秋葉誠也が殺した



 秋葉誠也が殺した。

 果たして私の推理は正しいのだろうか。

 間違っていることを祈りながら、十一月二十四日金曜日の早朝、私は佐久本先生にむりを言って視聴覚室に入らせてもらっていた。


 恵那が何者かによって殺害されてから、もう一週間と四日が経っている。

 部屋の立ち入り禁止こそ解かれたが、まだここが授業で使われることはなかった。

 幾つものパーソナルコンピューターが規則正しく並べられた光景はどこか異様で、不気味な印象を植え付ける。

 カーペット状になっている床にはまだ薄らと黒染みが残っている。

 きっとあそこに恵那は倒れていたのだろう。

 きっとそれは一瞬のことだったはず。

 もしかしたら自分が襲われたのだという自覚すら恵那にはなかったかもしれない。

 不機嫌そうに鼻を鳴らす空調の音がやけに耳障りだった。



「……揃いましたね」



 すり足のような足音が外から聞こえ、誰かが視聴覚室に近づいてきたのがわかってしばらくすると、扉がぎこちなく開かれて秋葉先輩が顔を見せた。


「おはようございます、佐久本先生」

「おはよう、誠也くん」

「おはよう、詩音」

「おはよう、誠也」

「おはよう、綱海」


 視聴覚室の中にいる私と佐久本先生と詩音さんの全員に、秋葉先輩は丁寧に挨拶をする。

 だけど私は秋葉先輩に挨拶を返さなかった。

 私がこの人から受け取りたい言葉は、そんな上辺を撫でるようなものではなかったから。


「秋葉先輩も来てくれたようなので、早速話を始めたいと思います。三人には事前に伝えた通り、今日は私が猫の変死事件の犯人ではないことを証明したいと思います」


 下手な前置きは要らない。

 私は誰にも視線を合わせずに、独り言のように喋り始める。

 すでに話の内容は佐久本先生と詩音さんには伝えてある。

 この二人には一緒に聞いて、見て欲しかっただけだ。

 夏の終わりから続いていた猫の変死事件と、そして恵那を殺害した犯人が秋葉誠也であると口にする私に対して、秋葉先輩本人がどんな言葉を発し、どんな表情をするのかを。

 昨日はあれほど近くに感じた秋葉先輩が、今は信じられないほど遠くにいるように感じた。


「まずはちょうど一週間前の金曜日の話から。ここにいる三人にはすでに伝えましたけど、あの日私は宮下聡という少年を見つけ、彼の後をつけました。その理由も前に言ったことがあると思います。その時は、猫の変死事件の犯人が宮下聡ではないかと疑っていたからです」


 実際には猫の変死事件を超えて、恵那の殺人事件の犯人でさえあると疑っていたけれど、それはもう過去の話だ。

 今はもう宮下聡がただの餌だったということに気づいている。


「金曜日の朝、宮下聡を付けていった私は、やがてある一か所で彼が立ち止まるのを見ました。そしてしばらくして彼が去ると、立ち止まっていた場所で猫が虐殺されているのを見つけたわけです。その後すぐに駅と反対方向に向かって行く私を不審がり、着いてきたと言う秋葉先輩に出会いました。この時私は宮下聡が猫を殺したのだと疑わなかった」

「でもそれはあり得ない。なぜなら宮下くんはその日の朝の授業に間に合っているから。僕が実際に見ている」

「はい。そうです。佐久本先生の言う通り、あの金曜日の朝、宮下聡はもし猫を殺していたとしたら間に合わない時間帯に学校に着いていた。矛盾しています。つまり私は何か見間違いか、勘違いをしているということになります。……そうです。私は見間違い、そして勘違いをさせられたんです。意図的に」


 一つ目の思い込み。

 私は記憶を巻き戻す。

 いつも通りの時間帯に乗ったはずの電車で出会った宮下聡。

 入学してから半年以上が経っているのに、これまで一度も顔を合わせたことがない同級生がいるのは、ありえなくはないがどちらといえば不自然だ。


 ではどうして彼はあの日に私の前に姿を見せたのか。


 あの日、これまでの世界と違っていたこと。

 それは二つある。

 一つはこの世界から恵那がいなくなったこと、そしてもう一つは強い雨が降っていたことだ。

 一週間前の金曜日、宮下聡はたしかに私の前にいた。

 自らの目は嘘を吐いていない。

 しかしあの日、宮下聡は猫を殺していない。

 

