綱海鳴子が殺した
綱海鳴子が殺した。
恵那が何者かによって殺害された日から丁度一週間が経った月曜日の朝、学校に登校した私は得体の知れない好奇の目に晒されていた。
普段はどちらかといえばひっそりと生活を送っていて、あまり他人の注目を集めるタイプではないので、聞き取れない程度の囁き声と遠慮がちだがぶしつけな視線に囲まれるのはかなり居心地が悪い。
「ねぇ、ツナ、大丈夫?」
「……ごめん、千絵。正直いったい何が起こってるのかさっぱりわからないんだけど」
「あ、そっか。ツナってSNSとかやってないもんね」
学内で唯一の友人といっても過言ではない千絵が彼女にしては珍しく神妙な顔をしている。
そんな全く状況を把握できていない私に、千絵がスマートフォンの画面を控えめにも差しだしてくれる。
「ほら、これ見て。昨日、このツイートが投稿されたんだ」
「……これは」
綱海鳴子が殺した。
そんな表題がつけられてソーシャルネットワークサービスに投稿された一つの写真。
そこには無残にも殺害された小さな猫の死骸と、降りしきる秋雨を傘で受け止めながら立ち尽くす私が映っていた。
言い表せない気味の悪さが全身を襲い、鳥肌に毛が逆立つ。
撮られていたのだ。
間違いなくこれは金曜日に私が宮下聡を追っていった時の写真。
全く盗撮されていたことに気づかなかった。
しかし、いったい誰がこんな写真を。それに何のために。
「これめちゃくちゃリツイートされててさ、しかも時期が時期だから、変な邪推をする人もいて……」
「邪推? どんな?」
「ほら、先週、死んだじゃった子。日和さんも、その、ツナが……いや、いやいや、うちは全然そんな風には思ってないよ?」
不機嫌な気分を抱いているのが顔に出てしまったのか、千絵が慌てて取り繕うように首を振る。
白吾妻高校の最寄り駅に降りてからというもの、ずっと監視されるような視線を感じていたが、まさか私の知らないところでこんなことになっているとは思わなかった。
「これ、誰が広めたの?」
「えーと……“StoC”、とかいうアカウントだね。でも、全然プロフィール情報ないし、他には何もツイートしてないみたい」
StoCという名を冠した謎のアカウント。
このアカウントの持ち主として真っ先に思いつくのは、当然“サトシ”、宮下聡だ。
もしあの場に潜みながら、隠れて写真を撮れるとしたら彼しかいない。
私は苛立ちに歯噛みをする。
まんまと嵌められた形だ。
彼は私につけられていることに気づいていた。
そして猫の惨殺事件の罪を全て私になすりつけようとしているのだろう。
「私はやってない。猫も、もちろん恵那のことだって、殺してなんていない」
「うん。わかってるよ。ツナがそんなことをするような人じゃないってことくらいね」
千絵は私を気遣うように微笑みかけてくれる。
しかしすでに先手はうたれてしまっている。
秋葉先輩にはもう恵那の事件にも、猫の変死事件にも、宮下聡にも関わらないようにと言われていたが、どうも静観に徹することはできない気がしていた。
『一年三組、綱海鳴子。至急職員室まで来なさい。繰り返します。一年三組、綱海鳴子、至急職員室まで来なさい』
私の予想とは違わず、午前の授業が終わった途端に、校内放送によって私の名前が響き渡った。
一限目から四限目まで、たったの一度も教員から指名されることがなかったが、どうやらそれは偶然の幸運ではなかったらしい。
私の名前が呼ばれた途端に不自然なまでに静まり返った教室を抜け出すと、寄り道せずに真っ直ぐと職員室を目指す。
腰の辺りで短い間隔で振動するスマートフォンの画面を見てみると、千絵から“頑張って”という暖かいメッセージと、詩音さんから“放課後校門で”という温度の計れない連絡が来ていた。
私の貴重な友人にはお気に入りのスタンプを返し、奇特な先輩には事務的に了解の旨を伝えておいた。
廊下を行き交う名前も顔も知らない生徒からも、盗み見るような視線を何度か受ける。
実際はどうだか知らないが、もしかしたらこれが有名税という奴なのかもしれない。
全く気分は良くなかった。
芸能人とかいう職業には死んでもなりたくないと思った。
「あ、鳴子さん」
「佐久本先生?」
すると職員室の扉の前で、缶コーヒーと三百五十ミリのミルクティーを持った佐久本先生に声をかけられた。
困ったことになったね、と普段とまるで変わらない穏やかな様子の先生に対して、とりあえず私は一礼しておく。
てっきり担任の熊野先生があの意地の悪い顔を歪めて私を待ち構えているとばかり思っていたので、拍子抜けするような気持ちにならなくもなかった。
