綱海鳴子は殺していない



 一人で歩けるくらいに回復した後、行き先も告げずに前を歩いて行く秋葉先輩の背中を黙ってついて行った。

 何だかここ最近、目的地も知らないまま他人に付いて行くことが多くなっている気がする。

 これはあまりよくない傾向だ。

 千絵にも前に言われたけれど、華の女子高生としての自覚を持たないと。

 花は花でも毒花なのは間違いないけれど。


「ここでいいか?」


 やがて秋葉先輩は、“ホウ中華料理店”と書かれた看板をぶら下げた、活気のない店の前で立ち止まった。

 一応営業中の表札はぶら下げられているが、店内は薄暗くあまり客を歓迎している気配はしない。


「これ、やってるんですか?」

「ランチメニュー以外はな」


 この店に入ることをまだ私が受け入れていないにも関わらず、秋葉先輩は立て付けの悪い扉を開いて中に入っていく。

 折り畳み傘の水を切って、小さく畳んでから私も色落ちした垂れ幕をくぐっていった。


「すいませーん。あのー、すいませーん」

「客も店員もいませんね」

「いや、大丈夫大丈夫。店員の方は呼べばそのうち出てくる。すいませーん! タカラさーん!」


 こじんまりとした店内には案の定私たち以外に人の姿はなく、秋葉先輩が何度も声を張り上げて初めて店員らしき妙齢の女性が奥から出てくる。

 黒檀色の髪は腰まで伸びていて、薄い化粧をした顔からはどこか退廃的な雰囲気を感じた。


「……はーい。くそ朝っぱらからいらっしゃいませ」

「あ、やっと出てきた。どうもっす。二人でお願いします」

「ああ、なんだ秋葉か。こんな朝はやくから来るなよ面倒くさい。アタシも暇じゃないんだ。不登校児のサボリ相手をしたくない」

「もう不登校じゃないって何度も言ってるじゃないすか。高校は真面目に行ってます。比較的真面目に」

「あっそ。じゃあ早く学校行け」

「俺をそんな雑に扱っていいんすか。バイトやめますよ?」

「チッ、クソうぜぇ。わかったわかった。好きなとこ座れ。でも食ったらすぐ帰れよ」

「ありがとうございます、タカラさん」


 どうやら女性店員の名前はタカラといって、しかも秋葉先輩と顔見知りのようだ。

 奥のテーブル席に座ると先輩は慣れた手つきで水を注いでくれるので、一応感謝の意味で軽く会釈しておく。

 先ほどの話を聞く限り、この繁盛とは縁のなさそうな店で先輩は働いているらしい。


「ここでバイトしてるんですか?」

「土日だけな。さっきのダルそうな女の人が店長のタカラさんで、たぶん他に店員は俺だけだな。確認したことないがタカラさん以外の店員を見たことはない。タカラさんはめちゃくちゃ面倒臭がりだから店員とかバイトの募集もしたがらないんだよ」

