佐久本英二が見つけた
佐久本先生との個人面談を終えて教室に戻り、いつも通り午後の授業を受けたが、目立っていつもと変わったことは起きなかった。
千絵曰く、また電子の世界では少しだけ私のことが話題になっているらしい。
しかし私自身は幸か不幸か、そういった日々の出来事を遠く離れた相手と共有するような習慣がなかったので直接的な影響はなかった。
知らないことは、存在しないのと同じだ。
放課後になると、私は千絵に別れを告げて早歩きで校門に向かった。
いまだに要件は確認していないが、帰宅する前に詩音さんと会う約束になっているからだ。
下駄箱で靴を履き変える際に、知らない生徒から携帯のカメラを向けられているような気がしたが、それは自意識過剰だと思い込むことにしてやり過ごす。
外に出て顔を上げてみれば重苦しい曇天が広がっていたが、今日は雨の予報は出ていない。
折り畳み傘は鞄の奥にしまい込んだまま、私は校門へと急いだ。
「鳴子ちゃん、こっちよ」
よく通る少年のような声が鼓膜に届き、そちらの方向に目を向ければそこには詩音さんがいた。
人目を惹く整った容姿と、独特の佇まい。
何を考えているのかわからない不敵な笑みを浮かべながら、詩音さんは手招きをしている。
「お待たせしました、詩音さん」
「いいのよ。あたし結構人を待つのも好きだから」
「そうなんですか? 意外です。どちらかというと人を待たせるタイプだと思ってました」
「もちろん、人を待たせる方が好きよ。他人の時間を自分のために浪費させるのはとっても快感だもの。でも人を待つのも好きなの。あたしの時間を自分の大切な人のために無駄遣いするのもまた心地いいわ」
「待つのも待たせるも好きなんですか。待ち合わせが得意なんですね」
「得意という言い回しは少し不適切かもしれないわね。待たせるのが楽しいのはあたしにとってどうでもいい相手だけだし、待つのが苦にならないのは大切な相手にだけだから」
「なるほど。詩音さんって尽くすタイプだったんですね」
「そうよ。知らなかった?」
「知りませんでした。知りたいとも思っていなかったので」
「ふふっ、鳴子ちゃんは逆に好きな相手には冷たく当たってしまうタイプかしら?」
「違いますよ。私も好きな相手には尽くすタイプです」
嘘つき、と詩音さんは声には出さず唇だけをそんな風に動かすと、艶やかな前髪を上品な仕草で掻き上げて、また何かを企んでいるような表情を見せつける。
そしていまだに要件を明かすことなく、普段と変わることなく唐突に拒否の許されない誘いを私にするのだった。
「ところで鳴子ちゃんって、甘い物は好きかしら?」
※
都立白吾妻高校の最寄りから二つほど離れた駅で降りると、人混みを猫のように通り抜けながら詩音さんは歩いて行った。
何度か詩音さんを見失いそうになりつつも私は必死でついて行く。
そうやってやけに身軽な詩音さんの背中を追うこと約五分。
アンティークな桑染色の喫茶店に辿り着いた。
内装もまた全体的に落ち着いた雰囲気で、ミドルテンポの洋楽が店内には流れている。
「ここのクリームチーズケーキは絶品なの。レモンピュールとマスカルポーネチーズの相性が最高で、病みつきになるわよ」
「それは楽しみです」
そこら中に漂っている甘ったるい香りに僅かに気を緩めながら、私は詩音さんに続き窓際の席に腰掛ける。
橙色の蛍光灯に照らされる木目調の机の上にメニューを広げ、詩音さんは自分の唇を指でなぞりながらよくわからないカタカナの文字列を眺めていた。
「うーん、どうしようかしら。鳴子ちゃんは飲み物なにがいい?」
「ミルクティーがあれば」
「ミルクティーでも種類が選べるわよ」
「詩音さんにお任せします」
「あら、あたしを試すつもり?」
「べつにそういうわけじゃないです。紅茶とか私あまり詳しくないので」
「そう、ならアッサムでいいんじゃない。妥当過ぎて面白くないかしら?」
