秋葉誠也は知っていた


 秋葉誠也は知っていた。

 私と恵那が幼馴染であるということを。

 どうしてこの高校では私と恵那しか知らないはずのことを、秋葉先輩が知っていたのだろう。

 一晩頭を悩ませても答えは出なかった。


 面白くはないが、それなりに感心する歴史の授業を真面目に聞きながら、私は改めて先輩のことを思い返してみる。

 よくよく考えてみると、私は秋葉先輩のことを何も知らない。

 新聞部に所属する友達が少なく成績の悪い二年生ということ以外に私が知っていることは、部活関係の事務連絡以外で使用したことのないラインくらいだ。

 私が入部した当初こそ週に一回は部室に姿を見せていたが、三年生の詩音さんから部長の座を明け渡された辺りでめっきり顔を出さなくなった。

 そのあまりに無責任な態度に憤慨する気持ちも最初はあったが、時間が経つにつれそれも薄まっていった。


 私は秋葉先輩が嫌いなわけでも苦手なわけでもない。

 ただ信用していないというか、認めていないだけだ。

 名目上は部長となっているが、それも消去法だと分かっている。

 部員は引退した詩音さんを抜けば私と秋葉先輩しかいないのだから。

 きっと本人も渋々引き受けただけだろう。

 

 だから私は改めて不可解に思っていた。

 つい最近まで全く部活動にやる気を見せていなかった秋葉先輩が、なぜ唐突に新聞部の活動に積極的に関わろうとし始めたのか。

 そして何より、どうして私と恵那の関係を知っているのか。

 それがどうしても分からなかった。



「ねえ、ツナ。今日のお昼は外で食べない? 今日のお弁当あんまり教室の中で食べたくないんだよねぇ。カレーの匂いとかテロじゃない?」

「ちょっと千絵、授業中に話しかけないでよ」



 あと数年で退職を迎える社会教師の抑揚のない喋り声に嫌気がさしたのか、隣りの席の千絵が顔を寄せてくる。

 窓から覗く空には雲一つない青空が広がっていたが、あいにく私の心は光合成できるほど晴れ渡ってはいなかった。


「それに私、昼はちょっと人に会ってくるから」

「えー、そうなの? なに? 彼氏でもできた? もううちとお昼食べてくれないの?」

「つまんないこと言わない。部活の先輩に呼び出されただけだから」

「男?」

「女」

「なーんだ、本当につまんないね」


 千絵の腹立たしいニヤケ面に悪態の一つでもつきたい気分だったが、それは授業中なのでやめておく。

 それにこの女子にしては背の高い友人には何を言っても無駄なのだ。

 華奢な体躯とは裏腹に神経はかなり図太い。


「じゃあお昼ご飯はその先輩と一緒に食べちゃうの?」

「どうだろ。あんまりお腹空いてないし、私は食べないかも」

「えー、ご飯はちゃんと食べないと駄目だよ? というか最近ツナなんかげっそりしてるよ。その体型でダイエットとか身体に悪いだけだと思う」

「べつにダイエットなんてしてない。それにご飯だって食べてるし」


 私は千絵に少し嘘を吐く。

 結局昨日も私は夕飯をほとんど食べられなかった。

 今のところ体調を崩したりはしていないが、さすがに食欲不振を自覚しつつある。

 今日辺り大好きなケーキバイキングでも行ってこようか。

 試しに私は頭の中にクリームブリュレの香ばしい薄膜と、その内側に眠る甘く柔らかな卵黄を浮かび上がらせてみる。

 心は賑やかに踊った。

 でも空腹に喉が鳴ることはなかった。




 午前の授業が終わるチャイムを聞き終えると、私はカバーを付けていない黒い林檎が丸出しのスマートフォンを取り出す。

 軽くホームボタンに触れてみれば、予想通り“カワスミシオン”という名前が数分前を示す時刻と共に表示された。

 トークの内容は“図書室”とだけ端的に書かれている。

 昼休憩の時間帯になったことに気づきもせず、整った相貌を穏やかに机の上で横たわらせる千絵。

 そんな彼女の後ろを通り過ぎ、妙な倦怠感を背負って私は図書室に向かうことにした。


 新聞部の元部長である三年生の詩音さんに呼び出されたのは昨晩の事だった。

 大人しく楚々とした見た目とは裏腹に、詩音さんはエキセントリックな性格の持ち主で、前触れもなく電話やメールを送ってくることは割と頻繁にある。

 私が新聞部に入ることになったのも、詩音さんの独善的でエゴイスティックな気質に起因するところが大きい。

