肆
硯箱の中にある赤い櫛を掴む。走り去る時保憲さんから奪い取った藤原致忠さんの人型。
あたしにも出来るはずだ。
そう自分に言い聞かせ、あたしは人型に向かって必死に祈った。
途端、その人型から光が生まれ、瞬く間に人の姿へと変わる。
術も何もなく、陰陽師じゃないけど、目の前には藤原致忠さん、その人が立っていた。
「あたしに、力を頂戴」
時間がない。保憲さんが凄い形相でこちらに近づいてきている。
あたしは彼の手にあの赤い櫛を握らせ、真剣な表情で訴えた。
すると、さっきまで無表情だった彼が、にっこりと微笑んだ。
「うん!ありがとう巫女様!僕も姫を助けたかったから、やります!」
まるで幼い子供のような、無邪気な笑みで即座に答える。
あまりの変わりように一瞬面食らったが、この人型は、あたしにやると言った。
「じゃあお願い。あの人を助けてあげて」
それはお願いだ。だが、命じられた式神のように、彼が動いた。
「止めろ!勝手なことをするな!」
すると、そこに駆け出してきた保憲さんがあたしの腕を掴み止めに入った。
息を切らせ、こちらを鋭く睨む彼に、あたしも負けじと冷たく睨みつけた。
「保憲さんこそ止めてよ!あんなやり方じゃ、あたしは納得してないの!邪魔なのは保憲さんだよ!」
感情のままに、彼に不満をぶつけた。
勢い腕を払うと、途端に、カッとなったのか保憲さんが手を振り上げた。
「やめてください保憲様。彼女は悪くありません」
そこに突然一夜が現れ、ガシッと振り上げた彼の手を掴んだ。
「離せ!式の分際でまたしても私に指図するのか!」
力強く掴まれた手を振り払い、保憲さんが怒鳴る。
一夜はあたしを庇うように前に出て、睨みつける保憲さんに冷たく笑った。
「保憲様…あなたこそ私に指図するか。私はあなたの式ではない。晴明様に止められているから抑えているが、私はあなたが心底嫌いです。彼女に指一本触れたら…容赦しません」
その脅し文句には殺意があった。
ギョッとしたように目を剥くあたしと、一夜の脅しに一瞬本気で怯える保憲さん。
すぐに彼はハッとしたように震えた自分を恥じいたようにカッと顔を赤らめ、鋭い目つきで一夜を睨み返した。
「この、式神風情が…!私を脅すとは…。お前こそ覚悟しろ」
保憲さんを本気で怒らせたようだ。
怒りに震える彼に、大丈夫かとハラハラしながらそれを見守る。
すると一夜は、この状況に似合わない、とびっきり綺麗な笑みをその口元に刻んだ。
「どうぞ、お好きに結構です。私も私で、式神ながらもプライドはありますから」
毒牙を抜けるような、その笑顔に保憲さんはポカンとした。
そんな彼に興味が失せたのか、一夜はこちらに振り返って、優しく笑った。
「桃子様、あの人型を見てください」
そう告げると、一夜は驚いているあたしの肩を掴みグルンと体を後ろに向けた。
晴明たちと対峙していた女鬼の前に、人型が立っていた。
赤い櫛を掲げ、そこから生まれる綺麗な光。
強いその光が彼女を襲い、苦痛にその場でのたうち回る。
慌ててそちらに駆け寄ろうとしたら、一夜に止められた。
女鬼は苦しんだ後動かなくなり、不安になってギュッと手を握ると、女鬼に変化が起きた。
鬼の風貌だった彼女がゆっくりと人の女性の姿に変わる。
初めて見たときの、綺麗な彼女自身の姿だ。
人型の致忠さんが、呆けた様子の彼女を抱きしめた。
「遅くなってごめんね。独りにさせて、ごめんね桔梗姫」
刹那、パン!と弾けたような音が響き、二人の頭上に突然花びらが散った。
「えっ?あ、あれって…!」
あたしが興奮して、後ろにいる一夜を振り返ると、彼がにこりと優しく笑った。
まさか、何かしたの?
目を丸くして彼を見ると、一夜が指を指す。慌てて彼女たちに向き直ると、花びらとともに彼女と人型の姿が消えていく。
「あれは…浄霊が…」
一夜の後ろの保憲さんが愕然としたように、小さく呟く。
浄霊が、成功した?
聞き逃さなかった。
あたしは消えていく彼女たちの姿を見て、嬉しさがこみ上げる。
ふと、晴明たちの方を見ると、彼等も呆然としたように二人の様子を見つめていた。
「い、一夜…。あたしの祈りが、彼女を救ったの?」
浄霊される二人から目を背けずに、呆けていない一夜に問いかけると、彼があたしの両肩に手を置いた。
「あれがお前の力…。祈るだけで、ただの紙を人に変え、憎しみに囚われていた霊を浄化させた。暗く堕ちた闇の化身でさえも、きっと一瞬で光導くだろう」
耳元で囁かれた言葉に、一瞬面食らった。
今までと違う、彼の低く囁く声はまるで別人のようだった。後ろにいるのは本当に一夜なのだろうか?
不安になり、そろそろと後ろを仰ぎ見た。
すると、彼は浄霊された霊の方に視線が釘付けで、あたしの視線に全く気づいていなかった。
だが、あたしの方はその見慣れた顔に一瞬、冷たく暗い誰かの顔が重なってみえた。
まるでフラッシュバックのように、あたしの頭の中にある人の姿が映った。
「え?ミチカゲさん…?」
あたしがいた世界で出会ったある男性。
刹那、前を向いていた一夜が弾かれたようにこちらを振り向いた。
ぎくっとした。
一夜の目の色は左右違うはずなのに、こちらを見る目は両目とも真紅だ。
「うそ…!なんで?なんでここに、ミチカゲさんが…」
居るはずがないその人。
今まで忘れていたのがうそみたいに、次から次へと彼のことを思い出していく。
「相変わらず鋭い目だな」
驚いていた彼が深い息を吐いて、ふっと暗く冷たい目で笑う。
その目には、身に覚えがあった。
初めて会った時の彼がしていた目。
まるで世界に独りぼっちでいるような、深い悲しみと孤独感を感じさせる目だ。
その目に囚われそうになり、危険を感じた。
「やっ…!」
咄嗟に彼を押しのけた。
彼に触れたその両手は震え、心臓は早鐘のように鳴り響いている。
ゆっくりと後退りすると、彼が不思議そうに首を傾げ、あたしに押された胸元にゆっくりと手を這わせた。
何かを考えるようにじっとしてから、すぐに拒絶されたと感じたのか、微かに傷ついた表情をした。
ズキって胸が痛み、足を止めた時だった。
「おいっ、お前たち!よくも勝手なことをしてくれたな!」
そこに、保憲さんの怒鳴り声が響いた。
ビクッとしてそちらを振り向くと、保憲さんが怒りに満ちた目で鋭くあたしたちを睨みつけて、こちらに近づいてきていた。
「や、保憲さん…?ちょっとあの、今は取り込み中でして…」
頼む!今は喧嘩を売らないで!