「詩音さんの言う面白いものは逆に怖いので、それでお願いします」
私がそう言うと何かが琴線に触れたのか、詩音さんは口元を抑えながらおかしそうに笑った。
そして慣れた調子で注文を私の分まで済ませてくれる。
詩音さんはカモミールを頼んでいた。
「それで、今日は何の用事ですか? ただ私とお茶したかっただけじゃないですよね?」
「なによ。後輩とただお喋りしたいっていう理由だけじゃ不満なわけ?」
「不満というか、不可解です」
「なんだかあたしって、鳴子ちゃんからの信用があまりないのね。少しだけ悲しくなるわ」
「たしかに信用はしてないですね。信頼はしてますけど」
「どっちも同じ意味じゃない」
「違うんですよ。私にとっては」
適当な事を口にしつつも、私は本題に入ろとする。
詩音さんの言動は脈絡がないことが多いが、目的はいつもはっきりとしていた。
だから今回私を呼びだして喫茶店に誘ったのも、何かしら明確な理由があるからなのだろう。
さらに言えば、私はその理由にある程度察しがついていた。
「まあいいわ。ならまず前提として訊きたいのだけれど、九月から続いている猫の変死事件の犯人は、鳴子ちゃんなの?」
予想通りの質問。
詩音さんからの問い掛けにそこまで驚くことはない。
耳聡く、ゴシップ情報に大きな興味を持つ傾向の強い元新聞部部長のことだ。
私が今ちょっとした時の人になっていることくらい当然知っているはずだった。
「いいえ、違います。私は殺していません」
「まあ、そうよね。知ってた。ただの確認だから気を悪くしないで」
詩音さんもまた最初から私のことを疑うようなことはしていなかったらしく、あっさりと信じてくれる。
詩音さんには失礼かもしれないが、正直私たちはそこまで仲がいいわけでもないのに、どうしてここまで信頼してくれているのか少し不思議だった。
「なら質問を変えるわ。猫の変死事件の犯人の見当はついてる? 今回の鳴子ちゃんと猫の死体が映った写真をネットにばら撒いた奴が誰か、心当たりがあるんじゃないかしら?」
ここでやっと詩音さんは本題に入ったようで、瞳の瑠璃の蒼さが増す。
獲物を狙う猛禽に似た視線の鋭さに、私は思わず身じろぎしてしまいそうだった。
「……“宮下聡”、という生徒がこの学校にいることはご存知ですか?」
「ミヤシタサトシ? ……それは誰なの? 詳しく教えて」
詩音さんの眼光から逃げられなかったということもあって、私は先週の月曜日に届けられた手紙のこと、そして金曜日の早朝に起きた出来事、さらに今日の昼に佐久本先生から聞いた話のこと、恵那と私が幼馴染であることすらも全て正直に話してしまうことにした。
そのタイミングで清潔な服装をした店員がアッサムのミルクティーとカモミールティー、それに加えて二人分のクリームチーズケーキを私たちの下まで運んでくる。
思っていたよりケーキはサイズが大きく、中身も詰まっていて食べ応えがありそうだった。
「……なるほどね。だいたい状況は理解したわ」
知っていることを全て話し終えたところで、私は初めてアッサムミルクティーを口に含む。
すぐに芳醇な味わい口の中に広がり、脳髄に幸せな糖分が伝達されていくのがわかった。
「鳴子ちゃんとしては、その宮下とかいう生徒が猫の変死事件の真犯人だと考えているわけね」
「これは秋葉先輩にも過大解釈だと怒られましたが、私としては恵那の事件にも関与しているのではないかと思っています」
「うーん、それはたしかになんとも言えないわね。殺人ともなると、猫を一匹、二匹殺すのとはわけが違うもの」
ハーブティーの一種だというカモミールを、詩音さんは優雅に舌の上で転がしている。
私は次に、微細な装飾のなされた皿に置かれたクリームチーズケーキへ手を付けることにする。
フォークで慎重に突いてみるとしっかりとした弾力を感じた。
樺色の上膜と柔らかなクリーム層を崩さないようにしてすくい上げ、一口食べてみる。
