宮下聡を見つけた


 宮下聡を見つけた。

 それは深浦大和と話しをした次の日の朝、学校に向かう電車の中でのことだった。

 憔悴しきった大人たちで埋め尽くされた満員車両。

 命綱代わりにつり革を必死で握っていた私の前の座席に、同じ高校の制服を着た少年が座っていた。


 澄ました表情でブックカバーのなされた文庫本を読み耽っていて、時々神経質そうにブレザーのネクタイを微調整している。

 彼が深浦の見せてくれた写真に写っていた宮下聡だということにはすぐ気づいた。

 しかしまさか同じ路線を使っているとは思わなかった。

 これまでも今日のように同じ車両に居合わせたことがあったのだろうか。

 私は煤けた記憶をあさってみるが、思い出されるのは通勤の混雑に顔を歪める大人たちばかり。

 たまによく見かける同年代の顔も浮かび上がってくるけれど、その中に宮下聡の冷たい童顔は含まれていなかった。


『次は北千住、北千住。常磐線、千代田線、筑波エクスプレス線にお乗り換えの方は……』


 窓の外側には大粒の水滴が幾つも付着していて、私が電車に乗り込む前と今は空模様が一致していないのであろうことが分かる。

 やがて穏やかな慣性が身体にのしかかり、二日間放置した炭酸を開けた時のような音と共に電車の扉が左右にスライドしていった。

 スーツ色で出来た波に乗って外に押し出されると、私は乗り換えのために地下鉄の方へ歩いて行く。

 何となく周囲を見渡してみれば、やはり私に少し遅れて宮下聡が電車から降りてくるところだった。


 しかしなぜか彼は私と同じ方向には歩いて行こうとはせず、改札のある上の階に向かって行こうとしている。


 べつに登校する前にお散歩をするくらい余裕のある時間帯というわけでもない。

 いったいどこに行くつもりなのだろう。

 多大な好奇心とほんの一握りの逃避癖を持って、私もまた踵を返しお決まりの道から自分の意思で逸れていく。

 もちろん宮下聡と直接接触して、恵那との関係性を問い詰めようと思ったりはしていない。

 ただ、ちょっとだけ気になっただけ。

 普段クラスでも大人しくしていて、目立たない彼がなぜ遅刻することも厭わず道を外れていくのかが知りたくなったのだ。


 私は宮下聡のことを知っているが、おそらく向こうは私のことを知らないはず。

 尾行紛いのことをしても、そこまで怪しまれることもないだろう。

 それでも存在を気づかれたら、その時点で深追いは止めて素直に一時限目に向かうつもりだったけれど。

 

 都会の喧騒に紛れて、宮下聡と私は霧雨満ちる灰色の街へ繰り出していく。

 折り畳み傘を鞄から取り出す私の数メートル先で、宮下聡は首から上がすっぽり隠れるような大きな傘をさしている。

 夜を零したように真っ黒な傘は、どこか行き先がすでに決まっているかのように迷いなく道をなぞっていく。

 肌にまとわりつく湿気に不愉快さを感じつつも、私も適当な距離を保ったままそんな彼をぴったりと追いかけていく。

 ローファーにゆっくりと水分が浸透していっているのが分かる。

 宮下聡の足跡を踏んでいくたびに、靴が僅かずつ重くなっていった。

 

 今のところ宮下聡が立ち止まったり、こちらの方へ顔を振り向かせるようなこともない。

 まだ私につけられていることには気づいていないはずだ。

 

 曲がり角を何度も通り過ぎていく宮下聡は、段々と人気の少ない裏道へと入り込んでいった。

 途中で一度、角を曲がったところで私たちと同じ制服を着た青い傘の男子生徒とすれ違うようなこともあったが、それでも宮下聡は何も気にすることなくどんどん駅から離れていった。

 本当にいったいどこに向かっているのだろう。

 他人より若干警戒心の緩い私でも不安から追いかける足が鈍くなり始めていた。

 

