深浦大和が殺した


 深浦大和が殺した。

 詩音さんから聞いた話から考えると、恵那を殺害できたであろう人間はほとんどいない。

 部活動などの騒音があれば別だが、生徒の多くが下校した夜遅くに大きな物音や悲鳴があれば、それを佐久本先生が耳にしていたはず。

 さらに言えば、そんな時間帯に視聴覚室に呼びだせるような人物はほとんど限られるだろう。

 深浦が言うには、人懐っこく見える恵那には心の底から信用できる相手はあまりいなかったという。

 その発言から考えれば、彼女を人気のない視聴覚室に呼び寄せることができるのはおそらく親友である私か恋人の深浦だけだろう。

 可能性は低いが一応秋葉先輩でも呼びだせたかもしれない。

 だけど秋葉先輩の場合はさすがにある程度恵那も警戒はするはず。

 無防備に背中を晒すような真似はしないように思えた。

 そして当然私は恵那を視聴覚室に呼びだしてもいないし、もちろん頭部を殴りつけたりもしていない。

 そうなると消去法的に判断して、恵那を視聴覚室に誘い襲い掛かったのは深浦ということになる。

 

 しかし、そんなことが本当にありえるのだろうか。

 

 先週の木曜日に私は深浦と直接会話したが、どうにも彼が犯人だとは思えない。

 それに猫の変死事件との方との関連性もまるで見えてこない。

 金曜日に私を盗撮し、ネットに冤罪を巻き散らかしたStoCとかいう謎のアカウントにも深浦の名前の面影は見つけられなかった。


「なーに難しい顔してんの」

「痛っ。ちょっと千絵。いきなりなに。やめてよ」


 すると突然、私の鼻と唇の間の溝を突いてくる不埒な輩が現れる。

 楽しそうに顔を緩めるのは千絵で、彼女は謝るそぶりを見せなかった。


「秘儀。人中突き」

「は?」

「あはは。ツナ、そんな怖い顔しないでよ。人中ってツボらしいから、たぶん健康にいいよ」


 どうやら今しがた私が指でつつかれた箇所は人中と呼ばれるらしい。

 千絵は自分自身の人中をぐりぐりと親指の第一関節を使ってほぐしている。


「ツボ押しなんて頼んでないんだけど」

「だってツナ、今めちゃくちゃ悩んでる感じだったからさ。どうしたわけ? この田島千絵さまに相談してもいいんだよ?」

「べつに悩んでいない」

「はいうそでーす。うちわかるもん。ツナの仏頂面もよく観察すると、元気な時とそうじゃない時の差が微妙にわかるようになってくるわけですよ」


 やたら誇らしげに千絵は胸を張る。

 それに対して私は小さく溜め息を吐いた。

 私はいつも無表情でいることが多いので、少しだけ彼女のように感情表現が豊かな子に憧れたりする。

 だからといって笑顔の練習を自室の鏡でやってみようと思うことはないけれど。


「当ててあげる……ずばり、日和さんのことでしょ?」

「まあ、当たりかな」

「やっぱり。でも他にないよね。ツナの場合、今や被害者でもあるし」


 心配してくれているのか千絵は私のことを気にかけるような視線で窺っている。

 しかし深浦が恵那を殺した犯人だと疑っているとは、いくら彼女が大切な友人だとしても言えなかった。

 そもそも深浦のことを怪しむことになった唯一の根拠である佐久本先生が実際に見たという現場証言さえ、あまり大っぴらに他言していいものには思えなかった。

 詩音さんは軽はずみに私に話していたが、あれも私の事を信頼しての言動だろう。


「まあ、むりに話してくれなくてもいいけど。だけど、あまり抱え込んじゃだめだよ? 日和さんの事件と、ツナは全然関係ないんだから。無関係なツナが考え込んで顔色を悪くする必要はないよ」

「ありがと。ちょっと元気出た」

「うわ。珍しい。ツナが素直に感謝の言葉を口にするなんて。本当にツボ押しが効いたのかな」

「なにそれ。失礼な」

「あはは。うそうそ。ツナが元気になったなら、それでいい」


 千絵は顔の前で手を振って笑う。

 周りから私はどんな堅物だと思われているのだろうか。

 割と本気で自分の生活態度を改善するべきな気がした。

 

 でもやはり、今回の事件に関して私が全くの無関係とは思えない。

 