「よくそれで店回ってますね」

「まったくだ。俺も不思議に思うよ」


 秋葉先輩はメニューを私に見やすいように広げてくれる。

 目に入る品々は天津飯や炒飯などのご飯ものから、青椒肉絲、回鍋肉のようなおかず、さらに拉麺、餡かけかた焼きそば等の麺類まで幅広く用意されていた。

 秋葉先輩はここで働いているといっていたが、これら多種多様な料理をつくれるのかはなはだ疑問だ。


「決まったか?」

「まだに決まってるじゃないですか。メニュー渡されてから一分も経ってませんよ。アホなんですか。いえアホでしたね」

「おい、失礼だろ。だいたい同じ高校なんだから、ある程度は頭の出来も同じだろ。俺をアホ呼ばわりするのは、そのまま自分をアホだと認めているのと同じだぞ」

「全然同じじゃないです。まさか同じ高校というだけで、自分の頭の良さが詩音さんと同じレベルにあると勘違いしてるんですか。やっぱり先輩はアホですね」

「詩音はいいんだよ。あいつは変態だから例外だ」

「まああの人が一般的な白吾妻高生でないことは同意しますけど」


 秋葉先輩は隣りのテーブルから勝手にメニュー表を取ってきて、欠伸を噛み殺しながらぺらぺらと捲っていく。

 その間に私もとりあえず注文するものを決めておいた。

 正直に言うと今も大して空腹ではないが、食欲不振は自覚しつつあるのでむりにでもある程度は胃袋にむりにでも詰め込んでおくべきだと思っていた。


「決まったか?」

「本当に先輩は変なところでせっかちですね。まあでも決めました」

「何にするんだ?」

「五目餡かけ焼きそばにします」

「お、センスいいな。俺もそれけっこう好きだぞ」

「なんだか急に五目餡かけ焼きそば食べたくなくなってきました。注文変えていいですか?」

「お前本当に性格悪いな。そんなんだからいつまで経っても彼氏の一人もできないんだぞ」

「セクハラで訴えますよ。だいたい私がいつ彼氏いないって言ったんですか?」

「え? い、いるのか?」

「まあいませんけど」

「なんだよ驚かせるなよ。やっぱりいないじゃないか。ま、そりゃそうだよなぁ。顔は悪くないんだけど、いかんせん性格が悪すぎる。愛嬌が足りないよ、愛嬌が」

「本当に訴えますよ。それに先輩よりはマシです」

「おいおい、俺がいつ彼女いないって言った?」

「いるわけないじゃないですか。いい加減にしてください。不愉快です」

「いやなんでお前がそこで不愉快になるんだよおかしいだろ」


 手元のメニューを元にあった場所に戻しながら、秋葉先輩は何が楽しいのかへらへらと笑っている。

 しかしここで私は詩音さんから見せられた先輩と恵那が一緒に映っている写真の事を思い出し、いつものくだらないやりとりを素直に楽しめなかった。


「すいませーん。タカラさーん。すいませーん!」


 秋葉先輩がまたもや声を張り上げる。

 それを三十秒ほど続けてやっとタカラさんが姿を見せた。

 顔にはあからさまに不機嫌な色が浮かんでいたが、先輩はそれに気づいていないのか平気な顔で注文をし始めた。


「まず五目餡かけ焼きそばを一つ」

「餡かけ焼きそばかよ。だりぃな」

「それと麻婆豆腐、キムチ炒飯、酸辣湯麺お願いします」

「頼み過ぎだろ。面倒くせぇ」

「育ち盛りなんで」

「そのぼんくらな頭をまず育てろようぜぇ。秋葉お前自分の分は自分でつくれよ」

「厨房用の制服持ってきてないんでムリです。腹減ってるんで早くお願いします」

「明日は覚えてろよ。ゴリゴリに客引き込んで来てやる」


 盛大に舌打ちを一つしてから、タカラさんは注文のメモも取らないまま奥にまた引っ込んでいった。

 だが何やら物音が聞こえてきているので、一応料理は作ってくれるらしい。


「先輩、朝から結構食べますね」

「一応、綱海の分も考えて多めに頼んでおいたんだよ。いい先輩だろ?」

「私、小食なんでその気遣い無意味ですよ」

「貧血で倒れかけてたんだろ? とりあえず食べとけよ」


 秋葉先輩は似合わない真面目な口調で私の体調を案じてくれる。

 素直に感謝の言葉を述べるのは気恥ずかしかったので、性格の悪い私は話題を変えることにした。


「そもそも、なんで先輩はあんなところにいたんですか? 私のストーカーですか?」

「ち、違う。俺が学校に行こうとしてたら、たまたま駅の反対側に向かうお前の姿を見かけたんだ」