 すると四度目の曲がり角を過ぎたところで、宮下聡が足を止めているのが見て取れた。

 何かを見下ろすように棒立ちし、やがてゆっくりとしゃがみ込む。

 私は身近な遮蔽物に半分ほど隠れながら、宮下聡の様子を観察する。

 どうやらゴミ捨て場の辺りで傘をさしたまま器用に手元を動かしているようだ。

 それから数十分が経過しただろうか。

 雨粒が粒径を増し、霧という呼称が不釣り合いなほど傘を打ちつける音が大きくなってきた辺りで、やっと宮下聡は腰を上げる。


 そのまま彼は裏道を反対側に抜けて、またどこかへ向かおうとする。

 私も慌てて後を追うが、裏道の向こう側にはもう宮下聡の姿は見つからなかった、どうやら距離を取り過ぎて見失ってしまったらしい。

 ここで私は宮下聡を尾行することを諦め、もうとっくのとうに一限目は始まってしまっているが、とりあえず学校に再び向かうことにする。

 しかしその時、私の足下に奇妙なものが流れてくるのを見て、思わず足を止めてしまう。


 視線を落とすと目に入る真っ赤に色づいた雨水。

 雨天特有の湿気た匂いの中に、生臭く金属的な異臭が混じり込んでいる。

 澱んだ水と腐った臭気を追うと、自然と先ほどまで宮下聡が屈み込んでいたゴミ捨て場に辿り着く。

 そして私は自分の瞳に映り込んできたものが何なのか、一瞬理解できなかった。

 

 赤黒く濡れた毛の塊と、生理的嫌悪感をもたらす朱色の艶。

 それは赤い紫陽花のように不自然なもの。

 くすんだ硬質な白が僅かに覗いていて、その白も時間と共に赤に汚されていく、

 

 私が“ソレ”を実際に目にするのは、これが初めてではない。

 

 猫の変死体。

 酸性の空気が身体の奥から湧き上がってくるが、ここ数日間まともに食事をとっていないおかげか、胃の中から消化途中の半固体が押し戻されることはない。

 静かに横たわる猫は、顎から喉にかけて斬り裂かれていて口腔と気管らしきものが不自然に露見していた。

 おそらく断末魔すら上げられない最期だったはず。

 

 まさかここで、この一カ月間ほど発生していなかった猫の虐殺死の現場に出くわすとは思わなかった。

 少し眩暈を感じふらつく私は、この悲惨な光景が何を意味するのかを考えてみる。

 周囲を赤く染めていく血はいまだ新鮮で、時間経過によって固まっていた気配はない。

 つまりはこの猫が惨殺されたのはついさっきということになる。

 では誰がこの猫を手にかけたのか。

 疑問の余地はほとんどなく、まず間違いなく宮下聡だろう。

 

 この猫を宮下聡が殺した。

 私はその事実に戦慄し、気温の低下以外の理由で鳥肌が立つのが分かった。

 

 そこまで思考を進めた私は、ふと思い返してみる。

 新聞部に届けられた、“宮下聡が殺した”というメッセージ。

 あれもまた恵那の殺人に関することではなく、この猫の虐殺の方のことを指していたのではないだろうか。

 私と同じように、恵那も何らかの偶然によって宮下聡の凶行を目にしてしまったのだ。

 ではあの書置きをなぜ新聞部に届けたのか。

 これに関してもある程度予測はつく。

 おそらくあの伝言は新聞部に向けられたものではなく、新聞部に属するある個人に向けられたものだったのだ。

 この数か月の間、恵那と何かしらの関係性を持っていたのは一人しかいない。


 宮下聡が殺した。

 恵那が発したメッセージの宛先は、きっと秋葉先輩だった。

 これまでずっと不透明だった世界に色がつき始め、私の頭の中が加速し出していく。


 どうして秋葉先輩がこの猫の虐殺事件に興味を持ち始めたのか。

 秋葉先輩と恵那の関係性は何か。

 なぜ宮下聡は猫を殺したのか。

 そして、どうして、誰に、恵那の命は奪われてしまったのか。


 これまでどこか自分とは関係ない、遠くの出来事のように感じていた事柄の間に張り巡らされた薄い糸が見え始め、心に潜む好奇心が使命感に塗り替えられていく感覚をおぼえる。