「熊野先生にお願いしてね、僕が鳴子さんから話を聞かせて貰うことになったんだ」
「はあ、そうなんですか。ありがとうございます」
「べつに感謝はしなくていいよ。僕のわがままだからね」
「でも話って昨日の、というか金曜日の写真のことですよね? もしそうだったら熊野先生より佐久本先生の方が話しやすいです」
「そう言ってくれると嬉しいよ。それにしてもさすが鳴子さん。察しがいいね。やっぱり君は頭がいい」
「褒めても自白はしませんよ」
「ははっ、それはちょっと冗談にしてもブラックが過ぎるよ鳴子さん」
まずは場所を変えようかと佐久本先生は言うと、職員室のさらに奥にある空き教室へと入っていった。
適当に最前列の席に私が座ると、それに合わせて先生も隣りの席に腰掛ける。
甘い物と苦い物のどちらが好きか訊かれたので、私は素直に甘い物の方が好みだと答える。
すると先生は意外だねと言いながら右手に持っていたミルクティーの方を私に差しだしてくれた。
「さてと、それじゃあまず、一応、何で話し合いの場を学校側が鳴子さんとの間に設けようとしたのか説明からさせてもらうね」
優しい佐久本先生は私のことを気遣ってだいぶオブラートに包んだ物の言い方をしてくれる。
実際は話し合いというよりは尋問のはずだ。
世の中の先生が全員この人みたいだったらどれほどよかったことか。
いや、先生はあまりにも優し過ぎて、皆が皆こうであったら秋葉先輩のような輩が調子に乗ってしまう危険性もある。
そう考えると佐久本先生は希少種であるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「実は昨日から学校とある写真についての問い合わせの電話が殺到していてね。それでその写真というのが――」
「わかってます。猫の変死体と私が映っている写真ですよね」
自分で思っている以上に慣れない不特定多数の視線を浴び続けたことがストレスになっていたのか、意図せずに佐久本先生の言葉を遮るように喋ってしまう。
私は非礼を詫びるために頭を深く下げて謝った。
「すいません、佐久本先生」
「いや、いいんだ。今鳴子さんがどんな気持ちかは一応わかっているつもりだから。……それで、改めて確認したいんだけど、鳴子さんは猫に手を出したわけではないんだよね?」
「はい。あの写真はたしかに本物ですが、私は猫を痛めつけるようなことは一切していません」
「そうだよね。それを聞けて安心したよ。もちろん鳴子さんはたちの悪いイタズラに巻き込まれただけだとわかっていたけどね」
佐久本先生はほっとしたように安堵の息を吐く。
私の発言を疑う様子は微塵もなく、べつに嘘をついているわけではないので構わないのだが、その全面的な信頼を少しこそばゆく感じた。
「じゃあ、もう少し突っ込んだ話をしてもいいかな?」
「はい。大丈夫です」
「そもそも、この写真をすぐにありえないデタラメだと学校側が切り捨てられなかったのは、鳴子さん、君の金曜日の行動にも理由があるんだ」
「……ああ、なるほど」
「熊野先生から聞いた限りだと、例の写真が撮られた金曜日、鳴子さんは午前をまるまる休んでたらしいじゃない。それはどうしてなのかな?」
まさにあの猫が殺害されたと思われる時刻、本来なら私は学校にいるべき時間帯だった。
それにも関わらず、あれほど人気の少ない裏路地に私は一人でいた。
これはたしかに素行を疑われても仕方がない。
「……実はある生徒のあとをつけていて、その尾行の途中でその猫の死骸を見つけたんです。そしてその後はちょっと体調が悪くなってしまって、とある料理屋さんで食べ損ねていた朝ご飯をゆっくりと食べていました」
「そのある生徒というのは?」
「……言えません」
宮下聡の名前を素直にここで出してもいい気がしたが、何となく私の本能がそれは危険だと訴えていた。
もし私を嵌めたのが宮下聡だとしたら、間違いなくここで私が彼の名前を出して自分の無実を主張することは予想できるはず。
つまりここで私が宮下聡の名前を口にするのは、彼の筋書き通りで、それだけは何としてでも避けるべきだと直感的に悟ったのだ。
「ご飯を食べに行ったって言うけど、それは一人で?」
「……はい。私、一人で行きました」
銀縁眼鏡の奥の眼を鈍く光らせ、佐久本先生は鋭い質問を飛ばしてくる。
全てを見透かすような鳶色の瞳を私は真正面から受け切ることができず、思わず口にしてしまった嘘を後悔していた。
どうして私は今、素直に秋葉先輩の事を話さなかったのだろう。