「それで、後をつけたと。やっぱりストーカーじゃないですか」

「だから違う。非行に走ろうとする後輩を救うための紳士的行動だ」


 実際秋葉先輩が偶然私を見かけていなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

 完全に視界がブラックアウトするほどの重度の貧血だ。

 本気で後頭部辺りをぶつけていた可能性は少なくなかった。

 そういう意味では命の恩人といえなくもない。

 気が向いたらありがとうの一言くらいは言ってあげてもいいかもしれない。


「でも駅に向かって歩いてたってことは、先輩はここら辺に住んでるんですか?」

「ああ、そうだよ。俺は北千住が最寄り」

「そうなんですか。なんか似合いますね。先輩って北千住っぽい顔してます」

「どんな顔だよそれは」

「私の住む西新井にはいない顔ですよ」

「西新井って北千住より埼玉に近いじゃないか。よくそれで俺のこと馬鹿にできたな」

「どういう意味ですかそれ。私と埼玉県に謝って下さい。草加せんべいぶつけますよ」


 この店でバイトをしていると言っていたので推測はついていたが、どうも秋葉先輩はこの付近に住んでいるらしい。

 またどうでもいい知識を増やしてしまった。

 先輩が私と同じ足立区民だということ知り、元々あまりない愛郷心がまた少し減った気がした。


「それで? どうして綱海はあんなところにいたんだ? 最寄りが西新井ならここで降りる必要はないだろ?」


 そして秋葉先輩は僅かに姿勢を正すと、改まった口調でこちらを真っ直ぐと見つめてくる。

 先ほどまでのふざけた雰囲気は抑えられていて、日本人にしては彫りの深い顔にはもう普段の微笑みは浮かんでいない。


「それにあの猫の変死体……なにがあった」


 店内は痛いほどの静寂に満たされていて、降り続く雨音もタカラさんの料理をする音もこの時ばかりはほとんど聴こえてこない。

 私の返事を辛抱強く待つ先輩の烏羽色の瞳に揺るぎはなく、どうも中途半端な誤魔化しは効きそうになかった。


「……宮下聡が殺した」

「なに?」

「宮下聡が殺したんですよ。あの猫」


 脳裏に浮かぶ惨殺された猫の姿。

 死体には触れていないため今も雨ざらしのままになっているはずだ。

 食事を終えて学校に向かう時に埋葬くらいはしてあげた方がいい気がしていた。


「電車の中で宮下聡を見つけたんですけど、彼、ここで降りたんです。だから私も彼を追いかけてみたんですよ」

「だからの意味がわからんな」

「そしたら、猫が、死んでました」

「そしたらの意味はもっとわからん」


 知らない間に俯いていた顔を上げてみれば、秋葉先輩は頭痛を耐えるように目頭を押さえていた。

 私としては自分の行動を分かりやすく端的に説明したつもりだったけれど、先輩の理解にはまるで達することができなかったようだ。


「そもそも宮下聡っていう奴はたしか、あれだろ? 新聞部に届けられた意味不明なメッセージに書かれてた奴だよな。知り合いなのか?」

「知り合いじゃないです。顔は知ってますけど」

「知らない同級生を尾行する必要がどこにある? 顔が好みだったのか?」

「顔は苦手なタイプです。話したことないけど性格もたぶん」

「ならなぜ?」

「……恵那を殺した犯人かもしれないから」


 そこまで言葉を紡ぐと、秋葉先輩の動きが一瞬止まる。

 注がれる宵色の眼差しには憂いと躊躇が共存し、何か言い淀むように唇が小さく震える。

 どうして宮下聡のあとをつけたのか。

 先輩に問い掛けられるまで自分でもわかっていなかった。

 でもきっといま口にした台詞こそが真実なのだろう。


「綱海、お前自分がなにを言ってるのかわかってんのか?」

「わかってます」

「ろくに話したこともない同級生を人殺し呼ばわり。もしそんなことを自分にされたらお前はどう思う?」

「でも宮下聡は猫を殺しました。私は見たんです。それにあのメッセージが届いたその夜に恵那は死にました。これらは無関係ですか?」

「関係があると思う方が変だろ。見たっていうけど直接手にかけたところを見たわけじゃないだろ? メッセージだってただの悪戯――」

「ただの悪戯なんかじゃありません。あのメッセージは恵那からのものです。私には分かるんです。分かりますよ。だって私にとって恵那は、人生で唯一の親友といえる相手だったんですから」


 秋葉先輩を遮るように私は想いを積み重ね上げていく。

 私と恵那の関係性は特別なものだ。

 その特別性はずっと昔に朽ち果ててしまったと思っていたけれど、それはきっと間違い。

 私たちは今もずっと、再び隣り合う日を待ち望み続けていた。

 たとえそれが二度と叶わない絵空事になってしまったとしても、絆の結び目はきつくしめられたままだったのだ。


「最後に恵那と話した時、あの子、宮下聡のことはなにか言ってませんでしたか?」

「は?」

「私はもう何年も恵那と会話をしていませんけど、先輩は違いますよね?」

「綱海、お前いったい何の話を――」

「教えてください、秋葉先輩。先輩は恵那とどういう関係なんですか」


 唇を固く結んで、秋葉先輩は諦観したような表情で黙り込んでいる。

 すると雨脚が強まってきたのか、外から水滴が地面をうつ音が聴こえてくる。

 そして食欲をそそる香ばしい匂いが近づいてきて、先輩は逃げるようにその芳香の方へ顔を向けた。


「はいよ。五目餡かけ焼きそば、キムチ炒飯、麻婆豆腐、酸辣湯麺、お待ちどうさま」

「ありがとうございます、タカラさん」

「さっさと食べてさっさと消えろよ」


 エプロン姿のタカラさんが両手にお盆を乗せて、器用に四品の料理を持ってきてくれた。

 出来立ての品からは湯気が昇っていて、どれもこれも綺麗な盛りつけで美味しそうだった。


「……誰からその話を聞いたのかは知らんが、まずは食べようぜ。料理が冷める前に」

「……はい」


 ふっと長い溜め息を一つ吐くと、秋葉先輩は大きな象牙色のスプーンを手に取り、ほどよい油加減が見ただけで分かる炒飯を掬い口の中に放り込んだ。

 私も先輩に続くようにして、五目餡かけ焼きそばに手を付け始める。

 まずは麺を避けるようにして、具材から口へ運んでいった。

 細長くカットされ食べやすくなっている人参からは優しい甘味が溢れて出ていて、コリコリとした食感が木耳きくらげで楽しむことができる。

 この緑色で渋みの香る野菜はチンゲン菜だろうか。

 私は小海老と筍を箸でつつきながら、餡かけ焼きそばに色味を与えているものが何なのか考えていた。


「相変わらずタカラさんのつくる料理は天下一品だな。これはたしかに下手にバイトは増やさない方がいいかもしれん」


 炒飯を半分ほど食べ終えたところで、秋葉先輩は酸辣湯麺の方に手伸ばし始めていた。

 しかし猫舌なのか、中々上手く食べ進めることができていない。

 とろみのある餡スープに熱がこもっていて、おそらくいまだに出来立ての時と変わらない温度が保たれているのだ。


「たしかに、美味しいです」


 絶妙な火加減で熱を通された麺とオイスターソースのコクが滲み出た餡を絡めさせ、他の具材と一緒に咀嚼する。

 舌に絡みつくように旨味が広がり、噛むたびに味が繊細に変化していく。

 魚介類と野菜類、それらが餡を架け橋にして繋がっていて、味わい深さが幾重にも積みかさなっているのがわかった。


「……日和恵那は、新聞部の入部希望者だったんだよ」

「……え?」


 やっと酸辣湯麺を少しずつ啜ることができるようになってきた辺りで、おもむろに秋葉先輩が言葉を紡いだ。


「俺が日和恵那の事を知っていたのは本当だ。何回か会ったこともある。お前と日和が幼馴染だってことも知っていた。でも俺が好きでその事を隠してたわけじゃない。……綱海、お前には言うなと、そう日和から頼まれていたんだ」

「どういう、ことですか?」


 私は五目餡かけ焼きそばを食べる箸を一旦止め、秋葉先輩の方に視線を注ぐ。

 恵那が新聞部に入部希望を出していた。

 そんな話は初めて聞くし、全く道理のわからないことだ。

 彼女は陸上部に所属していたし、兼部だとしても新聞部に興味を持つような性格ではない。

 ここに来て適当な言い訳を始めたのかと一瞬思ったが、先輩の瞳には夜の海に似た静けさが満ちていて、思いつきの虚言を並べている気配はしなかった。


「夏休みが終わった頃、一応名目上部長となっていた俺のところに日和は入部希望を出しに来た。そこで俺は日和と知り合ったわけだ」


 時々思い出したように酸辣湯麺の赤く酸味の効いていそうなスープを舌に乗せながら、秋葉先輩は懺悔するかのような面持ちで話を続けていく。

 夏休みが終わった頃。

 丁度秋葉先輩が部室に全く顔を出さなくなった時期だ。

 先輩が新聞部から消えていた事と恵那は何か関係があるのだろうか。


「俺は日和の入部希望を断った。でもあいつは中々諦めなかった。何度も俺の下へやってきては、入部を許すように頼んできた」


 秋葉先輩と恵那が噂になるほど密会のようなものを繰り返していた理由がここで判明する。

 やはり先輩と恵那が隠れて付き合っていたりしていたわけではなかったようだ。

 しかしわからないことはまだ沢山ある。

 そもそもどうしてそこまでして新聞部に入部したがったのか。そしてなぜそれを先輩は拒絶したのか。


「あいつがなぜ新聞部に入りたがったのか、分かるか綱海?」

「そんなの分かるわけないじゃないですか」

「分かるわけない、か。だから日和は新聞部に入ろうとしたんだろうな」


 少しだけ悲しそうな表情を浮かべると、秋葉先輩は酸辣湯麺を食べ始めてから空になる頻度の上がった自分のコップに再び水を注ぐ。


「お前だよ、綱海。お前が新聞部に入ってるから、ただそれだけの理由で日和はうちに入部しようとしたんだ」


 そうすればまた、お前と昔みたいな関係になれるかもしれない、そう思ったんだろうな。

 そんな台詞を続けて言うと、秋葉先輩はまた注いだばかりの水を一気に飲み干してしまった。

 

 そうか。違ったんだ。私と恵那は、全然同じではなかった。

 

 いつかまた、なんてずっとかつての幼馴染との時間を取り戻そうとしなかった私とは違って、恵那は行動を起こしていたのだ。

 再び互いに声を掛け合うきっかけを自ら作り出そうと彼女は動いていた。

 何もせずに日々を無為に過ごしていた自分が恥ずかしくなる。

 私は彼女の親友に相応しくないのではないかと自責してしまうほどに。


「俺があいつの入部を断ったのもそれが原因だ。綱海とまた昔みたいな関係に戻りたいから入部したい。さすがにそんなのは認められない。仲直りしたいなら勝手にすればいい。わざわざ新聞部に入部する必要なんてない。同学年だし、ちょっと歩けば会えるんだ。ふつうに話しかければいい。俺は日和にそう言ったんだ」

「……でも、恵那はそうしなかったんですね」

「ああ、変な奴だったよ」

「頑固なんです、恵那は。自分がこうするべきだと一度考えたら、必ずそれを譲らない」


 今はもういない気の強い年下の後輩との問答を思い返しているのか、秋葉先輩は何もない虚空に視線を泳がせている。


「だから俺は冗談半分で言ったのさ。もしお前が新聞部に相応しい人材だと証明することができたら、入部を認めてやるってな」

「新聞部に相応しい人材だと証明? ずいぶん大口を叩きましたね。お飾り部長のくせに」

「そう怒るなよ。お前だって知らない年下の女が、いきなり新聞部自体には興味ないけど、仲良くなりたい相手が所属してるから自分も入らせてくれって言ってきたら、なんとなく撥ね付けたくなるだろ?」