 しかしそんな悪い意味で自由奔放な性格にも関わらず、詩音さんは案外人懐っこいところもあり、どこか憎めない人だった。

 事実、新聞部の中で最も顔が広く人望があるのは詩音さんだろう。


 階段を二回降り、和やかな喧騒に満ちる廊下を二度曲がれば図書室には簡単に辿り着く。

 それなりの広さがある室内にはまばらに人の姿が認められ、気丈さが透けて見える耳元まで刈り上げたショートカットの女子生徒もすぐに見つけることができた。


「お待たせしました、詩音さん」

「あら、鳴子ちゃん。早かったじゃない。お昼食べてきてからでいいって言ったのに。ラインみてないの?」

「あまりお腹空いてないので。それにそれこそ私、ラインですぐに行きますって言いましたよ」

「あ、本当だ。気づかなかったわ」


 詩音さんは法螺貝模様の個性的なカバーをつけたスマホを何度か手探ると、ま、いっか、と一人で勝手にこの話題を終わらせてしまった。


「それで詩音さん、話ってなんですか?」

「あれ? 何の用で呼びつけたか言わなかったっけ?」

「言ってないです。昨日、話がある、ってそれだけしか言われてないです」

「あ、そう。というか詩音って呼び捨てでいいっていつも言ってるじゃない」

「さん付けで限界です。私もいつも言ってますよね」

「態度とは違って言葉遣いは律儀よね、鳴子ちゃんって。まあべつにいいけど」


 詩音さんの事を私は下の名前で呼んでいるが、べつにそれは特別親しいからというわけでもない。

 本人にそう呼べと強制されているという理由からだ。

 知り合った当初は川澄先輩と呼んでいたが、そうすると露骨に不機嫌になるので私の方が折れた。

 この人と私の関係性は一方的な妥協で成り立っている。


「とりあえず場所を変えましょうか。ここでベラベラとくっちゃべってもあたしは気にならないけど、鳴子ちゃんはそういうの気にするマイノリティでしょ?」

「どう考えてもそういうのを気にする方がマジョリティですよ。詩音さんの方がオカシイんです」

「ふふっ、やっぱり鳴子ちゃんはいいわ。あなたのそういうところ大好き。新聞部に鳴子ちゃんを誘って本当によかった」

「それはどうもありがとうございます」


 この高校の図書室には談話室というスペースが用意されていて、そこは一応図書室の内部扱いだが私語が許されていた。

 詩音さん一人で独占していた長机に広げられた勉強道具と一冊の本を私が手に取り、談話室の方へ向かっていく。

 ノートには筆圧が弱く全体的に右に傾いた詩音さんの文字がびっしりと詰め込まれていた。

 参考書代わりにしていたらしい本には解剖生理学入門と書かれていて、入試レベルを超えて大学の専門レベルの勉強しているような印象を受けた。


「そういえば詩音さんってどこ受けるんですか?」

「あたし? 都内の工業大学よ。たぶん受かると思うわ。もう受験勉強飽きちゃったから早く年が明けないかなって毎日思ってる」

「嫌味な言い回しですね」

「そう? 鳴子ちゃんも成績はそれなりによかったわよね? 大学でも私の後輩になってくれたらいいのに」

「それは無理です。私、文系なので」

「あ、そう。それは残念」


 私も学業成績は悪くない。

 むしろ平均から比べればかなり上の方に位置している。

 数学と現代文だけなら同学年の中でも指折りだ。

 しかし詩音さんに関して言えば、文字通り桁が違う。

 今の三年生の中で一科目でも詩音さんより優秀な成績を取れるような人は片手で数える程度しかいなかった。

 物理や化学が比較的苦手な私は文系なのでと一応言い訳をしたが、おそらく私が理系だったとしても詩音さんの志望大学に合格することは難しい。


「それで話って何ですか?」

「もちろん部活のことよ。あたしが引退してから、まあもっともあたし自身ははっきりと引退宣言してないけれど、とにかくあたしが部長の座を誠也に譲ってから色々あったみたいだから、その話を聞かせて貰おうと思って」

「はあ。そうですか。むしろ話をするのは私の方なわけですね。でも新聞部の近況なんて、それこそ現部長様に直接訊いてみればいいんじゃないですか?」

「あら? どうしたの? 誠也と喧嘩でもした? やけに棘のある口調じゃない。それに誠也はあたしのことブロックしてるから連絡取れないのよ。直接誠也の教室に足を運んでも、あたしの顔を見た途端逃げ出しちゃうの。あの子意外に照れ屋さんなのよね」

