肆
すると、彼はそれはもう不機嫌な顔をしてあたしを睨み付けた。
「謝って済む問題では…いっ!くっ、唇も切れたか…」
大声で喋ったら痛みがしたのか、顔をしかめて唸る。
唇の左端から血が出ている。
確かに唇が切れていた。
「わ、だだ大丈夫ですか!?」
慌てる。声を上げて彼に近づくと、険しかった彼の表情が驚きに変化する。
「お前…その唇…」
「え…?唇?」
唇がどうした…と唇に触れると、ツキン、と小さな痛みが走る。
「な、んだ?右端…?」
なんだろう?痛いような?
唇の右端に触れるとジンとして、手にはぬるりとした感触がした。
不思議に思い手を離してよく見ると、そこに血がついていた。
「え?うそ!?あたしも切ってるじゃん!」
驚いて声を上げる。そしてふと、晴明に視線を向けると、彼は目を見開いたまま固まっていた。
「−−−ん?どうしたんです?」
(珍しいな。そんなに驚いたのかな?)
固まっている晴明に呼びかけるが返事がない。
(まさか、今ので頭を打って頭に障害が!?)
さっと青ざめた。
「大丈夫!?晴明さん!」
声を上げて晴明に手を伸ばす。
ハッと我に返った晴明が触れる寸前、その手を払いのけた。
「さ、触るな!ケダモノっ!」
顔を真っ赤にした彼が叫んだ。
「ケダ…?…え?は…はあっ!?ケダモノぉ!あたしが!?」
こ、こいつは…!
(心配してやったのに、そのあたしをケダモノ扱いか!)
あまりにひどい言い草に、頭がきて思わず怒鳴る。
すると、晴明はびくっと脅えて唇をガードし、ふるふると震え出した。
よく見ると耳まで真っ赤にして、こちらを睨む目は潤んでいる。
(え…?なに、この反応…。これはどういうことかな?)
晴明の恥じらうような、予期せぬ反応に思考がついていかない。
目を瞬かせ、訝しげに首をひねる。
「−−−−晴明!!」
そこに、外から叫び声がした。
その声に晴明は弾かれたように顔をそちらに向けて、立ち上がろうとした。
しかし、膝が震え立てないらしくストンと座り込んでしまい、焦ったように両足を叩いていた。
「晴明!…桃子殿!居ないのか?」
続けて声がした。こちらに近づいてきている声。これは、道長さんだな。
晴明はまだ立てない様子だ。足首でも痛めたのだろうか??
(…仕方ない)
あたしが代わりに出よう。
立ち上がって廊下に出ようとしたら、「どこに行く!」と晴明に呼び止められた。
うんざりして足を止め、ため息をつくと、
「あたしが代わりに出ますよ」
振り向きざまに素っ気なく答えた。
「なっ…!待て!い、行くな!」
晴明が焦ったように声を上げ、あたしを止めようと両手で体を引きずり近づいてくる。
(おいおい、マジかよ)
そんなことしてもあたしは止まらないぞ。
それになんか彼の弱った姿は初めてで、新鮮だ。
「なんか、いい気味」
フッと笑い、ボソッと思ったことを呟くと、それが晴明の耳に届いたらしい。
ピタッと止まり、今度は羞恥からカッと顔を赤らめた。
(お、くるか?)
怒るだろうと、そう思い、身構えた。
「…悪かった。さっきのは…、さっきのは謝る。私が悪かった」
だが、彼は羞恥に耐えてあたしに謝り、またズルズルと近づいてきた。
(−−−晴明…あんた…)
そこまでして止めたいのか?
「おーーいっ!誰もいないの!」
また道長さんの呼ぶ声がした。
(あっ、いけない。道長さんが行っちゃう!)
