどこにあるんです!?」
晴明が叫び、御簾の向こうの帝が息を呑む。
「な、なんのことだ。あの娘が眠る棺なら奥にあるではないか」
驚き、戸惑うような声に、晴明は微かに舌打ちした。
「それは知っております!しかし、昨晩にあの棺は盗まれたと聞きました!今、どこにあるんです!?」
もう一度、保憲に聞いた通り尋ねると、帝は沈黙し、ため息をついた。
「よく…気づいたな。先程、あの娘の棺はあの橋に処分した」
「な…!?どういうことです!何故そんなことをする!」
食いつくように叫んだ彼に、帝は至って冷静な態度で答えた。
「口が過ぎるぞ晴明。あのようなモノをいつまでもここには置けん。晴明、諦めろ。人は一度死んだら、二度と会えないのだ」
厳しい、現実的な彼の言葉に、晴明は咄嗟に言い返せなかった。
道長も言葉を失い、顔を強張らせる。
「晴明。人はもろい。どのみちあの娘は助かる見込みはなかった」
黙り込んだ晴明に少し言い過ぎたかと思ったのか、深いため息をついて、さっきとは違う優しい声で諭すように言った。
すると、黙り込んでいた晴明が微かに舌打ちして顔を上げる。
自分を見ているであろう都一偉い帝を、冷たく睨みつけた。
「そんなこと…そんなこと、あなたに言われなくてもわかっている。誰しも、この身に一度しか生は与えられん!だがしかし、それを永らえさせる方法を取るのが私の仕事だ!」
陰陽師として、今まで彼に仕えてきた。
何度も呪いや暗殺から、この男を救ってきた。
「天皇陛下。今夜のあなたの所業で、何もかも嫌気がさした。これまで我慢してきたが、もう限界だ」
晴明は懐から札を取り出し、それを帝に向かって放り投げた。
彼が、帝専属の陰陽師として証明する手形だ。
「晴明!」
道長が叫ぶ。
「止めるなよ道長!私はもう我慢しない」
そう告げるなり、彼は再び駆け出した。
向かうはあの橋…初めて桃子と出会ったあたの橋だ。
「晴明!」
止めようと道長が追いかけようとしたら、
「やめろ道長!…どうやら余はあやつを侮っておった!ふふっ…はぁーーははははっ!実に、人らしくなったじゃないか!」
帝は止めると、続けざまに声を立てて笑った。
「しゅ、主上?」
気でも触れたのか、と戸惑う道長を前に、寝殿内で帝の大きな笑い声が響いた。
今度は寝殿から一条戻橋に向かう。何度も転びそうになる。
今まで自分は人と距離を置いて生きてきた。
自分が完全に人にはなれず、ましてや妖怪になどなれなく、誰にも必要とされない人生を歩んでいく思っていたから。
一生独り身でいることに何の迷いもなく、そのまま帝の為に陰陽師として生きていこうと誓った。
そんな自分が、今は必死になって、他人のために走っている。
昔の自分なら、滑稽に思えていただろう。
しかし、今は違う。
彼女のためなら何でもしたかった。
「帝め…!何故、またなかったんだ?」
少し、先ほどのやり取りが腑に落ちない。
いや、それ以前にあの時、保憲は何故現れたんだ?
「とにかく、今はあの娘だ!」
見えてきた。橋が、始まりのあの思い出の橋。
空には三日月。あの日とは違うが、綺麗な三日月だった。
静かな夜の街は、晴明の頭を冷静にさせた。
橋に到着すると、息を切らしながらゆっくりそこに向かう。
橋には帝の使いの者たちが、棺を持ち上げていた。
どうやらあのまま橋の上から川に捨てるつもりだ。
「…っ!やめっ…止めろぉおおお!」
大声で叫び、駆け出す。
いきなり現れた晴明に驚いた彼らは手を止め、棺を橋の上に戻した。
「な、何だ貴様…!?」
「怪しいもの!」
「なにやつ!」
「あ…あなた様は!」
四人の使いの男がそれぞれ叫び、晴明は彼らに向かって印を結ぶ。
そして、ふっと息を吹いて札を投げると、札が彼等の額に張り付き、四人が四人とも橋の上に昏倒した。
「山本…桃子!」
棺の側に駆け寄った彼は、呪文を唱え棺の蓋を開けた。
あの日と変わらず、中には眠るように横たわっている桃子がいた。
途端、晴明はホッとした。
「また、危険な目に合わせたな。もう迷わん。すまない桃子。お前を元の世界には返せなくなった」
囁くように呟くと、ふと彼女の手元に札があるのを見て、目を見開いた。
「なるほど…道満め。初めから、こうするために…。ではあれも、保憲ではなかったか」
気づいた晴明が、ふんと鼻を鳴らす。
先ほど屋敷に現れたのは、保憲に化けた道満だったのだ。
「奴め…。まぁ、いい。これは有り難く使わせてもらう」
そう言って目を閉じ、印を結んだ。
その瞬間、彼の手が光を放ち、ある呪文を唱えると、彼女の手元にある札が光輝いた。
すると彼女の身体が、ドクン!と大きく跳ねた。
鼓動を感じる、大きな音が鳴り響く。
ぱああ!と眩い輝きとともに、桃子の姿が変化した。
手元にあった札が彼女の中に入っていき、しゅうと音を立てて額に赤い文字が刻まれた。
「目覚めよ…新たなる式神よ。我は安倍晴明。その身が朽ちるまで我に使い、我と共に生きろ。名を…桃子」
刹那、晴明の声に応えるかのように大きな光が彼女を襲い、びくん!と一際大きく身体が震え、鼓動が鳴った。
青白く真っ白な顔に生気が戻り、艶やかな漆黒の髪が長く伸び生える。
そして、ゆっくりと見えない力で彼女の身体が起き上がると、晴明の目の前で彼女の瞼がゆっくりと開いた。
その瞳は青く澄んだ空色をしていた。
「……あんた…誰?」
再び口を開いた彼女の一言はそれだった。
喜びに震え安心したようにため息をついた晴明は、すぐにニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「私は貴族を一から創り上げた、この都一天才の陰陽師、安倍晴明だ。今日から貴様のご主人様だ!」
そう自信満々に、晴明が叫ぶように告げた途端、目覚めばかりの式神桃子は露骨に嫌そうな顔をした。
「あんたが、ご主人さまぁ?ていうか、なんであたしここに…あっ、あれ…?あたしなんで泣いて…」
ハラハラと流れ落ちる涙に気づき、彼女は戸惑う。
晴明は軽く目を見開き、微かに笑う。
「喜べ、私が再び生を与えた。さぁ、私に力を貸してくれ、式神桃子」
そう言って、優しく彼女に向かって、その手を差し伸べた。
自分の涙に戸惑う彼女が不思議そうに晴明を見つめ、微かに息を呑むと、しょうがないなと苦笑した。
「そうね。あたし、自分のこともわからないみたいだし、この涙の訳も知りたいしね。うん、いいわ!今はあんたに仕えてやるわよ」
ふん!と鼻を鳴らし、彼女は差し伸べられたその手を掴んだ。
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