 恵那は何者かによって殺されたのだ。

 それも新聞部の部室にメッセージまで送りつけてきた。

 

 宮下聡が殺した。

 それはいったいどんな意味を持つのか。

 

 宮下聡と深浦大和。

 恵那の周囲に影を落とすこの二人の男子生徒に何かしらの関係があるのか。

 これ以上はきっと考えても答えは出ない。

 私は一人静かに決意する。

 もう私は傍観者にはなりたくない。

 恵那が、私の親友が何を伝えようとしていたのかを知りたい。必ず真実を突き止めると。


「千絵、今日の放課後も私、ちょっと人に会ってくるから、先帰ってて」

「え? ……はあ、もうツナは本当にしょうがないなぁ」


 ありがたいことに深くは追及してこないけれど、千絵も私が何をしようとしているのかだいたい見当がついているようだ。

 恵那を殺した犯人を見つける。

 たぶん千絵や秋葉先輩はそんな使命は背負わなくていいと言うはず。

 でもそれでは私が納得できなかった。

 私は探偵でも警察でもない。

 だけど私は、恵那の親友だった。


「誰に会うのかは知らないけど、気をつけてね。ちゃんとその人に人中があるか確認するんだよ」

「人中を? なんで?」


 すると千絵は人差し指を一本立てると、自分自身の鼻と唇の間の溝に沿わせるようにする。

 それはまるで私に対して警告するようにも、或いは沈黙を促すようにも見えた。



「鬼には人中がないんだって。だからもし人中のない人がいたら、それは人に化けた鬼ってこと。鬼に食べられないように気をつけてね」







 帰りのホームルームが終わると、私は真っ直ぐと一年八組の教室へ向かった。

 ちょうどそちらも放課後へと移行したようで、前後の扉から沢山の生徒が一斉に出てくる。

 昨日SNSにアップされた画像の影響がまだ残っているのか、ちらちらと穿ったような視線を感じないこともない。

 でもそんな下世話な好奇心に包まれた目は大して気にならなかった。

 

 そんな有象無象の瞳の中で、唯一雀に似た色の双眸だけが私の意識を捉える。

 

 真っ直ぐと注がれる、感情の窺い知れない平坦な視線。

 やや幼さの残る顔と細く繊細な黒髪。

 品性を感じさせる佇まいにも関わらず、どこか他人を遠ざける硬質な雰囲気。

 骨董店に置かれた値札の貼られていない彫刻のような気配を漂わせる少年の名を、今や私はよく知っている。

 

 宮下聡。

 恵那が最後に私へ届けた名の持ち主だ。

 

 それでも彼はすぐに視線を私から外すと、踵を返し廊下の奥へ消えていった。

 言葉を交わすこともなく、瞳が交錯したのもほんの数秒のこと。

 しかし、間違いなく宮下聡は私のことを見ていた。

 そこにどんな思惑があったのか、関心があったのかはわからないし、確認する意志もない。

 宮下聡。

 やはり彼が恵那の事件に何かしらの関係をしていると私の本能が訴えかけていたが、今私が会いに来ているのは彼ではなかった。



「あれ、お前、綱海だろ。こんなところで何してんんだよ」



 高校生にしては低めの声が背中にかかり、私は紅茶色の瞳を一旦忘れて振り返る。

 そこには風邪でも引いているのかマスクを被った私の探し人の姿があった。


「深浦。ちょっと話があるんだけど、いい?」

「俺にか? ……まあいいぜ。ちょうど俺も少し訊きたいことがあったし」

「そう。よかった。ありがとう」

「ただ場所は変えた方がいいかもな」

「そうね。なんかいい場所知ってる?」

「あてはある」


 深浦は周囲を気にする素振りを見せながら、目の横に皺を寄せた。

 恵那の元恋人と、恵那の死に関わっていると噂される女子生徒。

 そんな二人が校内の廊下で会話するのは少しだけ目立ってしまう。

 とりあえず外に出ようと深浦が歩き出そうとしたところで、私は一つだけ確認しておくことにする。


「ねえ、深浦。一回だけマスク取って貰っていい?」

「は? なんでだよ」

「いいから」

「まあ、べつにいいけどよ」


 困惑気に眉をひそめながらも、深浦はマスクを外し口元を見せてくれる。

 彼の鼻と唇の間にはきちんと溝が刻まれていた。


「ほら、これでいいか?」

「ありがとう。もう大丈夫」

「お前、変な奴だな」


 顎までずり下げていたマスクを再び口元に戻すと、深浦は不審そうな目で私を一瞥する。

 どうやら彼は鬼ではないらしい。

 安堵した私は生温い廊下の空気を肩で切ながら、深浦と共に改めて昇降口へと向かう。

 ふとその時、私は頭の片隅に引っかかったものを感じ思い返してみる。

 