迷惑をかけてしまうことを怖れたのだろうか。
こんな自分にも年上への敬意が残っていることに私自身が一番驚いていた。
「ふっ、なるほどね。やっぱり鳴子さんは優しい子だね。誠也くんがあそこまで鳴子さんを気にかける理由が分かったよ」
「え?」
しかし緊張の糸をすっと解くと、佐久本先生はなぜか嬉しそうに頬を緩める。
どうしてこのタイミングで秋葉先輩の名前が出てくるのか全く見当がつかない。
「実は今日の朝、誠也くんが僕のところに来てね、金曜日に何があったのかはあらかた教えてくれたんだよ」
これまで手付かずだった缶コーヒーの蓋をここでやっと開けると、佐久本先生は二口分ほど喉に流し込む。
また知らない間に秋葉先輩と先生が私の事をネタにして話していたという事実に、少しだけ納得できない思いを抱いた。
「だけど、もしかすると誠也くんが鳴子さんのことを庇うために、適当な事を言っている可能性もいくらかはあると思っていたけど、今の鳴子さんの言葉を聞いて確信したよ。全部本当の話なんだってね」
「あの、すいません、まだ話が飲み込めてません」
「ごめんごめん。今、説明するよ。僕が誠也くんから聞いたのは、うちの学校の宮下くんを鳴子さんが尾行していたら、猫の変死体と出くわして、その光景にショックを受けて貧血を起こした鳴子さんを、誠也くんが中華料理屋さんに連れて行ったって話だよ」
すると想像以上に佐久本先生が私の身に起きた出来事を把握していて、私は言葉を失ってしまう。
どうやらすでに宮下聡についての話も聞いてしまっているようだ。
「宮下聡のことも、秋葉先輩から?」
「ああ、今日の朝聞いたよ。新聞部に宮下くんが殺したとかどうとかいう手紙が届いたんでしょ? それが理由で宮下くんに鳴子さんが、あんまり好意的ではない種類の興味を持ったっていう話もね」
「そこまで知ってるなら、もう何も言えません。すいませんでした、隠し事をしてしまって。それに嘘までも」
「べつに構わないよ。その手紙こそ、僕からすれば今回の鳴子さんの写真と同レベルのイタズラにしか思えない。そして誠也くんのことを隠そうとした嘘は、むしろ鳴子さんがやっぱり信用に値する人だと僕に再確認させたから」
相変わらず私や秋葉先輩への好感度が簡単に上がり過ぎる傾向のある佐久本先生に勧められ、私もまだキャップを締めたままだったミルクティーを口に含む。
まだ熱の残っている茶濁色の液体が喉を通ると、甘い香りが染みるように広がっていった。
「でも先生、そこまで秋葉先輩から話を聞いているなら、私が実際にこの目で宮下聡が猫を殺した瞬間を見たことも知っているんじゃないですか?」
「……ああ、そうだね。その話も誠也くんから聞いたけど、たぶん、それはありえないことなんだ。鳴子さんが猫を殺していないことはもちろん信じる。だけどね、だからといって宮下くんが猫を殺したという鳴子さんの話まで信じることはできないんだ」
「どうしてですか? 私は本当に見たんです。それは間違いありません」
「いや、それだけはありえないんだ。鳴子さんはその時貧血気味だったとも聞くし、たぶん見間違いか勘違いをしているんだと思うよ」
「見間違いでも、勘違いでもありません」
私の冤罪を信じてくれる佐久本先生でも、なぜか宮下聡が猫の変死事件の犯人であるということには同意を示してくれない。
手紙と、私という目撃者。
たしかに証拠としては若干頼りないかもしれないが、反対に宮下聡が犯人ではないという証拠もほとんどないはず。
それにも関わらず、なぜ佐久本先生は頑なに宮下聡を庇うのか。
「もし鳴子さんの推測通りなら、この前の金曜日の朝、宮下くんも鳴子さんほどではなくても学校に遅刻すると思うんだ」
「そうですね。私が宮下聡を見失った際の時間を考えても、どんなに急いでも一限目には間に合わないと思います」
私は佐久本先生の当たり前の確認事項に答えながらも、またもや嫌な予感がしていた。
どうしてそんなわかりきったことを今ここで確認してくるのか。
あの日、先週の金曜日、私と秋葉先輩と、そして宮下聡は朝学校にいなかったはず。
その、はずだった。
「実は金曜日の一限目、宮下くんの所属する一年八組は数学、つまりは僕の担当する授業だったんだけど……彼はいたんだよ、最初から自分の席に。遅刻することなくね」
宮下聡は殺していない。
佐久本先生は少しだけ申し訳なさそうな顔をしながらも、たしかにそう言い切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます