深浦大和は殺す
気が付くと私は校舎の外に出ていて、煉瓦を砕いたような色をしたグラウンドを何人もの生徒が駆け抜けていく光景を眺めていた。
都立白吾妻高等学校陸上部の白と黄色のジャージを着たその男女を、自然と目が追ってしまうが、私の瞳が艶やかな長髪が特徴的な背の高い少女を捉えることはない。
恵那はもういないのだ。
彼女は何者かによって殺されてしまった。
二度と彼女の笑顔を見ることはできないし、言葉を交わすことも敵わない。
この高校に恵那も入学していることにはすぐに気づいた。
しかし私は恵那に話しかけることを躊躇してしまい、彼女の方から声をかけてくることもなかった。
視線は何度か感じた。目線が交わることも少なくなかった。
だけれど私たちが再び隣り合い、くだらない会話で笑い合うような日々が来ることはなくなってしまった。
明日は恵那に話しかけよう。明日になったら。明日こそは。
そうやって毎日私は恵那との絆を結び直すことを先送りにし、結局その機会を失ってしまった。
後悔していないと言えば嘘になる。
恵那がこの世界にもういないのだと知ってから、どこか浮ついた心持ちが続いている。
でもどこかでなんとなく、またいつの日か恵那とまた仲良くなれる日が来るのではないかとも思っている自分がいた。
日和恵那は死んだ。
それはたしかに理解しているはずなのに、実感がなかった。
もしかしたら私の心も恵那と一緒に死んでしまったのかもしれない。
そう考えるとすっと気持ちが楽になった。
でも秋の風は冷たく、茜色に染まった澄空を仰いでみたところで、心は楽にはなっても、まるで高揚はしそうになかった。
「おい、お前、綱海鳴子だろ」
するとその時、知り合いがただの一人もいない陸上部の部活動を無意味に眺めていた私の背中に低い声がかかる。
振り返ってみるとそこには私の知る数少ない陸上部員の姿があったが、その彼は他の部員とは違って制服を着たままだった。
「時間あるか? ちょっと付き合えよ」
清潔感のある短髪に、余計な脂肪のついていない痩身。
ブレザーのネクタイをだらしなく緩ませたその少年を私は知っているが、向こうも私の事を知っているのは意外だった。
「……深浦大和、だよね。部活はいいの?」
「……ああ、今は走るより歩きたい気分なんだ」
私がかつての幼馴染を失った日と同じ日に恋人を失くした少年は、ゆっくりとした歩調で土煙舞うグラウンドとは正反対の方に向かっていく。
今はやけに小さく見えるその背中を追って、私もまた緩やかに学校の外に向かって踏み出していった。
檜皮色の落ち葉を避けながら見飽きた歩道をなぞっていく。
斜め前を歩く深浦は無愛想な鉄仮面を保っていて、自分から女子高生を一人誘っておきながら面白い話の一つもせず、黙々と歩き続けていた。
今のところはまだ学校の近所なので私にも馴染みのある景色ばかりだが、それもいつまで続くのかわからない。
いったいどこに連れて行かれるのだろう。
目的地もわからないままろくに話したこともない同級生に付いて行ってるなんて、どうやら案外私は警戒心の低いタイプの人間だったらしい。
そのまま深浦は市街地を抜けて、川沿いの道へ入っていった。
川といっても都内の一級河川だ。
黄土色に濁った水からは川底を見通すことはできず、眺めていて気分がよくなるようなものではない。
「先週もさ、ここを恵那と一緒に歩いたんだよ」
薄汚い川の流れに目を泳がせながら、ぽつりといった雰囲気で深浦が言葉を漏らす。
私の知っている彼はこんな風に沈んだ喋り方をするような人ではなかった。
きっとこれが本来の彼の姿ではないだろう。
恵那がいなくなって変わってしまったのだ。
大切な人を失えば誰だって変わる。