「詩音さん秋葉先輩に何したんですか……というか、べつに喧嘩とかしてません。ふつうですよ」

「あ、そう? まあ、べつにいいけれど」


 運が良いことに談話室には他の生徒の姿はなかった。

 幾つか置かれた丸机の内一つを占領し、私と詩音さんは向き合うように座る。


「まずはそうね、犯人は見つかった? ずっと探しているんでしょう?」

「え? 日和恵那を殺した犯人のことですか? 私、べつに犯人探しなんてしてません」

「違うわよ。猫の方よ。いつも鳴子ちゃんが書いてるコラムで情報提供呼びかけてるじゃない」

「あ、そっちですか」


 突突に詩音さんの口から物騒な言葉が出てきて心臓が跳ね上がるが、どうやら私の早とちりだったようだ。

 新人新聞部部員Tの毎日つれぇつれぇ日記の中で、私は猫の変死体事件の目撃情報などを募っていた。

 どうやらそちらの話のようだ。

 私の小さな雑記の隅まで読んでくれていることに少しだけ嬉しさを感じる。


「猫ちゃん殺しの犯人もまだわからないのね。それじゃあ校内新聞がしばらく休刊になるかもしれないって話は本当なの?」

「よく知ってますね。私も昨日知ったばかりなのに」

「まあね。月曜日にあんなことがあったから、何かしら影響があるかもしれないと思って、昨日英二のところにちょっと顔出しに行ってきたのよ」

「さすが詩音さん。暇人ですね」

「まあね」

「褒めてないですよ」


 詩音さんの口にする英二とは新聞部の顧問である佐久本先生のことだ。

 この自信家な先輩は教師を下の名前で呼び捨てにする癖があったが、その事を咎める人はもはやこの校内には存在しなかった。


「そしたら誠也の判断でとりあえず次号は発行延期することになってるって言うじゃない。あたし驚いたわ。誠也って謹慎とか自粛とか、そういうつまんないものには興味ないと思ってたから」

「相変わらず不謹慎な人ですね、詩音さんは。詩音さんと話していると秋葉先輩が実は常識人なんじゃないかと錯覚してきます」

「それはたしかに錯覚ね。あたしとはベクトルが違うけれど、誠也も残念ながら他人とは違う子よ。うちの新聞部は代々、正気を保った人間は入部できないことになってるの」

「それ、私から見て先代までの話ですよね?」

「いいえ、あなたから見て当代までの話よ」


 私は意図的に無表情をつくり上げ、抗議の意をアピールする。

 しかし詩音さんは中性的な相貌を涼やかに微笑ませるだけで、自らの発言を撤回する気配は見せない。

 綱海鳴子と川澄詩音の関係は常に私の妥協と諦観で成り立っていた。


「それで鳴子ちゃんはどう思う? どうして誠也は休刊なんてしようと考えたのかしら。たかが女子生徒が一人死んだ程度で」

「たかがって。いくらなんでもそんな言い方はないんじゃないですか?」

「うん? もしかして亡くなった子、鳴子ちゃんの知り合いだった? もしそうだったならあたしの配慮が足りなかったわ。ごめんなさい。他人が死ぬのと、大切な人が死ぬことは全くの別物。あたしも鳴子ちゃんや誠也が誰かに殺されたら、決して許さないもの」

「……べつに、知り合いってほどじゃないですけど」

「そうなの? ならべつにいいじゃない。同じ高校の一生徒が死ぬのと、画面の向こう側で有名なアーティストが死ぬのも、同じだと思わない? あたしは月曜日に亡くなった日和恵那とかいう子のことは良く知らないし、音楽も聞かないわ」