目の前にいる彼が気がかりで保憲さんまで構っていられない。
ちらりと向かいを見れば、ミチカゲさんの表情があからさまに冷たくなっていた。
「あ…っ、だめぇ!」
危険を感じて咄嗟に叫ぶと、ミチカゲさんが保憲さんの方に手をかざした。
ズズズっ、と空気が避ける音が響き、何もない空中に黒い穴がうまれ、その中から鴉のような黒い鳥が現れた。
それが次々と勢い良く飛び出して、近づいてきた保憲さんに襲いかかった。
「なっ…ぐっ、やめ…!」
身代わりも防ぐことも、何もできずに、保憲さんは悲鳴をあげる。
あっという間の出来事だった。
気づくと保憲さんの全身、鋭利な刃物で刺されたように傷だらけで、力尽きたように足元から崩れ落ちた。
「一夜!」
晴明の叫ぶ声がした。途端、彼の身体が見えない何かに縛られ、動きを封じられた。
晴明の術が、彼の自由を奪ったのだろう。
舌を鳴らし、顔を歪めた彼は冷たい目を晴明に向けた。
「本当に、ミチカゲさんなの?」
戸惑うように呟くと、ミチカゲさんなのか一夜なのか、彼はゆっくりとあたしに視線を戻し、妖しく微笑んだ。
「今はどちらでも無い。俺はもう二度と、お前を手放さない」
低く呟かれた声は、まるで呪縛のようにあたしを捕らえる。
忘れていたのに思い出す、彼との想い出は甘く輝いていた。初めて本気で人を好きになった。
だけど、彼には残忍な一面がある。危険すぎる彼を拒絶した時のことも思い出し、凍りついた。
ミチカゲさんがゆっくりと前に進む。晴明の術に縛られているため動きはぎこちない。
危険だからと、逃げないといけないのにあたしは動けなかった。
彼に再会して嬉しく思う気持ちが、あたしの行動を鈍らせていた。追い詰められた気持ちなり顔を歪ますと、近づいた彼がゆっくりとあたしに手を伸ばした。
「桃子」
彼があたしの名を呼んだ、次の瞬間。
横から引っ張られ、あたしを庇うように晴明が現れた。
彼が驚いたように動きを止めた。
「離れろよ道満。いつまでいる…?その中から出て行け」
晴明が冷たく吐き捨てるように呟くと、一夜に成りすましていたミチカゲさんが憎しみを込めた目で晴明を睨み、唸り声を上げた。
「晴明…っ。貴様こそ、その女から離れろ!」
怒りの孕んだ怒鳴り声に、カタカタと床が揺れた。
ハッとして周りを見ると揺れが強くなり、脆く老朽化していた屋敷は全体ミシミシと音を立てた。
穴の空いた床が崩れ、天井の板が壊れた。
「ミチカゲさん!」
悲鳴を上げて、彼を止めようと叫ぶ。
「危ない!」
すると、晴明があたしを庇うように抱きしめて横に飛んだ。
ズシン!と音が響き、その場に天井板が落ちてきた。
周りに砂埃が舞い、ゴホゴホと咳き込む。見えにくい視界の中、ミチカゲさんが後ろを振り向き、離れていく姿が見えた。
「ミチカゲさん!」
晴明の腕から這い出て、彼の後を追いかけた。
「止めろ!追うな!ここを離れるぞ!」
しかし、すぐに晴明に呼び止められ、もがくあたしを反対側の廊下に引きずっていく。
「やっ…離して!待って!ねぇ、行かないでミチカゲさん!」
あたしは見えなくなる彼の背に向かって、泣きたい気持ちを堪え、必死に叫んだ。
「いいかげんにしろ!危ないんだ!」
晴明の怒鳴る声がするが、あたしはそれでもミチカゲさんに向かおうと暴れる。
「ぐっ…!」
すると晴明の体にあたしの肘が当たったのか、力が弱まった。
「ミチカゲさん!」
あたしは晴明の腕から逃れ、崩れる部屋の奥へと走った。
刹那、バキバキバキッ!と大きな音がした。
「え…?」
その瞬間、壁の板があたしに倒れてきて、避ける間も無くそれはあたしの上へと倒れ込んだ。
「きゃああああ!?」
悲鳴を上げ、激しく床に倒れた衝撃にガツンと頭を打った。
「桃子!!」
くらっとして目の前が霞み、必死な様子でこちらに駆け寄ってくる晴明の姿を最後に、あたしは意識を失った。
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