むしろこれまでとほとんど変わらない私の方がおかしい気がしていた。
「まさか死ぬなんてな。正直言って、今も信じられない。変な感じだ。もう俺、恵那と会えないんだよな?」
「……そうだね。もう会えないよ」
「だよな。会えないんだよなぁ」
透明感のある橙の空気に向かって、深浦は細長く息を吐く。
きっと彼の中ではまだ恵那は生きている。
では私の中には恵那はいるのだろうか。
ほんの数秒瞳を瞑って、恵那を探してみる。
見つかるのは過去の面影ばかりで、私より背の高くなった彼女を見つけ出すことはできなかった。
「俺さ、恵那のこと好きだったんだよ」
「知ってる」
「お前は恵那のこと好きだったか、綱海?」
「私は……」
今にも立ち止まりそうなほど遅々とした速度で歩く深浦は、涼し気な風に乗せて私に問い掛ける。
一体彼は私と恵那の関係性をどこまで知っているのだろう。
答えに言い淀む私に、彼はどうしてか縋るような眼差しを送った。
「恵那はさ、お前のこと大好きだったんだと思う」
たぶん、俺よりもな、そう言葉を続ける深浦は少しだけ寂しそうに笑っていた。
「だからお前とは一度ゆっくり話してみたかったんだよ。……できれば、恵那と一緒に三人で話したかったんだけど、ちょっと遅すぎたな」
もう恵那はいない。全ては遅すぎた。
もしもっと早くに私が恵那に少しでもいいから、言葉をかけていたら何か変わっていただろうか。
恵那が私のことをまだ好きでいてくれた。
覚えていてくれた。
深浦から伝えられたその言葉は胸の奥の方まで染み渡っていき、鳩尾の辺りに着地する。
「恵那ってさ、なんていうか、明るくて人懐っこいっていうか、誰にでも好かれるだろ? でもああ見えて、あいつって結構繊細なところがあって、本当に気の許せる相手はあんまりいないって言ってた」
「そうなんだ」
「ああ、そうなんだよ。それでさ、だから訊いてみたことがあるんだよ。じゃあ気の許せる相手とかこの学校にいないのかって」
「深浦を除いて?」
「いや、俺も含めてのつもりで訊いた。馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど、心のどっかで俺の名前を言うことを期待してたりもした」
「期待は裏切られた?」
「ああ、裏切られたよ。ものの見事に。恵那が教えてくれた唯一気の許せる相手の名前は、綱海鳴子っていう聞いたこともない奴の名前だったんだ」
綱海鳴子って、お前で合ってるよな。
そんな今更過ぎる確認を深浦は私にするので、頷く代わりに薄らと顔を出し始めた白月の方に目を向けた。
「小学校の時からの幼馴染なんだろ? その割にはお前と恵那が一緒にいるところ、ほとんど見たことないけどな」
「だろうね。私にも身に覚えがない」
「あいつさ、いっつも校内新聞を持ってきては俺に見せるんだ。これ、ナルが書いた記事だよ、大和も読んでって。幼馴染っていいな。いつも一緒にいなくても、繋がってるって感じがして。恥ずかしい話になるけど、ぶっちゃけちょっとお前に妬いてたよ」
昼と夜の朧げな境界線で、私は見慣れたはずの街並みを眺めている。
このありふれた景色の中に恵那の残滓が隠れている気がして、気づけば必死に瞳を動かしていた。
「ほら、これ見てみろよ」
「……タンポポ? なんか珍しい。あんまりこの時期に見かけない気がする」
「たぶんこれが最後のひと花だと思う。タンポポは夏の花だからな」
植え込みから覗く黄色の花。
根は意外にも太く立派で、ヘラ形の葉より花茎の方が長い。
「先週ここを恵那と一緒に歩いている時に、あいつが見つけたんだ。シロウマタンポポ。もう秋になるのに、まだ生え残っているなんて凄いって、あいつ言ってた」