 詩音さんは暖かみのない微笑を保ったまま、私のことを瑠璃藍の瞳で見つめている。

 解剖室に置かれた遺体を観察するような静かな眼差し。

 きっと詩音さんの言葉は正しい。

 私が恵那の死に心をかき乱されるのは、私自身の倫理観や共感性によるものではない。


 幼馴染が殺された。


 単なる同級生でもなく、ただの知人でもない。

 恵那との間にたしかな繋がりを感じていたからこそ、私の視線は定まらないのだ。


「どうも、やっぱり鳴子ちゃんは月曜日に亡くなった子と何らか繋がりを持ってたみたいね。やっぱり謝るわ。ごめんなさい。不愉快な思いをさせて」


 真剣な表情で詩音さんは私に頭を下げる。

 どんな言葉を返せばいいのかわからず、私はひたすらに大丈夫ですと繰り返し呟いた。

 その大丈夫です、がいったい誰に対してのものなのかはわからない。


「だけどこうなってくると、もしかして誠也にとっても日和さんって子はただ同じ高校の女子生徒ってわけじゃないのかもしれないわね」

「恵那と秋葉先輩が知り合いだったと?」

「可能性はゼロじゃないわ。最近噂も小耳に挟んでたし」


 ひとまず謝罪をしたことで詩音さんの中で一区切りついたのか、薄い桃色の唇から今度は私の興味を惹くに値する言葉が紡がれる。

 恵那と秋葉先輩が元々顔見知りだった可能性。

 それは私からすれば盲点だった。

 だがもしその推測が正しければ、なぜ私と恵那が幼馴染だったのかを秋葉先輩が知っていたのかも簡単に説明がつく。

 私が新聞部で、秋葉先輩も新聞部。

 恵那との話の種になっても何も不思議ではない。

 もちろんその関係性を私に隠していた理由は不明だったけれど。


「ちなみにその噂ってなんですか」

「そうね。なんか最近、誠也に彼女ができたって噂を聞いたの」

「なんですかそれ。ありえませんよ。だって秋葉先輩ですよ?」

「ふふっ、愛されてるわね誠也は」

「気分を害しそうなので今の発言の意味は訊かないでおきます。それで、詩音さんはその噂の彼女が恵那だと?」

「ありえない話じゃないでしょ?」

「今のところありえない話だと思いますけど」


 秋葉先輩と恵那が隠れて付き合っていた。それはあまりに荒唐無稽な話に思えた。

 そもそも恵那には深浦大和という相応しい相手がいるし、秋葉先輩の方からしても年下の可愛らしい女の子とまともに会話をする映像がまるで浮かんでこない。

 私を相手にする場合は、顔はともかく性格が非常に可愛げのないものなのでぎりぎり意思疎通が成り立っているのだろう。


「実はあたし、その噂の子と誠也が一緒にいるところ隠し撮りしたことあるんだけど、見てみる?」

「悪趣味なことしてますね。秋葉先輩が詩音さんのこと避けてる理由が何となくわかってきました」

「ちょっと誤解しないでよ? あたしだってこんなことしたくないわ。本当は直接本人に真相を訊きたいのよ。でもあたしの顔見ると誠也すぐ逃げちゃうんだもの。だから仕方なく盗撮したの」


 だから仕方なく盗撮したの、という台詞の意味がさっぱり理解できなかったが、とりあえず私はそうですかと相槌を返しておいた。

 それよりも写真の方に関心が向かっていて、上手く隠せてはいると思うが、一秒でも早くその写真を確認したくて気が逸っていた。


「あたしは亡くなった子の顔、知らないから同一人物かどうかわからないんだけど、鳴子ちゃんはたぶん分かるんでしょう?」

「はい、まあ、一応」

「なら確かめてみて。あたしも知りたいわ」


 相も変わらず腹の減り具合に変化はないが、やけに喉が渇いて空気と張り付くような感覚を抱いていた。

 楽し気な表情で詩音さんが手元のスマホを弄り回すと、すぐに見覚えのあるものぐさ顔が眼に映った。

 不機嫌そうな表情を見せている秋葉先輩の隣りで、何かを訴えかけるような顔つきで佇む一人の女子生徒。

 

 愛嬌と意思の強さが共存した鷹に似た瞳。

 形の良い聞き耳。

 濃紺のヘアバンドでひと括りにされた長く艶やかな黒髪。

 

 一目で分かった。そこにいるのが今はもう二度と言葉を交わすことのできなくなってしまったかつての幼馴染なのだと。


「……鳴子ちゃん、大丈夫?」

「……私は、大丈夫です」


 私が恵那と幼馴染であることを隠していたのと同様に、秋葉先輩もまた恵那との何らかの繋がりがあることを隠していたのだと、私は遅れて知る。

 写真を見た瞬間、数秒呼吸の仕方を忘れ硬直していた私に、詩音さんにしては珍しく思いやりを多分に含んだ声がかけられる。

 何が大丈夫なのか、本当はまるでわかっていなかったけれど、それでも私はまた大丈夫という言葉をひたすらに繰り返していた。







 放課後、ほとんど人気のなくなった教室で私は一人頬杖をついていた。

 千絵も先に帰路についていて、特に誰かを待っているというわけでもない。

 時計の針はすでに四時半を過ぎていて、そろそろ居残りに許可が必要な時間帯に差し掛かってくる。

 しかしそれでも私は何となく家に帰る気分になれなかった。

 三分の一ほどまで読み進めた文庫本のページを捲る気にもなれず、無為に貴重な高校生活を浪費するだけだった。

 べつに私が複雑な家庭環境を抱えていて、そのせいで家を避けているわけではない。

 父と母と私の三人家族の中には特筆するべき問題だってないし、両親や私が喧嘩をするような記憶もほとんど思いつかなかった。

 かりに私と両親の折り合いがつかない状況になっていたとしても、父も母も共働きで平日は夜遅くまで二人とも帰ってこないので自宅に戻りたくない理由にはならない。

 毎日家族団らんの時間を欠かさないような理想的な家族ではないかもしれないが、だからといって一人娘が反抗に走るほど壊れてもいない。どこにでもあるような平凡な家庭だと私自身は認識している。