控えめな甘さが舌に浸透していき、爽やかな柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。
チーズクリームは噛むまでもなく温もりで溶けていき、スポンジの生地はほどよい歯触りで、噛むたびに幸せな喜びを教えてくれた。
「それで鳴子ちゃんはその宮下聡とかいう人のことどこまで知っているの?」
「……顔と名前だけです。話したこともありません」
「あ、そう。日和さんとの関係性は?」
「今のところないですね。ただ、恵那の恋人だった深浦大和という生徒と同じクラスに在籍しています」
「へえ? でも彼氏と同じクラスってだけじゃさすがに繋がりが薄すぎるわよね」
どうやら詩音さんも秋葉先輩と同じく、宮下聡が恵那の殺害に関与していることに対しては否定的な見解のようだ。
しかし私も彼が犯人であることの証拠は一切持っていない。
あるのは私の胸の中に眠る直感だけで、たしかな保証はどこにもないので強く主張することはできなかった。
「まず、一つ一つ事件を整理した方がよさそうね。猫の変死事件と日和恵那さんの殺人事件。この二つはとりあえず結びつけないで考えてみましょう」
ピアニストのように細く綺麗な指を一本立てると、詩音さんは薄い唇をすっと結ぶ。
猫の変死事件と恵那が殺された事件。
これら二つの事件は本当に無関係なのだろうか。
共通するのは宮下聡という一人の少年の影のみ。
この影が果たして幻影なのか残影なのか。
それはまだわからない。
「まずは日和さんの事件についてね。“宮下聡が殺した”、そう書かれた書留が新聞部に届けられたのが先週の月曜日、そしてその夜に日和恵那は何者かによって視聴覚室で殺害されてしまった。事件発覚から一週間が経過した今も犯人は不明。第一発見者は英二で、死因は頭部に強い打撃を受けた事とされていて――」
「え? あの、詩音さん、ちょっと今なんて言いました?」
「どうしたの? 何かあたし間違えてしまったかしら?」
「いや、その第一発見者は英二って……それ佐久本先生のことですか?」
「そうよ。あら、知らなかったの? 日和さんが死んでいるところを校内を見回っている時に見つけたのは英二よ」
佐久本英二が見つけた。
ここで意外な事実が明かされる。
教員の一人が恵那が倒れているところを見つけたとは聞いていたが、まさかその教員が佐久本先生だったとは。
私はふと先週佐久本先生の新聞部のこれからの活動について尋ねに行った時のことを思い出す。
そういえばあの時先生はやけに疲れていて、しばらくの間嫌味な大人たちと一緒にいたと愚痴をこぼしていた。
今思えばあの嫌味な大人たちというのは、きっと佐久本先生を第一発見者として尋問した警察関係者たちのこと言っていたのだろう。
「これは英二本人から聞いた話だから本当よ。救急車を呼んだのも英二。校内には生徒は誰も残ってない夜遅くのことだったみたい」
「知りませんでした。どうして佐久本先生は私には言ってくれなかったんですかね」
「英二は優しい人だから。きっと気遣ったのね、鳴子ちゃんのことを。それに自分から話すようなことでもないし」
「でも詩音さんには教えたじゃないですか」
「それはあたしがしつこく訊いたからよ。日和さんが倒れているのを見つけたのは誰なのかってね」
私の記憶の中では今でも恵那が生き生きと笑顔を見せているが、佐久本先生の中ではもしかすると頭部に裂傷か何かをつけ、血溜りの上に倒れ込む恵那の姿が焼き付いているかもしれない。
一人の人間として精神的ストレスに晒されているであろう先生が、私のことをあれほど気遣ってくれることに改めて感謝するべきだと思った。
「でも佐久本先生は校内を見回っていただけですよね。どうして視聴覚室に行ったんですかね」
「なんでも誰も使ってないはずの視聴覚室の明かりがついていて、おかしいなと思ったみたい。それで視聴覚室の扉を確認してみたら鍵がかかっていなかったから、とりあえず明かりを消しておこうと中を覗いたみたみたい」