 そういえば彼には、人中があっただろうか。

 

 ほんの数分前の記憶にも関わらず、私は宮下聡の鼻と唇の間に溝があったかどうかを思い出せなかった。







 空は重苦しい灰鼠色に染まっていて、いつ雨が振り出してもおかしくない。

 私は鞄の中に折り畳み傘が入っているかどうかを確認してみる。

 どうやら雨粒に顔が濡れた後に、コンビニエンスストアまで走っていく必要はなさそうだった。


 秋もどんどんと暮れに落ち込んでいって、じきに冬がやってくる気配が濃くなっている。

 風は清涼というよりは寒冷で、この一週間で気温もだいぶ下がったような気がしていた。

 それにも関わらず、私の少し前を歩く深浦はいまだにワイシャツの上にブレザー一枚という出で立ちでカーディガンすら羽織っていない。

 元々寒さに強い体質なのか、それとも寒さを感じないほどに身も心も凍えてしまっているのか、その判断はつかない。


「なんか飲むか?」


 ふと深浦は自動販売機の前で立ち止まると、私に何が欲しいかを訊いてくる。

 同年代の男子に奢って貰うのはなんとなく気が引けたが、何度か日本人らしい譲歩の応酬をした末に暖かいミルクティーを買って貰った。

 初秋と変わらないような格好をしている深浦もホットの緑茶を購入していて、私は少し意外に思う。


「どこかに向かってる時はそうでもないけど、立ち止まるとどうしようもなく寒さを感じるんだ」


 両手で買ったばかりの緑茶に温もりを分けて貰うと、少し歩いて深浦は閑散とした広場の長椅子に腰かける。

 サニーストリートと呼ばれる小さなショッピングモール。

 白吾妻高校の近所にあるここには、春先こそ新入生がうろついている様子がよく見れるけれど、この時期になるともうほとんど誰もこなくなる。


 私も深浦の隣りに腰を下ろす。

 顔を上げると屋外ステージが目に入るが、舞台の上は薄暗がりのがらんどう。

 街路樹の落ち葉がここまで運ばれてきたのか、ステージには茶橙の朽葉が溜まっているが、その事を気にする人は誰もいない。

 もう長いこと使われておらず、使用される予定もないのだろう。


「知ってたか。ここで昔、パフォームがライブやってたらしいぜ」

「ここって、サニストでってこと?」

「ああ。俺たちが入学するずっと前の話だけどさ」


 口を小さくすぼめながら、深浦が緑茶を飲んでいく。

 私もそれに合わせてミルクティーの蓋を開ける。

 甘い香りが鼻先をかすめ、舌の上に熱を伝える。

 パフォームといえば今では結構な知名度を誇るテクノダンスユニットだ。

 あまりそっち方面の音楽を聴かない私でも知っているくらいの有名どころ。

 歌詞の意味はわからないけれど、頭の中でポリリズムを正しい音程で繰り返すことができた。


「でも、もうきっとここには戻ってこないよな」

「そうだね。たぶん戻ってこないよ」


 遠い秋空を見仰ぎながら、寂しそうに深浦が呟く。

 おそらく彼はパフォームの熱心なファンというわけでもないだろう。

 彼のリュックサックに付いているラバーバンドには綴りこそ捻ってあるが英語で“1時”と書いてある。

 これも私の知っている若手ロックバンドだが、音楽の方向性はパフォームとまるで違う。

 きっと彼の寂しさは、悲しさは、もっと別のものに向けられている。


「それで、話ってなんだよ」


 それから数分の間、無言のまま人気のないステージ前で座っていると、おもむろに深浦がこちらへ顔を向けた。

 私は一旦ミルクティーの蓋を締めてから、彼の方に向き直る。


「深浦こそ、なんか私に訊きたいことがあったんじゃなかった?」

「まあ、そうだな。じゃあ俺の方から先でいいか?」

「どうぞ」


 譲り合いの精神というわけでもないけれど、私は先に深浦の訊きたいことを話すように促す。

 だいたいその内容には予想がついていたから、答える準備はできていた。


「SNSで噂になってるあれ、本当なのか?」

「深浦もああいうのやってるんだ」