 途中で彼は道を戻り、学校へ向かったのだ。

 

 その事に私は気づくことができなかった。

 なぜなら、あの日は太陽が世界を照らしつけるのに疲れたのか、眠たげな灰雲が空を覆い冷たい雨が降りしきっていたから。


「あの日は強い雨が降っていました。電車で私は宮下聡を見かけましたが、その後外へ出ると彼は黒くて大きな傘を差していた。つまり私が尾行していたのは外に出た時点で、宮下聡ではなくて、私たちの高校の制服を着て、駅とは反対方向に歩く、黒い傘をさした少年へと変わっていたというわけです」


 宮下聡を追いかけている途中何度か曲がり角があった。

 尾行が気づかれないようにしていたという理由で距離は十分に開いていた。

 もし途中の角で宮下聡が誰か別の男子生徒と傘を取り変えて、再び駅の方へ向かおうとしてしまえば、それだけで私は宮下聡を見失ってしまう。

 私は自分が見たものを信じる。

 あの日、たしかに私は駅へと向かう青い傘の少年とすれ違っている。きっと彼が宮下聡だったのだ。


「当然、宮下聡と入れ違ったのは秋葉先輩です。曲がり角で傘を取り替え、進行方向を変えるだけで私を騙すことは簡単にできたはずです。私はずっと宮下聡を追っていたつもりでしたが、実際には途中から秋葉先輩の背中を追っていたというわけですね」


 どうして。どうして。どうして。

 私は自らの立てた仮説が壊れてしまうことを望みながらも、自分の信じた言葉を羅列していく。

 雨はもう止んだはずなのに、濡れた心が乾いてくれない。


「俺は駅とは違う方に行く後輩を心配しただけだ。信じてくれないのか?」

「信じません。私はあの時、宮下聡をつけていましたけど、ずっと歩き続けていたわけじゃありません。彼が猫を殺していると思い込んでいた時は、遠くからその様子を数分間観察していたんです。どうしてその時に先輩は私に追いつかなかったんですか? 私と同じ様に数分間立ち止まって、私の様子を窺っていたわけですか?」

「……ああ、なるほど。たしかにそれは変だな」


 他人事のように矛盾を認める先輩が、どこまでも鬱陶しい。

 部室に置いてあった青の置き傘。

 先週の金曜日に先輩が持っていたのは黒い傘だった。

 私が貧血で倒れ込もうとした瞬間に現れた秋葉先輩。

 あんなものは偶然でもなんでもなかった。

 全ては必然。

 意図的に仕組まれた悪意ある必然でしかない。


「でも鳴子ちゃん、そう聞くとその宮下聡って子も共犯というか、誠也を助けていることになるけど、そうなのかしら?」

「おそらく宮下聡は何も知らず、あの日傘を入れ替えることだけを秋葉先輩に依頼されでもしたんだと思います。彼は大人しく、静かな性格だと聞きました。同じ高校の先輩から頼まれたら、強くは断れなかったのでしょう。もしかするとお金を渡したのかもしれません」


 おそらく宮下聡はミスリードだ。

 どうして彼のことを選んだのかとずっと疑問だったが、理由なんてないのかもしれない。

 偶然、秋葉先輩の言う通りに動いてくれそうなのが彼だっただけ。

 本当は誰でもよかったのだろう。

 自分の命令に従う男子生徒がいればそれで。


「誠也くん、何か反論はあるかい? このままだと僕は、今日は宮下くんに先週の金曜日のことについて強く問いただすことになる。もし君が悪意を持って宮下くんを巻き込んだだけなら、おそらく君に不都合なことを喋ってしまうと思うよ」

