第56話
『表現の不自由展』について
表現には自由はない。『表現の不自由展』の彼らがやっていることは「正義のためなら原爆を投下しても構わない」ということとまったく同じロジックだ。正義面した悪魔。
ただ表現には自由はないということを真に理解するためには一回自分で原爆を作ってみないとわからない。アインシュタインのように。画家だって人物画を描きたいと思ったらどこかの時点で裸体画の勉強をしなければならない。
ただそれとはまったく違う種類の表現の自由がある。それは普通にしていること。無為自然。
蝉の抜け殻
年を取ってくると若い時に比べて一日一日が淡々と過ぎていくようになった。特にアップがあるわけでもなく、ダウンがあるわけでもない。もちろん個別のシチュエーションにおいてはいつもため息の連続なのだが(今年一年で一番多く発した言葉は「はぁー。」かもしれない)。ただ年を取るというのは都合よく忘れることを身に着けることでもあるらしい。それで一年がすべて平坦に感じられる。
この一年で何か僕の生活に彩を加えたもの、それは夏にたまたま拾ってきた蝉の抜け殻だけかもしれない。
植物を発育させるには
目の前でキンモクセイが咲いているのにその香りが感じられない。長年にわたる喫煙が影響しているのか鼻がばかになってきた。至近距離まで行くと何とかかすかに香りを感じるのだがそうじゃないとだめだ。まったくわからない。食べ物のうまいまずいを感じるには嗅覚が果たす役割も大きいという。世界の半分を失った気分。それどころか自分の知らないところで悪臭を振りまいていても気づかない状態になっているのかもしれない。「はぁー。」
ただその一方で得られる新しい世界もあるはずだ。げんにうちにある植物の鉢植えからは雑草たちがよく伸びている。彼女たちにもし優れた聴覚があるのなら僕のギターで間違いなく気が滅入っていたはず。そんな気配もなく頼んでもいないのによく伸びている。
「妖精たちは嬉しい時happyと言わずにdancyという。」『ケンジントン公園のピーター・パン』より。
彼女たちがdancyと感じてくれてるのなら僕もdancyなのだが。
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