「まあな。というか綱海はやってないのかよ、逆に」

「やってない」

「まじか。日本の女子高生は全員やってると思ってた」

「偏見だよ」

「みたいだな。俺はだいたいいつも間違ってるんだ」


 自嘲気に深浦が笑う。

 私を盗撮し、その写真をネットにばら撒いた“StoC”とかいう名のアカウント。

 その持ち主が深浦であることはありえるのだろうか。

 その答えは彼の端正な横顔を眺めていても分からなかった。


「で、本当なのか? お前、猫殺したの?」

「申し訳ないけど、殺してない。猫殺しの犯人は私じゃないよ」

「なんだよ申し訳ないって。綱海って結構、変な奴だよな」

「そうかな?」

「そうだよ」


 でもだからなのかもな、そう言葉を続けると、深浦は少しだけ羨ましそうな顔をした。

 どうしてそんな目で私を見るのかはわからない。

 あまり認めたくないけれど、私だって深浦みたいな人間に憧れることはある。

 容姿に優れ、運動も勉強も不足なくできる、皆の人気者。

 私がどうやっても近づけない、代わりになることのできない存在。

 だけど日向に生きる人には、日向に生きる人なりの悩みがあるのかもしれない。

 いつも日陰で休んでいる私には理解のできない苦悩がきっと。


「だけどちょっと安心したよ。綱海がそういう奴じゃなくて」

「安心してくれるのはありがたいけど、そう簡単に私の言葉を信じていいの? もし私が本当は猫殺しの犯人でも、たぶん口ではやってないって言うと思うけど」

「信じるさ。恵那が信じた奴の言葉なら、俺も信じる」


 恵那が信じた相手なら、自分も信じる、そう言い切る深浦の瞳には信念が宿っていた。

 こんな人が恵那を殺したとはやはり思えない。

 改めて直接会話することで、私は深浦への疑いがとんだ見当違いのものに思えて仕方なくなってくる。

 最近恵那との関係が少しぎくしゃくし始めていたとは言っても、いまだに彼女への信用と愛情は消えていない。

 彼がいまだに恵那のことを強く想っていることは、その目を見れば簡単に分かった。

 もし恵那を殺した相手がわかったら、自分の手で殺すと言っていたのもあながち冗談ではないかもしれない。


「それで、綱海が俺に訊きたい話ってのは何なんだよ。俺の方からはもう特にないぞ」

「あー、えと、そうだね。ちょっと恵那の事で分かったことがあって。少し意見を貰おうかと思って」


 話の矛先が私の方に戻ったところで、本来とは違う話題に変えることにする。

 最初は深浦こそが恵那を殺した犯人なのではないかと問い詰めようと考えていたが、もはやそれは無駄な軋轢を生むだけに思えた。

 深浦大和は犯人じゃない。


「先週話した時さ、恵那が他の男子と会ってるみたいなこと言ってたよね」

「ああ。それがどうした?」

「その男子が誰なのか、私たぶん分かった」

「それ、本当なのか?」


 それは私なりの贖罪のつもりだった。

 本人は知らないだろうけど、自分勝手に深浦を恵那殺しの犯人として疑ってしまったことの罪滅ぼしに、彼の誤解を解いてあげることにする。


「教えてくれよ。恵那は、あいつは誰に惚れてたんだ?」

「まず大前提として、その男子生徒と恵那は深浦が思っているような関係じゃないよ」

「なんでそんなことが分かるんだよ」

「本人に訊いたから。恵那とここ最近会ってたのは、秋葉誠也って名前の二年生で、新聞部の先輩なの」

「新聞部の秋葉誠也? 誰だよそれ。そんな奴と恵那にどんな関係があったって言うんだよ」


 僅かばかり興奮したような面持ちで深浦が私を睨みつける。

 手に力が入ったのか、緑茶の残っているペットボトルがぴしりと音を立てる。

 それでも私は金曜日に聞いた話を細かく思い出しながら、冷静さを保ったまま事のあらましを伝えていく。


「先輩が言うには、恵那は新聞部に入りたかったらしい。秋葉先輩は一応新聞部の現部長だから、あの人のところに何度もお願いしに行ったみたい。私のところの先輩に何度入部希望を断られても、恵那は諦めなかったって」