「……いや、特に反論はないっす」

「そっか。……残念だよ、誠也くん」


 佐久本先生は本当に残念そうに顔を俯かせる。

 いま言った私の仮説を証明するのは難しくない。

 ただ宮下聡に質問すればいいだけだ。

 先週の金曜日に秋葉誠也という二年生に脅しかお願いをされて、不自然な行動を強いられなかったかと。

 秋葉先輩は少し埃の付いた机の上に腰を寄り掛からせ、疲れたように仄かな微笑を浮かべていた。

 そんな秋葉先輩の様子が無性に苛立った私は、その人を視界から外す。


「私が猫の遺体の前で立ち尽くす写真がSNSにばら撒かれたことを三人ともご存知だと思いますが、あの写真も秋葉先輩なら簡単に撮ることができました。猫の変死事件の犯人を私に押し付けようとしていたのは、間違いなく秋葉先輩です。いえ、むしろあの写真は秋葉先輩以外には撮れないと言えるでしょう」

「誠也。あたしにスマートフォンを渡しさない。無実なら、できるわよね?」

「なるほど。佐久本先生と詩音には事前に全部話してあるわけか」


 瑠璃の瞳で自身を強く睨みつける詩音さんに対して、秋葉先輩は降参といわんばかかりに両手を挙げたあと、そっと自分のスマートフォンを渡した。

 私は覚えている。

 秋葉先輩はSNSに精通していると、自分で話していたことを。

 フォロワーの多いらしい秋葉先輩ならば、容易にあの写真を広めることができたはずだ。


「……“StoC”、合ったわ。あのアカウントよ」

「誠也くん、いったいどうして君が?」


 もう我慢できないといった様子で、佐久本先生が鳶色の瞳で秋葉先輩に答えを問う。

 しかし本人は先生に対して何の反応も見せず、私だけを真っ直ぐと見据えていた。


「まだ、続きがあるんだろ? 綱海」

「……先週の金曜日以外は正直分かりませんが、少なくとも一匹の猫を惨殺し、私にその罪を秋葉先輩が被せようとしていたことはこれで分かったと思います。ですが、私は正直、先輩の罪はそれだけではないと思っています」

「なんだって? それはどういうことかな、鳴子さん?」

「やっぱりね。わざわざあたし達をここに呼びつけたくらいだから、まだ何かあると思っていたわ」


 ここから先の話は、まだ佐久本先生と詩音さんには話していない。

 それはきっとまだ私が祈っているからだ。

 

 全部間違っていると。


 そう秋葉先輩が言ってくれることを。

 いや、全部じゃなくてもいい。

 少しでもいいから私の言葉に真実でない部分が混ざっていると、いつものすれた声で否定して欲しかった。


「私は恵那を、日和恵那を殺したのも秋葉先輩だと思っています」


 半ば予想していたのだろう、佐久本先生と詩音さんは神妙な顔で私を見守っている。

 肯定もせず、否定もせず、秋葉先輩は私を試すように見つめ続けたままだ。


「まずはこれを見てください。佐久本先生にはついでに、これが本当に本人が書いたものかの確認を」

「あら、これがもしかして噂の深浦大和とかいう子の遺書なのかしら?」

「それは新聞部の相談ボックスに投函されていたものです。おそらく、自殺する前に書き残したんだと思います」

「……これは、おそらく遺書とはまた別に鳴子さん宛てに書いたものだね。警察の人曰く、部屋に残されていた遺書はもっと簡単な内容で、具体的な殺害状況は書いてなかったと聞いてる。それにこの字はたぶん深浦くん本人のものだね。断定はできないけど、彼はこんな字だったはず」


 私は昨日新聞部の部室で見つけた深浦からの手紙を、佐久本先生と詩音さんに見てもらう。

 この手紙は私の仮説の、そして深浦の無実の証明でもあった。


「でも鳴子さん、この手紙の内容を見る限りだと、やはり深浦くんが日和さんを……もちろん、あまりに不運で悲劇的な事故だったことは察することはできるけど」

「……いいえ、違うわよ英二。この手紙はむしろ、この深浦大和という子が犯人ではないという証拠になっているわ。だけど鳴子ちゃん、これを読む限りはもしかして誠也以外にも……」

「はい。大丈夫です、詩音さん。“そっち”もだいたい見当はついていますから」


 聡明な詩音さんはすぐに私が手紙に覚えた違和感に気づいてくれたようだ。

 もし詩音さんが私の立場にいれば、もっと早くに色々なことを看破することができたのじゃないだろうか。

 いや、そもそも、詩音さんならこんな最悪の結末を迎えることなんてなかったはず


「佐久本先生、私もたしかに初めてその手紙を読んだ時は単純に罪の告白をしているだけだと思いました。でも、その手紙の内容は矛盾しているんです。おかしなところがあると、むしろ佐久本先生なら気づけるはずです」