あたしは彼に会って話がしたいのだ。
晴明に悪いが、無視することにした。
ふいっと後ろを向いて歩き出そうと足を持ち上げた途端、ぐん!と後ろに引っ張られた。
「…晴明さんっ。道長さんが行っちゃう!」
止められイラッとしたあたしは、足元にいる晴明に向かって叫んだ。
「ダメだ。行かせない…!」
必死に晴明はあたしの右足にしがみついた。
よほど、この姿を見られたくないようだ。
「…!別にいいじゃない。晴明さんは動けないんでしょ」
嫌味を込めて、言った。
未だに立てない理由ははっきりしないが、この様子だとまだしばらくは座ったままだ。
「…!これは、お前が悪いじゃないか」
「…はぁ?あたし?なんでよ?」
「た、倒れて、下敷きにした。私を、ケガした」
息を呑んだ。
確かにあたしは晴明を下敷きにしてしまった。倒れても怪我はなく、こうして動けている。
だけど、これは最初に手を振り払い拒絶した彼にも責任があった。
怒りに青筋が浮かぶ。腕を組んだあたしは、晴明さんを冷たく見下ろした。
「あなたってホント、サイテーですね。忘れましたか?下敷きになったのは自業自得でしょ?最初にあたしを振り払わなければこんなことにならなかった。倒れもしなければ、立ち上がれないほど怪我もしなかった。自分が拒絶して、その言い方ないじゃない?」
どこまでも見下げた男だ。
初めに拒絶し、手を放したのはどこのどいつだ!
今度は晴明が息を呑んだ。そして、気まずそうに視線をそらす。
少しは反省しただろうか?
「はぁ…。もう、やめましょう。こんな言い争っていても仕方ない。怪我をされたようだし、後から責任持って手当てしますから、まずは道長さんに失礼のないよう出るべきです」
そう言って再びあたしは廊下に振り向く。歩き出してみたが、今度は晴明は止めなかった。
「…ケガした、責任?それは一体どういう……!?いや、まさかな…っ、でもそれは…」
ただなにかブツブツ独り言のように呟いているのを耳にして、廊下に出ると、母屋の中庭からこちらに近づいて来る道長さんの姿が見えた。
あたしはなるべく晴明の姿を見せないようにしようと、道長さんがこちらに来る前に中庭に降りて、早歩きで近づいた。
「あ!よかった。いたんだね」
道長さんがあたしに気づいた。
彼はどこかホッとして、にっこりと優しい笑顔を浮かべる。
(はぁ…いいね。癒されるわ)
特に!晴明と喧嘩、口論したあととかね!!
つられてあたしも笑顔を返した。
「もう心配したよ~~。君の部屋に行って呼びかけても返事がないし、晴明もいないみたいだしさ!どこに行っちゃったのかなって心配しちゃった!」
胸をなでおろし、安堵した表情で人懐っこくはにかむ。
なんていうか、もうほんと、可愛いよねぇ…。
歳上みたいだけど、そんなの気にしないくらい言動がいちいちツボに入る。
「いやいやごめんね、道長さん。ちょうど今、ご飯を作ろうかなって、台所に行ってたんだ」
さり気無く料理できるんだ、とアピールしてみる。
「え?料理作れるの?」
意外だったのか、驚かれた。
「は、はい。下手ですが、多少は…」
笑ってみせるが、視線は泳いでしまう。
そういえば、こちらに来てから一度も料理した事ないな。
この時代の料理は今と比べて調味料なんてなさそうだし、なにより質素で、味が薄い。
作れないことはないと思うけど、電化製品ないしなぁ。米なんてかまどで炊いているよね。
あ、火をつけるコンロもないか。
「へー、そうなんだね。すごいなぁ」
道長さんは純粋にそう思ったようで、キラキラした目を向けてくる。
「うっ…」
言葉に詰まるあたし。そんな目で見ないで!嘘というかこれは見栄だから!
「じゃあ、じゃあさ。今度僕に手料理してよ」
恥じらうようにほんのり頬を染めた道長さんが、可愛らしく小首を傾げ、申された。
その可愛さに、胸がキュンと高鳴った。
「はい!作ります!是非、作らせて下さい!」
鼻息荒く彼に詰め寄り、その勢いに任せて彼の両手をぎゅっと握りしめる。
握られた道長さんが気圧されたように、あたしの勢いに少し驚いたようだが、すぐにくすくすとおかしそうに笑った。
「うん!ありがとう桃子殿」
そして、ぎゅっと握り返して小さくはにかんだ。
(きゃあああ!!どうしようどうしよう!もうなんか、今日はいつにも増してドキドキする!)
胸がキュンキュンし、テンションが上がった。
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