「べつになりません。私は先輩みたいに捻くれてませんから」

「嘘つけ。絶対お前でも俺と同じ態度をとったさ」


 そもそも部長にそこまでの権限は存在しないはずだ。

 顧問である佐久本先生の許可と、あとは担任の先生の許しさせ降りれば入部自体は可能なはず。

 それにも関わらずわざわざ現部長である秋葉先輩のところにも顔を出すなんて、相変わらずよくわからないところで律儀な子だ。


「とにかくそれから、日和は俺のところに来るようなことはなくなった。最初は諦めたんだと思った。それか直接お前のところに行ったんだと考えたんだ」

「私のところには来てません」

「だろうな。前に部室で会った時にそれは何となく悟ったよ。そしてそれだけじゃなく、新聞部に入部することだって諦めたわけじゃなかったんだろうな」


 新聞部に相応しい人材の証明。

 秋葉先輩の意地の悪い難癖に馬鹿正直に応えるために、いったい恵那は何をしようとしたのか。

 私は推測してみようとするが、いまいちこれだと思える回答が思いつかないでいた。


「夏が明けてから発生していた猫の変死事件。日和はその犯人をおそらく捜していたんだ」

「……まさか」


 私はふと深浦大和の言っていた話を思い出す。最近恵那が部活を休むことが増えて来ていたこと、用事があるといって深浦とは一緒に帰ろうとしなくなったこと。

 これら恵那の奇行は、まさに猫の変死事件の犯人捜しが理由なのではないか。


「宮下聡が殺した」

「え?」

「綱海、そのメッセージを書いたのが日和だって話。本当なのか?」

「……はい。それは間違いないです。私、他人の筆跡を見極めるのが得意なので。あれは間違いなく恵那の字でした」

「お前が他人の筆跡を見極められることを日和は知ってたか?」

「それはちょっとわからないですけど、知っていてもおかしくはないと思います」

「だとしたら、やはり日和はあいつなりに事件を捜査し、結果その宮下聡とかいう奴を犯人だと推理し、それを俺たちに伝えたかったんだろうな」


 記事の中に乗せてあった私のコラム内で、いつも猫の変死事件の情報を募集していた。

 あの雑記の事を恵那が把握していたことはすでに深浦から聞いている。

 月曜日に届けられた書置きは、秋葉先輩に示した恵那の覚悟の証明だったのと同時に、私に向けられた友情の確認だったのかもしれない。

 私だったらあのメッセージが恵那からのものである理解できるはず。そんな風に恵那は思っていたのかもしれない。


「……じゃあやっぱり、宮下聡が恵那を殺したんでしょうか」

「おい、綱海。それはさっきも言ったが、論理が飛躍し過ぎている。猫の変死事件の犯人がたとえお前や日和の言うように宮下聡だったとしても、それがイコール日和殺しの犯人とはならないだろ」

「でもだったら、なぜ恵那は殺されたんですか? 猫殺しの犯人であることを恵那に気づかれたから、口封じに殺したと考えるのが自然だと思いますけど」

「どこが自然なんだ。不自然も不自然だろう。動物を虐待死させるのと、生きた人間を殺すのじゃ話が全く違ってくる」


 これまでずっと鳴りを潜めていた空腹がここに来て急に主張し始め、私は五目餡かけ焼きそばをほとんど噛まずに飲み込んでいく。

 誰が恵那を殺したのか。

 犯人を一刻も早く見つけ出したい。

 飢餓を思い出すのと同時に、私の中に燃えるような使命感が生まれてくる。


「それに日和に関しては殺人事件だ。俺たちガキの出る幕はない。お前がいきり立たなくても、警察が勝手に犯人は見つけてくれるだろ」

「……本当にそうですかね」

「どういう意味だよ」

「恵那が殺された事とは関係ないかもしれませんが、猫の変死事件。この事件が起きてからもう三か月は経ちます。なのに犯人はまだ捕まっていない。本当に待っているだけで、恵那の事件は解決されるんですか?」


 べつに日本の警察を信用していないわけではない。

 しかし、どうしても私の心が騒めいて仕方なかったのだ。

 このままではいけないと。

 真実が闇に葬られてしまう不吉な気配を感じられずにはいられなかった。


「……心配のし過ぎだ、綱海。たしかにここまで何度も猫の虐待を続けてきて、いまだに犯人の足取りを警察が掴めていないのは若干気掛かりだが、だからといって俺たちが動く必要はない。俺たちは探偵でもなければ、捜査官でもない。ただの高校生だ」


 それでも秋葉先輩は頑なに恵那の事件との関わりを持つべきではないというスタンスを崩さない。

 今思えば、猫の変死事件の記事作成の権利を私から取り上げたのも先輩だった。

 とにかく何があっても恵那に関わりのある事件を私に触れさせたくないようだ。


「どうしてですか。どうしてそこまでして、私と恵那を引き離そうとするんですか。校内新聞の一時休刊だって、私まだ先輩の口から聞いてないですよ」

「違う。俺はべつにお前と日和を――」

「邪魔しないでくださいよ。恵那への贖罪の邪魔を、しないでください」


 そうだ。

 きっとこの衝動は贖罪と呼ぶべきものだ。

 

 どうしても考えてしまう。

 もし私がもっと早くに恵那に声をかけていていればと。

 