「僕なら気づけるはず? それはいったいどういう意味かな鳴子さん?」

「もう一度よく読み返してください。そして思い出してください。佐久本先生が実際に見たものを」


 おそらく秋葉先輩の最も大きな誤算があるとすればこの二つのだろう。

 一つは深浦が現場の状況を具体的に私に文字で伝えて残したこと。

 もう一つは実際に恵那のことを見つけ出したのが、誰か他の教員などではなく、比較的私たちに近い存在である佐久本先生だったこと。

 白い濃霧の中で必死に細糸を手繰り寄せ、私は黒く汚れた真実の下まで近づいていく。

 霧の外側にも曇天が広がっていると分かっていながらも、それでも自分がどこを歩いているのかわからないよりはマシだと考えていた。


「偶発的に日和さんを押し倒してしまい、その後視聴覚室の外に誰かがやってくる気配を感じて逃げ出した……これはまさに僕が見た通りだ。この深浦くんの言う近づいてくる誰かというのが僕のことじゃないかな。悲鳴のようなものが聞こえなかったのも、日和さんが襲い掛かる側だったのならある程度整合性が取れるように思える」

「違います、先生。もし、深浦の書いてある通りなら、“そもそも先生は視聴覚室に近づかない”んです」

「そもそも近づかない? 何を言っているんだい。だって僕は視聴覚室に……あ、そういうことか」


 はっとした面持ちで佐久本先生は目を見張らせる。

 先生も気づいたのだろう。

 ここでもまたさっきと同じ様に矛盾が生じていることに。


「僕が視聴覚室の様子を見に行こうと思ったのは、なぜか部屋の明かりがついていたから。でも深浦くんは、部屋の明かりが消えた後に日和さんに襲われてしまったと書いている。これはいったいどういうことだろう? 深浦くんが嘘を吐いているということかい?」

「それか、英二が嘘を吐いているかのどっちかよね」

「ちょ、ちょっと待ってくれないか川澄さん。僕は嘘は吐いてない! 本当に明かりがついていたんだ!」


 自分に疑いがかかっていると思ったのか、佐久本先生は慌てたように首を横に振る。

 常識的に考えれば、わざわざ私しか読まないような特別な遺書で嘘をつく必要性は感じない。

 つまり深浦は本当の事、たしかにあの日にあった出来事をありのまま記していることになる。

 佐久本先生が嘘を吐いているか、それかもう一つの別の可能性のどちらかだ。


「詩音さん、佐久本先生を虐めるのはやめてあげてください」

「そうね、ごめんなさい鳴子ちゃん。こんな場面で不謹慎だったわね。自重するわ」

「……私はこう考えています。深浦も、佐久本先生も、“二人とも本当のことを言っている”、と」


 不謹慎とかそういう意味で咎めたわけではなかったけれど、詩音さんは自らの唇に手を当て無実の人間を弄ぶのを止めたようだ。

 そして私がこの佐久本先生の証言と深浦の手紙に書かれてある内容の矛盾に対する答えを口にすると、どうしてか秋葉先輩が少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。

 私はその不誠実な態度に癇癪をぶつけるように、自らが立てた仮説を吐き出していく。


「つまり深浦が明かりの消えた視聴覚室で襲われたのも真実で、また佐久本先生が明かりのついた視聴覚室で恵那を発見したのも真実というわけです」


 深浦は言った。

 自分の手で恵那を殺してしまったと。

 そしてその自責の念から自ら命を絶ってしまった。

 だけどそれは全て間違いなのだ。

 私を猫の変死事件の犯人に仕立て上げたように、秋葉先輩は深浦を恵那殺しの犯人にしてみせたのだ。

 それは深浦本人すら騙してしまう残酷なまでに鮮やかな手口だった。


「佐久本先生の証言は死体検証をした警察も知っているはずです。なので恵那が殺害されたのは先生が視聴覚室に入る直前で間違いないのでしょう。簡単な話です。つまり恵那が殺されたのは先生が明かりのついた視聴覚室に入る直前で、深浦が明かりの消えた視聴覚室で女子生徒を押し倒してしまったのは同じ日の別の時間帯ということです」


 私の言葉に佐久本先生は衝撃を受けたように唖然としていて、詩音さんは手紙を見た時点で全て悟っていたのか小さく頷くような顔を見せている。

 秋葉先輩は何も言わずに、瞳を閉じて安らかな表情をしていた。

 

 また思い込みだ。


 しかも今回は二重の思い込み。

 この層状になった錯覚の罠によって、深浦は背負う必要のない罪を背負い、奪わなくていい命を奪ってしまった。

 これは決して許されることではない。


「おそらく、深浦が押し倒したという女子生徒は恵那ではありません。深浦は恵那だと思い込まされていたんです。突然明かりが消されたせいで、彼は相手の女子生徒をよく見ていませんから。視聴覚室で恵那と待ち合わせをしている、そして特徴的なポニーテールという髪型、少し高めの背丈、唐突に真っ暗になった視界、それらの要素が組み合わさった結果、深浦は突然襲い掛かってきた相手を恵那だと思い込んでしまった」


 首を絞められたと言っているが、おそらくその女子生徒は最初から深浦を傷つける目的はなかった。

 むしろ反撃を貰い、床に倒れ込むことを前提に動いたのだろう。


「深浦が手紙に書いていた教室に近づいてくる誰か、たぶんこの誰かこそが秋葉先輩だと思います。深浦が恵那を殺してしまった、或いは傷つけてしまったと思い込んだ後、時間が経つと今度は秋葉先輩が恵那を呼び出して、殺害したんです」

「そ、そんなことが可能なのかい?」

「難しくはないと思います。もし秋葉先輩が一人だったら恵那の悲鳴や抵抗なく襲い掛かるのは難しいでしょうが、協力者がいればそれは別です。協力者が恵那の気を引いているうちに、背後から秋葉先輩が後頭部に殴りかかればそれで済むでしょう。あとは深浦の証言と合わせるために、許可なく視聴覚室の明かりがついていることを不審に思った誰かが近づいてくるタイミングで部屋を抜け出せばいいだけ」


 恵那を殺した犯人は一人だと思い込んでいた。

 でもきっとそれは違う。

 人を一人殺すのは簡単なことではない。

 人嫌いのタカラさんが秋葉先輩をバイトとして雇ったように、時に人は協力者がいなければ大きなことを成し遂げられない。


「誠也くん、鳴子さんが言っていることは本当なのかい? さすがにこんな、こんなおぞましいことを君がしたなんて到底僕には……」

「その協力者って奴は誰なんだよ。そこまで言うならあてがあるんだろう? わざわざ人殺しに手を貸す物好きの」


 もう瞳が潤んでいる佐久本先生の方は一切見ずに、秋葉先輩は私だけに黒の瞳を向け続けている。


 どうして。どうして。どうして。


 私はいまだに秋葉先輩の瞳が濁ることなく、透き通ったままでいられる理由がまるでわからなかった。


「……私を盗撮して、猫の変死事件の犯人に仕立て上げようとしたStoCというSNSアカウントがあります。これも当然、秋葉先輩だけでなく、もう一人の協力との共用アカウントだと思います。水曜日にばら撒かれた、私の深浦が一緒に映っている写真。これ、よく考えると変なんですよ」


 私は詩音さんに頼んで、話題に出している写真付きコメントをスマートフォンの画面に映して貰う。

 そこに映っている写真の背景はどれもサニーストリートのものだ。


「私が深浦と会って話をしたのは、この火曜日が初めてじゃありません。私たちは先週の木曜日にも偶然一度会って話をしてます。それなのにその時の写真は一度もアップされていない。私と深浦の関係を主張するなら、日付の異なる写真を用意した方が説得力がますのに、そうしなかった理由は一つしかありません。アップしなかったんじゃなく、アップできなかった。前に私と深浦が会った時のことは知らず、火曜日に私が深浦と会って話すことは知っていたということになります。私が事前に火曜日に、帰宅する前に人に会って話してくると伝えたのはたった二人だけです」

「その二人のうち一人はあたしね」

「はい。そうです。でも詩音さんは秋葉先輩の協力者ではありません。理由はシンプルです。詩音さんは髪が短いので、ポニーテールをして恵那の振りをすることができませんから」

「あら、初めてこの髪型が役に立ったわね」


 私が誰か人に会ってくると実際に言えば、その日に私のことをつけるだけで高確率で深浦と一緒にいる場面を撮影することができる。

 秋葉先輩以上にその動機が理解できなかったけれど、きっと“彼女”が協力者なのだろう。


「それにアカウントの名前です。“StoC”、私は初めに見た時はサトシ、つまり宮下聡の名前を表していると思いましたが、そうじゃない。そもそもTとOだけを小文字にする理由もわからないし、あえてシをSではなくCで表記するのも不自然です。そしてわざわざアカウントの名前程度に複雑な暗号を仕掛けるとも思えませんでした」


 様々な思い込みが解けた今なら理解できる。

 このアカウントの名前の意味が。

 答えはすぐ見えるところにあった。

 宮下聡が犯人だという思い込みが、恵那を殺したのは一人だという思い込みがなければ、そのアカウント名はこれ以上ないほど単純なものだった。


「これはアカウント保有者の名前、つまりイニシャルを表しているんです。“S”はセイヤのS、小文字のtoはそのままローマ字読みで“と”、要するに“アンド”の意味、そして最後の“C”が当然協力者の頭文字を表しています」


 Cから始まる名前で、私が深浦と会うことを予想できた人物。

 それはずっと私の隣りにいた、もう一人の親友以外には存在しなかった。


「“田島千絵”。今日秋葉先輩に連絡した時点で、彼女も私がに疑われていることに気づいたはずです。本当は彼女もここに来てるんじゃないですか?」


 私は諦観したようにその名を口にする。

 誰かに私の独演を遮って欲しかった。

 でも秋葉先輩はいまだに私に全てが嘘だと、間違っているとは伝えてくれない。

 私は踊り続ける。

 紐を手繰る者なんていないのに、孤独なマリオネットは誰も幸せにできない演武を続けていた。



「ブラボー、ブラボー、アキの言う通りになったね。ツナがここまでやるとは思わなかったよ」



 パチ、パチ、と間隔のやけに長い気の抜けた拍手がどこからともなく聴こえてくる。

 どこか歪な音の出所は視聴覚室の最奥から。

 いつからそこにいたのか、枝毛の一つない長髪を靡かせて千絵は微笑みを携えながらこちらへ近づいてくる。

 佐久本先生は前触れのない闖入者の出現に言葉を失ったままで、常に飄々としている詩音さんですら驚きに眉を歪めていた。

 そして秋葉先輩はこの日初めて怒りに似た気配を漂わせ私から視線を外して、調子はずれの拍手を続ける千絵の方を向いた。


「田島、お前の負けだ」

「あは。なに、自分は勝ったつもりなわけ、アキ?」


 千絵は唐突に微笑を引っ込めると、何の感情も浮かんでいない幽鬼染みた無表情で秋葉先輩を睥睨する。

 秋葉先輩の協力者は千絵。

 またも私の間違っていて欲しかった仮説は証明されてしまったが、どこかで致命的なミスを犯してしまったような感覚に苛まれていた。

 心が、軋む。


 それは不愉快な真実に直面したのとはまた異なる、蜃気楼に手を伸ばしているだけなのに、終わりの安堵に歩く速度を遅めているような感覚だった。


「ま、いいや。でもツナ、よく気づいたね、うちがアキの協力者だって」

「そもそも深浦が恵那のことを信じられなくなったのは、恵那が最近不審な行動をとるようになったからだと言った。私はそれを秋葉先輩が最近女子生徒とよく会っているという噂とつなげた。でも、よく考えるとこれは不自然なことなんです」