「犯人の姿は見てないんですか?」
「見てないって言ってたわ。でも後から考えると自分が視聴覚室に近づいていく前に、誰かが反対側に走り去って行くような気もするともこの前訊いた時は言ってたわね」
私は改めて考えてみる。
もし佐久本先生が近づいてくるまで視聴覚室に犯人が残っていたとしたら、恵那が襲われたのは先生が来る直前だったはずだ。
だがそう考えると少しおかしな点があるように思えた。
「それ、少し変ですね」
「あら? どこが変なの?」
私が手元でケーキ用のフォークを弄り回していると、詩音さんが好奇心に満ちた視線で私の方を見つめてくる。
「だって考えてみてください。佐久本先生が視聴覚室に向かおうとしたのは、視聴覚室に明かりがついていたからですよね? それに人の気配もある程度感じたと」
「ええ、そうね」
「ということは犯人は佐久本先生がやってくる寸前まで、視聴覚室にいたということです。犯人は何をしていたんでしょうか?」
「そうね。英二が言うには、倒れ込む日和さんの衣服に乱れた様子もなかったと言っていたし、まさに犯行をおかした直後だったんじゃない?」
「それです。そこがおかしいんです」
そこまで私が口にすると、聡明な詩音さんもこの状況の不可解な点に気づいたようで、はっと息を飲む。
佐久本先生が視聴覚室に近づいたのは、恵那が殺されるまさにその瞬間のはず。
「……なるほど、“音”が足りない。そう言いたいのね?」
「はい。恵那が殺される瞬間の“音”を佐久本先生が耳にしていないのはどう考えてもおかしい」
恵那は何者かによって襲われて死んだのだ。
それにも関わらず、助けを求める悲鳴や逃げ惑おうとする物騒な音をまるで立てず、静かに殺されたというのは不自然過ぎる。
そもそもなぜ恵那は視聴覚室にいたのだろう。
襲撃者に追い詰められてそうなったのならば、佐久本先生がその光景を目にしたり、音を聞きつけてもいいはずだろう。
「たぶん、恵那はおびき寄せられたんです。そして、油断していたところを襲われ、悲鳴を上げる暇もなく意識を失ってしまった」
「ええ、そうね。あたしもそう思うわ。……そうなると、犯人は日和さんと親しい、少なくとも夜遅くに視聴覚室まで呼びだせるような相手。しかもまず間違いなく学校関係者ね」
私はここで改めて戦慄する。
夜の学校に恵那を呼び出し、何も警戒していなかった無防備な彼女の頭部を思い切り強打できるような相手。
そんな人物と私はずっと同じ校舎の中にいて、同じ空気を吸っていたのだ。
「……やはり宮下聡、だと思います。恵那に猫殺しの現場を見られたから、口封じに殺したんですよ」
「その宮下聡が犯人である可能性は高まったけれど、やはりまだ違和感のある点が多いわね。日和さんを宮下聡が視聴覚室に呼びだすことは相当難しいと思うわ。それに英二や他の誰かに気づかれないように音もなく日和さんを殺すのも彼の場合困難ね。だって日和さんは、宮下聡が猫殺しの犯人だと知っているわけだから。むしろ普通の人以上に身の危険を感じていたはずよ」
クリームチーズケーキを小さく切り分け、小さな口に運んでいく詩音さんの論理はまったくもって否定できないものだった。
では恵那を夜に呼びだすことができて、さらに音もなく殺すことができた人物に当てはまる学校関係者などいるのだろうか。
その時、ふと私の脳裏をタンポポの綿毛が横切る。
「一人だけ、思い浮かびました」
「へえ? それは誰?」
詩音さんの瑠璃の瞳に好奇心が宿る。
でも私はこれから自分が口にする名前がどうしても真実には思えなかった。
「……深浦大和。恵那の恋人だった子です。彼だったら恵那を警戒させることなく呼びだすことができたし、視聴覚室の鍵を盗むことだって可能だった」
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