「シロウマタンポポっていうんだね、これ。見た目は黄色なのに」
「シロウマタンポポのシロウマは、白い馬じゃなくて、依り代の代に馬ってかくらしい」
「へえ。よく知ってる」
「俺も先週初めて知ったよ」
深浦はゆっくりとしゃがみ込むと、シロウマタンポポの葉にそっと手を伸ばす。
脆くすぐ壊れてしまうものを扱うように優しく触れ、何かを慈しむような表情のまましばらくそうしていた。
「夏の花が秋まで持ちこたえても、きっと冬には耐えきれない。それと同じでさ、いくら俺が頑張ったところでいつか別れは来るんだって分かってた。でもまさかこんな形になるなんてな」
腰を上げると深浦は澱んだ都会の川の方へ視線を注ぎ、錆びついた手すりに身体を寄り掛からせた。
私は制服が汚れるのが嫌で深浦の真似はせず、手すりには片腕だけを乗せて川よりはよっぽど綺麗な空に視線を逃がす。
「なあ、綱海。教えてくれよ。あいつはさ、恵那は本当に俺のこと好きだったのかな?」
助けを求めるような深浦の問い掛けに、私はまたもや答えを返せない。
私は何も知らない。
深浦のことも、恵那のことも。
何も知らない私に答えを求めないで欲しかった。
恵那のことを知りたいのはむしろ私の方で、そしてそれがもう二度と叶わないことだとも理解していた。
「知らないよ、そんなこと。どうして私に訊くわけ」
「だってお前、仲良かったんだろ。俺よりもよっぽどさ」
「べつにそこまで仲良くないよ。たしかに恵那とは幼馴染だし、小学校の頃はいつも一緒にいたけど、それは全部昔の話。今の恵那のことはほとんど知らない。高校に入ってからまともに喋ったことだってないし」
「え? そうなのか?」
「うん、そうだよ」
私はここでやっと深浦の間違った認識を訂正する。
私と恵那は彼が思っているような関係性ではない。
知らないところで恵那が私の話をしてくれていたというのはそれなりに嬉しいけれど、だからといって私たちの絆に生じてしまった空白を埋めることにはならない。
おそらく私がいつか恵那に声をかけようと思っていたのと同様に、恵那もまた私にいつか手を伸ばそうと考えていたのだ。
でも、そのいつかが来ることはない。
タンポポの花は赤く染まり、秋の風に耐え切れずに散ってしまったのだから。
「……そっか。お前も、俺と同じなんだな。全然知らないわけだ、あいつのこと」
「たぶん、私より深浦の方が恵那のことには詳しいよ」
私の言葉に自嘲気な響きが混じったことに気づいたのか、深浦は苦笑する。
冷たい空気を肺に吸い込んでも、身体の内側に潜む微熱はまだ収まらない。
「最近、恵那の様子が変だったんだよ。俺を避けてるみたいっていうか、俺より大切なものができたっていうか」
「……へえ」
ふいに漏れる吐息。
私は深浦の口にする変な様子とやらに心当たりがあったが、何も知らないふりをした。
「本人にも直接訊いた。もし俺に不満があったり、他に好きな奴ができたなら正直に言ってくれって。でも恵那は俺に不満もないし、他に好きな奴ができたりしたわけでもないとしか言ってくれなかった。だけど最近、あいつの様子がおかしいのは間違いなかったんだ。時々、部活に来なかったりしたし、用事があって忙しいからって一緒に下校できない日も増えてきていた」
これまで溜め込んでいた膿を捻り出すように、深浦は言葉を重ねていく。
同じ学校の人気者同士。お似合いのカップル。
どこにも破綻はなく、全てが順風満帆に進んでいると私も含めて誰もが思っていた。
しかし深浦が孤独を心に住まわせ始めたのは、どうやら恵那がいなくなってしまう前からだったらしい。
「俺さ、恵那のこと好きだったんだよ」
数分前にしたものと全く同じ台詞を深浦は口にするが、私は全く同じ気持ちでその言葉を受け取ることはできない。