 小さく舌打ち。

 あからさまな苛立ちを見せたのは千絵だけで、他の皆は私がどこに不自然な点を感じたのかまだ気づいていないようだった。

 それもそうだろう。

 この違和感に今視聴覚室にいる人たちは最も気づきにくい存在なのだから。

 私たちは、秋葉誠也という男子生徒に親しみを覚え過ぎていた。


「ごめんなさい、鳴子ちゃん。あたし、それに関してはどこに不自然なところがあるのかわからないわ」

「当然です。詩音さん、それと佐久本先生に関しては分からない方がたぶん自然なんです」

「僕と川澄さんには分からない。それは新聞部に関係する人物には、という意味かい?」

「そうです。私たちは秋葉先輩という人をよく知っている。だから秋葉先輩が女子生徒に会っているという噂を聞いても、変だとは思わない。でも普通の学生は違うんです」


 秋葉誠也。

 その名前は私たちにとってはよく耳にする名前だけれど、他の生徒にとっては違う。

 逆なのだ。

 もし秋葉先輩と恵那が頻繁に顔を合わせていたことが噂の正体ならば、きっとそこに秋葉先輩の名は出てこない。


「秋葉先輩が噂になっているのに、恵那はべつに噂になっていませんでした。これはおかしいんですよ。逆なんです。逆になるのが自然なはずなんです。秋葉先輩と女子生徒が会っているという噂ではなく、恵那と知らない男子生徒が会っているという噂になるはずなんです」


 納得したように詩音さんが口を細める。

 秋葉先輩はそこまで顔も名前も知られた生徒ではない。

 そんな秋葉先輩が学年トップクラスの人気者である恵那と秘密裏に会っている場面を見られていたら、まずは恵那の名前が出るはずだろう。

 しかし実際はそうはならなかった。

 つまり秋葉先輩が会っていた女子生徒は噂の正体である女子生徒は恵那とは別人。

 それこそ私のようにあまり目立たないような子がいたということになる。


「だから私は、秋葉先輩には協力者がいるんじゃないかと考えたの」

「あー、なるほどね。予想外の角度から真実の尻尾が見えちゃうもんだねぇ」


 不満そうに上の犬歯を舌で舐めながら、千絵は私にスマートフォンを手渡す。

 そこにはStoCの本人アカウントが表示されていた。

 思えば恵那が殺された次の日の朝、千絵は頭に包帯を巻いていた。

 あれはまさに深浦の前で恵那の振りをして突き飛ばされた時に怪我したものだったのだろう。


「誠也くん、田島さん。本当に二人が日和さんを?」

「そうだよー、佐久本先生。うちとアキで殺した。ついでに猫の変死事件の犯人もうちら二人」


 宿題をやってくるのを忘れたことを告白するような気軽さで、千絵は佐久本先生の問いかけにあっさりと答える。

 動物や人を手にかけたことに対する罪悪感はどこにも見たらず、ただ悔し気に頬を指で掻くだけだった。


「猫を虐待して殺して遊んでたんだけど、やっぱり物足りなくなっちゃって。そしたらアキがちょうど嵌められそうなヒトがいるから、そいつでも殺してみよっかって言ってきて、うちはそれ乗っかったわけ」


 千絵は手品のネタ晴らしでもするかの如く、フランクに戦慄するような事を口にしている。

 

 虐待して殺して遊んでいた。

 物足りなくなった。

 ちょうど嵌められそうなヒトがいるから、そいつでも殺してみようか。


 どれもこれも海外の言葉のように鼓膜を通り抜けていく。脳が言葉の意味を理解することを拒絶していた。


「これが綺麗に上手くいってさ。深浦は自分が殺したと思い込んで死んだし、猫殺しはいい感じにツナのせいになったと思ったのに。あーあ、惜しかったな。このSNSアカウントとその深浦直筆の手紙はまずい。物的証拠って奴になっちゃうよね。さすがに詰んだかな。いやぁ、まじで悔しい。あとちょっとでうちの勝ちだったのに」


 もう駄目だ。

 千絵は駄目だ。

 千絵はどうしようもなく壊れてしまっていた。

 目の前でぺらぺらと周波数の安定しないラジオのように喋り続ける千絵は、いつも私の隣りで楽しそうに笑う友人の千絵ではなくなってしまっていた。


「……先輩も、この人と同じようなくだらない理由で沢山の猫と、二人の人間を殺したんですか?」

「ちょっとくだらないって酷くない? それに殺した人間は二人じゃなくて、一人だし。深浦は勝手に死んだんじゃん」

「答えてください」


 もう二度と私が千絵の鶯色の瞳を見ることはない。

 千絵とこれ以上言葉を交わしたら、心が錆び腐り、彼女のことをあの雨ざらしの中横たわっていた猫のように扱ってしまうかもしれない。

 私は再起不能なほどには心が歪んでいないように見える秋葉先輩だけ見つめる。

 そこにいるのはいまだに私の知っている秋葉先輩のままで、手を伸ばせばまだ届くような気がしていたのだ。


「……俺は金のためだよ。スナップショットって知ってるか? 猫の虐待写真、動画は金になるんだ。全部金のためさ。人間のスナップショットは初めて撮ったけど、ずいぶん高く売れたよ」