 私たちの間に溝がなければ、恵那が無理に新聞部に入部しようとすることもなかった。

 新聞部に入ろうとしなければ、猫の変死事件に恵那が興味を持つこともなかった。

 そして、猫の変死事件に興味を持つことがなければ、今だって恵那はきっと――、



「日和が死んだのはお前のせいじゃない、綱海。勝手に罪を背負うのはやめろ」



 ――しかし暗い井戸の底に沈みかけていた私の下へ、揺らぎなく迷いのない光が差し込まれる。

 恵那の想いを知り、心を腐らせ始めていた私にとってその灯火はあまりに明るく、熱く、眩しいものだった。


「罪を償う必要なんて、綱海にはないんだ。お前が日和を殺したのか? 違うだろ」


 綱海鳴子は日和恵那を殺していない。

 そんなことは本人の私が一番よく知っている。


「もし猫の変死事件と日和の死が関連していたとしても、彼女を巻き込んでしまったのは俺だ。もし俺が素直に彼女の入部を認めていたら、そもそも俺が新聞部に入っていなかったら、いやもっといえば俺が白吾妻高校に入学していなかったら……たらればを言い出したらキリがないんだ」


 しんと静まり返った店内には、私と秋葉先輩以外の人の姿は見えない。

 窓を白く濡らす雨は降り続けていて、暖かな太陽が顔を覗かせる気配はまるでしていなかった。


「だからもしお前が日和の死を悼んでいるなら、ただ悲しめばいい。お前と日和との思い出には、後悔以外のものだって残っているはずだろ?」


 恵那が死んだという知らせを聞いてから、私は涙を流すこともなかったし、行き場のない憤りを抱くこともなかった。



「いっぱい悲しんで、いっぱい食えばいい。ただ、それだけでいいんだ」



 どうしようもない飢えを満たすために、私は五目餡かけ焼きそばを口の中に次々と運んでいく。

 月曜日からほとんど何も食べれていなかった分を、一気にここで埋め合わせていった。

 目の前の皿が空になると、向かい側からまだ手付かずの麻婆豆腐が私の方へ寄せられる。


「足りないならやるよ。タカラさんの麻婆豆腐は結構刺激が強いから気をつけろよ」


 秋葉先輩の好意を素直に受け取り、私は麻婆豆腐にも箸を伸ばす。

 それなりに量のあった五目餡かけ焼きそばを平らげたにも関わらず、私の身体はいまだに食糧を求め続けていた。

 山椒と香辛料がふんだんに使われた麻婆豆腐は、先輩の言葉に違わず強烈な痛みを私に与えた。

 しかしその痛みの裏側には優しい旨味が潜んでいて、私を慰めるように身体に染み渡っていく。

 この痛みと優しさに、きっと私は救われている。


「……どうだ。美味いだろ?」

「……は、はい。美味しいです。で、でも、先輩の言ってた通り、ちょっと、刺激が強すぎますね」


 辛み成分にやられてしまったのか、鼻がむずむずとしてしまう。

 視界もやけに滲んできて、涙がゆっくりと溢れ出すのがわかった。


「……な、なんで恵那は私に声をかけてくれなかったんですかね。わ、わざわざ、新聞部に入部しなくても、そ、それだけで全部済んだじゃないですか」

「……そうだな」

「……どうして、私は、恵那に話しかけ、なかったんですかね。話しかける、き、機会なんて、いくらでもあったのに。そ、そうしていたら、きっと、私たちは昔みたいに戻れていたのに」

「……そう、だな」


 教室の窓からいつも一人で眺めていた。恵那がグラウンドを駆け回る姿を。

 彼女が校舎の方を見上げて、目が合うような気がしたこともあった。

 それでも私たちの視線が交差するのは本当に一瞬のことで、すぐに私たちは全てを気のせいにしてしまった。

 少し手を伸ばせば届いたのに、私たちは結局最後まですれ違ったまま。



「私、悲しいです。恵那にもう会えないなんて。私、悲しいですよ」



 哀惜が、憤怒が、私の心の中で渦を巻いている。

 きっと久し振りに食べる麻婆豆腐はあまりにも刺激が強すぎたのだろう。

 それからしばらくの間、私の涙はとめどなく流れ続けた。





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