「でもあいつは、俺のことべつに好きじゃなかったのかもな」
そんなことないよ、とは言えなかった。
なぜなら私も知らないから。恵那のことを、深浦と同じように何も知らなかった。
詩音さんから見せて貰った恵那と秋葉先輩が一緒に映っている写真。
その事を伝えるべきかどうか迷うが、結局私は彼に伝えることはしない。
何も知らない私が軽々しく、恵那が自分の恋人に対しても伝えなかった事柄を話すのはあまりにも気が引けたのだ。
「……そろそろ帰るか。今日はありがとな。話せてよかったよ」
枯れ果てていく運命にあるシロウマタンポポから目を離すと、深浦は来た道とはまた別の道を選んで駅の方に向かい始める。
そんな彼の斜め後ろについて行く私は、夜に落ち着いていく世界を瞳に映しながら、そういえば明日の天気予報が雨だったことを思い出す。
雨が振り出す前に、知っておきたいことがあった。
「ねえ深浦、ちょっと一つ訊いていい?」
「ああ、いいぜ。俺の知ってることならな」
「宮下聡っていう名前に聞き覚えある?」
「ミヤシタサトシ?」
あまりに唐突過ぎる質問に虚を突かれたのか、深浦は不思議そうな顔をする。
しかし彼の返答は私を驚かせ、予想外の繋がりに私は再び頭を悩ませることになった。
「……ああ、知ってるぜ。うちのクラスの宮下だろ。あいつがどうしたんだよ」
「え? 同じクラスなの?」
「まあな。でもだからってほぼ喋ったことないけどな」
恵那の恋人である深浦大和と宮下聡は同じクラスだった。
その意外な事実に私は不吉なものを感じ取る。
これらの繋がりは果たして本当に偶然なのだろうか。
「その宮下ってどんな人?」
「どんなって言われてもな。大人しくて、あんまり目立たない奴だな」
「そっか」
「知り合いか?」
「いや、顔も知らない。でもちょっとその人に関することで新聞部に相談事が届けられて」
「知らない奴に関する相談事ね。へえ。新聞部も大変なんだな。……ああ、そういえばクラスの集合写真くらいならあるけど、見てみるか?」
「宮下聡も映ってるの?」
「たぶんな」
手帳型でベージュのカバーがかけられたスマートフォンを取り出し、深浦は幾枚にも渡る写真ファイルを捲っていく。
その過ぎ去っていく思い出の切れ端の中に、時々恵那の微笑みが混じっていて、私の胸に罅を刻んだ。
「あった。これだよこれ。宮下もいる」
「どれ?」
「こいつだよ。このちょっと背が低くて童顔の」
深浦が画面を短い間隔で二度叩くと、一人の少年の顔が拡大される。
小ぶりな鼻に薄い唇。
癖のない黒髪は全体的に男子としては長め。
一重瞼から覗く雀色の瞳には何の感情も映っておらず、つまらなそうに表情は沈んでいる。
これが、彼が、宮下聡。
私は初めて目にする同級生の顔を脳裏に焼きつけた。
「……ねえ、全然また関係ない話していい?」
「なんだよ」
「もし、恵那を殺した犯人がわかって、もしその人が近くにいるってわかったらどうする?」
宮下聡が殺した。
月曜日の朝に新聞部に届けられた恵那からのメッセージ。
もしかしたらあれが恵那の最後の言葉かもしれない。
彼女の最後に伝えたかったことを、深浦にも伝えるべきか逡巡する私は、失意のせいで走れなくなってしまった彼の瞳を見つめてみる。
「……ああ、そうだな。もし恵那を殺した奴が誰かわかったら、そいつは俺が殺すよ。絶対に許しはしない。その罪は必ず、命で償って貰う。たとえ故意でも、偶然でも関係なくな」
疲れたように笑う深浦に、私はまた言葉を返せない。
そして恵那の最後の言葉を伝えることも、やっぱり私にはできなかった。
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