「嘘、ですよね?」

「嘘じゃない」

「嘘です!」

「嘘じゃない!」


 でもやっぱり、私の祈りは神には届かなかった。

 どれだけ手を伸ばしても、霞みを掴むばかりで、傘を取りこぼした私を抱き抱えてくれた時のような胸の温もりは得られない。


「……宮下聡が殺した、あのメッセージを私に届けたのも、秋葉先輩ですね」

「……ああ、そうだよ。俺は猫の変死事件の相談も日和から普通に受けてたからな。その相談の時に、あいつに犯人の可能性がある奴の名前を言って、自分のノートにメモしてもらったりしてたんだ。そのノートの紙きれを貰っただけだよ。馬鹿だよな。目の前にその真犯人がいるってのに」

「訂正してください。恵那は馬鹿じゃありません。恵那は信じたんです。秋葉先輩のことを」

「信じるのが、馬鹿だって言ってるんだ」

「じゃあ、私も馬鹿ですか?」

「お前は……」


 宮下聡が殺した。

 あのメッセージに私は惑わされ過ぎていた。

 あれは秋葉先輩が仕掛けた些細なミスリードにしか過ぎなかったのに。

 今思えば、不審な点は幾つもあった。

 恵那殺しのことを指しているなら、時間帯的に宮下聡に殺されると書く方が自然だ。

 かりに猫の変死事件のことを言っていたのなら、宮下聡が犯人、と書く方が伝わりやすいだろう。

 何より、相談ボックスに入れられたメッセージにも関わらず、宮下聡が殺した、なんていう短い文章にする必要がない。

 最初から恵那が書いた長い文章の一部を切り離して持ってきただけと気づくべきだった。

 

 私は最初からずっと、秋葉先輩に騙されていたのだ。


 それだけじゃない。

 おそらく深浦に自分の罪を信じ込ませるための駒として、利用されていた。

 お金のためだなんて。

 そんな理由で。

 秋葉先輩がお金に困っていることは理解している。

 でもだからってこんな方法しかなかったなんて。

 もっと他に方法があったはず


「私、先輩のこと信じてたのに」


 やはり私は馬鹿だったのだろうか。

 私は縋るように先輩の目を覗き込む。

 その夜の海のように穏やかな瞳には、いまだに情愛が残っているように見えて、それがまた私を苦しめた。


「俺も信じてたよ、綱海のこと。信じてよかったと思ってる」


 タカラさんによろしくな、そして最後にそう言い残すと、秋葉先輩は私の頭を軽く一度叩くと、佐久本先生の方へ歩いて行った。

 モノクロだった世界に、また色がついていく。

 でもそのセピアとシアンが入り混じった世界には、どこか極彩色が足りていない気がしていた。


「たしかにうちは負けたけど、ツナが勝ったわけじゃないから。あんたは最初から勝負の場にすら立ってない。これはうちとアキの勝負。でも安心して、たぶん次は物語の話し手役じゃなくて、物語の主人公役になれると思うから。だけど気をつけてね。敵は手強いよ? うちなんかよりよっぽど」


 佐久本先生と秋葉先輩と共に視聴覚室を去る直前、千絵は最後にそんな不吉な言葉を残して去って行った。

 その表情は自信と陶酔に染まっていて、どこか夢見る少女のような無邪気さに溢れていた。


 私は探偵でもなければ、捜査官でもない、ただの高校生だ。


 物語を誰もが笑って終われる幸せな最後にすることなんてできない。



『ただ悲しめばいい』



 ふと私は、秋葉先輩からいつの日か言われた言葉を思い出す。

 両目から溢れ出る涙を抑え込む術を、一人ぼっちになってしまった私は知らなかった。




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