 時計の針が二百七十度回転した頃に、私はようやく重い腰を上げる。

 自宅で使用する必要最低限の荷物だけ鞄に詰め込み、見慣れた教室を抜け出す。

 詩音さんに会っていたという理由もあり昼食を食べ損ねてしまった。

 それでも空腹感が私にエネルギーの摂取を訴えかけてくることはなかったが、代わりに少し頭がぼんやりとして若干視界が霧がかっているような気がした。

 いつもより踏み心地の柔らかな階段をゆっくりと降り、自分の下駄箱の扉を開く。扉の内側にはいつも通りにローファーが私のことを待っていて、入れ替わりに上履きをしまい込む。

 段々と赤みが強くなってきている陽光の方へ歩き出しながら、私は遠き日のことを追憶する。


 私がまだ小学生低学年の頃、今のように下駄箱の中で靴が待っている事が当たり前ではない少女が一人いた。

 そんな時いつもその少女は、校舎内のゴミ箱の中を順番に調べて回った。

 惨めさを自覚することはあっても涙は出なかったし、憤りに燃えて犯人探しを行うようなこともしなかった。


 しかしそれはあくまでもその少女の話で、そうではない女の子がたった一人だけいたのだ。


 その女の子は自らの上履きを隠されたわけでもないのに怒りに鼻息を荒くし、頼まれてもいないのに、その頃はただのクラスメイトにしか過ぎなかった少女の外履き探しを手伝った。

 一時間ほどかけてやっと小さな灰色の靴を見つけ出すと、その女の子は目尻に涙を浮かべながらよかったと言い、でもこの靴あんまり可愛くないねと笑った。


 次の日から少女はなぜかその笑窪が印象的なその女の子と一緒に過ごすことが多くなった。

 少女とその女の子の性格は残念ながら似通っているとは言い難かったが、不思議と馬が合い、少女の生意気な発言を他のクラスメイトとは違いその女の子だけは面白がったし、またその女の子の勇敢というよりは無謀に近い言動は笑うのが苦手な少女をいつも楽しませてくれた。

 家が偶然にも近所ということもあり、学校に行く時も、学校にいる時も、学校から帰る時も、学校がない休日も彼女たちはどちらから寄っていくということもなく自然に一緒にいた。

 

 だけど老若男女問わず愛され、そして愛したその女の子からすれば少女は数いる友人の一人しか過ぎない。

 少女は心のどこかでそんな捻くれた嫉妬心を持っていて、僅かに芽生え始めていた独占欲に忌避感を覚えていた。

 わざと少女の方からその女の子と距離を取ろうと試みたことがあったけれど、それはきっとその少女が薄汚い心に塗れていた頃だと思う。

 他者から好かれる天賦の才を持つその女の子に認められた少女は、もう外履きを失くすようなこともなくなっていた。

 だからもう大丈夫だと。私に構わなくても大丈夫だと少女はある日その女の子に言ったのだ。


『ナル、わたし嫌だよ。ナルがいないと、楽しくない。ナルのためじゃない、わたし、わたしのためにここにいるんだよ?』


 それでもその女の子は少女を愛し続けると言ってくれた。

 こんなどうしよもなく、価値がないように思えた少女に自分は救われていると、可憐な笑窪を見せながら言ってくれたのだ。


『ナルが泣けない時はわたしが泣くし、ナルが笑えない時はわたしが笑うよ。だってわたしが泣けない時はナルが泣いてくれるし、わたしが笑えない時はナルが笑ってくれるって知ってるから。わたしにとってナルは、たった一人の親友だもん』


 その女の子はいつも誰かを照らしていたが、彼女自身の事を照らそうとしてくれる人はいなかった。

 なぜならその女の子は太陽で、いつも明るく光輝いていたから。


 でもそんな女の子を奇妙な言動で笑わせる変わり者とある日出会ったという。

 太陽に向かってライトをかざすような間抜けを見つけたのだ。

 

 その間抜けな少女の名前は綱海鳴子。

 そして勇敢というよりは無謀にも、その少女のことを親友と呼んだ女の子の名前は日和恵那といった。





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