第43話

               金のなる木

 最近珍しくサボテンの花が咲いてるのを見かけたり、ミドリガメを散歩させてるお婆さんと出会って話をしたりと、何かいいことが起こりそうだ、という予兆に多く出くわした。が、実生活では疲れることが次々にやってきた(なんでそうなるんだ?)。それもこれもあの時すれ違ったチャックを全開にして歩いていた爺さんのせいだろうか。


 ところでそんな僕の部屋にもう一つの幸運の予兆、金のなる木がやってきた。果たして金がなるのが先か、枯れるのが先か。

 とにかくチャックを全開にした爺さんには気を付けよう。




                  習慣

 つい先日も子供を狙った残念な事件が起こったばかりだが、そんな中で自分の中に驚きの発見をした。

 ああいった事件が報道されることに慣れてきてしまっている。

「またか。」


 過去にも宮崎勤の事件だとか池田小の事件など同様の事件はあって、言い方は悪いかもしれないが事件の性質そのものが特殊だというわけではない。ただ個別の事件を今でも覚えているぐらい非日常の出来事だった。

 ただここ十年程その種の事件が当たり前のように起こっていて、説明されないとその事件を思い出せないほど非日常が日常になってしまっている。

 襲撃事件だけではなくて高齢ドライバーなどの運転ミスによる死亡事故なども本来は非日常の出来事だったはずなのだ。

「またか。」


 いつかこういう状況は改善されるのだろうか、それとも完全に僕たちの生活の一部となって意識もしないようになってしまうのだろうか。




           チェスの国の人と将棋の国の人

 あまりにもコンピューターに勝てない日が続いたので、目先を変えて二十何年ぶりに将棋をやってみた。そうしたら意外と面白い発見があった。


 将棋は獲った駒を持ち駒として使える。だから単純に可能性としてチェスより多くのことが起こりうる。逆に言うとチェスは可能性が少ない分より先が読めるし、勝ちたいと思ったらより先を正確に読まなければならない。その結果素人から見ると「なんだこの手は」という手の連続になる。チェスの名人たちが脳髄だけからできていて、神経質で病的なのも納得できる。

 その点僕らの将棋というのは可能性が多いからこそ不確定要素に満ちていて、その不確定要素といかに付き合っていくかが問題になる。将棋の名人たちに温和な人が多いのも、将棋がただ勝ち負けの問題であるより人の道の探求であると言った方がいいからなのだろう。個人的には将棋の国に生まれてきてよかった。


 ただ個人的にはチェスの方が好きだ。それでまたコンピューターに負け続けなければならない。


 もう一つ言うと、日本の囲碁の棋士たちは韓国の囲碁の棋士に勝てない。それはやっぱり勝つことが至上命題の韓国の棋士に比べ温和なところがあるせいなのだろう。

 

 




 


 

 

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