「新聞部に入部? なんでそんなことを……ああ、そういうことか。お前がいるから」

「それで秋葉先輩は恵那に新聞部に入るための熱意を証明しろって言ったらしいの。だからたぶん、恵那はその熱意を証明するために猫の変死事件を一人で調べてたんだと思う。最近、深浦と一緒に帰らない日が増えてたっていうのも、そのせいだと思う」


 私が端的にそこまで伝え終わると、深浦はしばらくの間放心したような顔をした後、疲れ切った溜め息を吐く。

 今思えば、深浦が余計な憂いを抱えてしまったのも、元を辿れば私の責任だ。

 彼には本当に申し訳なく思う。

 やけに喉が渇いた。

 私はもう一度ミルクティーの蓋を開ける。


「じゃあ恵那は、俺のことを裏切ったわけじゃなかったんだな? 最後まであいつは、俺のことを信じてたんだな?」

「そうだと思う。恵那は自分の大切な人を傷つけようとはしない」

「そっか。そうだったのか。じゃあ、なんで俺は、どうしてあいつはあんなことを……」


 ぼとり、と深浦が手元の緑茶を地面に落とす。

 その事に気づいていないのか、彼は拾おうともせずに両手で自分の顔を覆った。

 正直に言って、恵那と深浦の関係がどれほど深いものだったのか私には知る由もない。

 俯くような体勢を取ったまま、数分間深浦は動かないままでいた。

 それでもやがて顔を上げると、何か憑き物が落ちたような醒めた表情で私を見つめる。


「なあ綱海、知ってたか。今から二億年くらい経つと、地球の一日は二十五時間になるらしいぜ」


 そう恵那が言ってたんだ、と続ける深浦の顔は今にも泣き出しそうになっている。


「地球の自転の速度が段々と遅くなっていて、今は一日二十四時間だけど、すげぇ遠い未来では、二十五時間になってるって」


 その話は、私も幼い頃に恵那から聞いたことがあるような気がした。

 地球の潮汐力の関係で、海がブレーキのような働きをしていて、その影響で時間が経てば経つほど地球の自転速度は遅くなっていくと。

 たしか今から八億年くらい昔は一日がたったの二十時間程度しかなかったはずだ。


「俺と恵那が会うのが今から二億年後だったら、俺はもっとあいつのことを知ってやれたのかな」


 懐かしさと、後悔の入り混じったような口振り。

 時は否応なく過ぎ去っていく。

 やり残したこと、やるべきだったこと、その過去の残滓を拾うことは叶わない。

 流した涙を取り戻すことができないように、透き通った思い出に触れることはできない。

 私たちにできるのは、涙の水溜まりに似た記憶の湖に心を浸すことだけ。


「……寒くなってきたな。そろそろ帰るか」

「そうだね。今日はありがとう。ミルクティーも」


 深浦はふっと短く息を吐くと、すっと立ち上がる。

 相変わらず閑散とした広場には冷たい風が通り抜けていき、私の前髪を大きく揺らす。


「俺さ、恵那を殺したのが誰なのか、本当は知ってるんだ」

「……え?」


 そして深浦は私の目をじっと見つめると、唐突に恵那を殺した犯人を知っていると言い出す。

 私の思考がフリーズしたのは、秋暮れの寒さのせいではない。



「綱海には本当に悪いと思ってる。だからお前には全部教えるよ」



 明日になったらな、そう言い残して深浦は私の隣りから立ち去っていく。

 振り返ることはせず、別れの言葉も口にせず、駅とは反対方向である学校の方に向かって深浦は歩き去って行く。

 そんな深浦を黙って見送ることしかできなかった私は、彼が最後に紡いだ言葉の意味を考えてみるが、それは私を混乱の渦に巻き込むばかり。


 結局深浦が最後まで拾うことのしなかった緑茶のペットボトルを手にして、やっと私も椅子から腰を上げることができた。

 しかし結局、私が深浦の口から直接恵那を殺した犯人の名を訊くことはなく、彼の口にした明日がやってくることもなかった。


 十一月二十二日水曜日。

 私と深浦が最後に顔を合わせた翌日、東京都立白吾妻高等学校の男子生徒が一人自宅で首を吊っているのが両親によって発見された。


 発見後男子生徒はすぐに病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認されたという。首を吊った自室には遺書が残っていて、警察には自殺と判断された。


 その自ら命を絶った男子生徒の名は、深浦大和といった。




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