 知りたい。

 私は、恵那のことを、恵那と私たちの周りでどんなことが起きていたのかを知りたい。私にはそれを知る義務がある。

 ふいに、私の頬に凍えた雨滴が届く。

 猫の死骸を心の準備なく目にしてしまったせいか、やや平常心を失い、脈絡のない強迫観念に囚われる私の視界が突如ぶれた。


 視野を暗く狭めていた傘がゆっくりと地面に落ちていく。どうやら傘を手から取りこぼしてしまったらしい。


 身を守る術を失った私に、容赦なく雨風が吹きつけてきて、なけなしの体温を奪っていく。


 傘を拾おうとすると、再び前足のひしゃげた猫の骸が目に入る。

 しかしその亡き骸に、なぜか恵那の姿が重なって、私の身体が動かなくなる。

 喉を捌かれ、身体の内側が外側に飛びだし、関節とは反対側に曲がる恵那の細長い肢体。

 

 見開かれた大きな瞳には蒼白い私の顔が映り込んでいて、苦悶を訴えかけている。


 どうして。どうしてわたしのことを助けてくれなかったの。ナル。どうして。

 

私はただの傍観者だった。彼女の痛みにも気づかず、真実を探そうとすらしなかった。


 痛い。痛いよナル。わたしは待っていたのに。ずっと待っていたのに。


 私はただの新聞部員だ。

 猫の虐殺事件のことを記事にしているからといって、その犯人を捕まえるようなことを期待されても困る。


 あなたはわたしを見捨てた。ただ遠くから眺めているだけで、わたしを救おうとも考えなかった。


 傘の内側に雨水が溜まっていく。

 呼吸の仕方を忘れた私の足から力が段々と抜けていき、二度と聴こえるはずのない声が私を責め立て続ける。


 綱海鳴子が殺した。わたしを殺したのはあなただよ、ナル。


 視界が全て灰色に包まれ、私は混沌に目を瞑る。

 誰かに引っ張れるように私は背中から倒れ込んでいく。雨に抑え込まれるかのように、身体は立ち続けることができなかった。

 もしここで、アスファルトの地面に頭を打ちつけたら、恵那がどんなことを考えていたのか分かるかな。

 思考の統率を失った私は、そのまま地面に引き摺り込まれることにどうしてか抵抗できなかった。



「綱海!」



 しかし、私を受け止めたのは冷たく濡れ切った土瀝青ではなく、仄かに暖かい生きた人の身体だった。


「……秋葉先輩? どうして秋葉先輩がここに?」

「俺の話は後だ。とにかくお前大丈夫なのか? いきなり崩れ落ちやがって。顔死んでるぞ」

「死んでるのが顔だけで済んでるなら大丈夫ですね」

「笑えない冗談だな」


 私を抱きかかえるような格好をしたまま、同じ高校の制服を着た背の高く案外胸板の厚い男子生徒が呆れたような表情をしている。


 優しい心音が、私に呼吸の仕方を思い出させていく。


 上手く頭が回らないせいで、この人には訊きたいことが沢山あるはずなのに、そのどれも口にすることができない。


「とりあえず休める場所にでも行った方がいいな。この近くに病院とかあったか?」

「病院なんて大袈裟ですよ。べつに病気とかじゃないので」

「病気じゃない奴がいきなり倒れ込むわけないだろ」

「病気じゃないです。ちょっと朝ご飯食べ損ねちゃったので、それで軽く貧血気味になっただけで」

「腹減って死にそうになってたってことか?」

「まあ、秋葉先輩風に下品な言い方をすればそうですね」


 そんな状態でも減らず口は変わらないな、そんなことを言うと秋葉先輩は何かを思案するようにしばらく黙り込む。

 その間私はずっと抱きかかえられたままで、今すぐ離して欲しかったが、残念ながらそれを口にする気力も力づくで解くような体力も残っていなかった。

 だから仕方なく抱きかかえられたままにしておいてあげる。

 もし余計なことをされたらすぐに訴えるつもりだ。

 でも秋葉先輩にはそんな勇気はないだろう。

 それに私も正直、まだ足下がふらついている。

 だから決して好き好んで秋葉先輩の胸元に収まっているわけではない。


「……なら、飯行くか。まだ朝早いけど、特別におごってやるよ」

「……財布、持ってるんですよね。私は秋葉先輩の分絶対に奢りませんよ」

「ば、馬鹿。今日は大丈夫だよ。いいから行くぞ、ほら。綱海って何が好きななんだ?」


 どうも今日は一限目はおろか二限目にも間に合わない気がしたが、今はそれも気にならなかった。


 たぶんそれはきっと、どうしようもなくお腹が空いてしまっているからだろう。


 私は一向に姿を見せない空腹感に、非行の責任を全て押し付けることにした。




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