世界からの退出を

キジノメ

世界からの退出を

 あ、と間抜けな声がしたから、べたりと畳に座る彼女の元へ向かった。ここからじゃあ、机で見え隠れした背中しか見えないから。

「どうしたの」

「来ないで」

嫌そうな声をするときは、僕が見ないといけないことだ。隣に座ると、彼女の手首の切り傷から、じわじわ血が滲んでいた。右手を見れば、カッターを持っている。

 いつの間に持ってきたのか。いつの間にこんなところでやったのか。そんな問答をしても、彼女が委縮するだけなのは分かっていた。だって、彼女は嫌そうに、僕が来ることを拒否したのだから。

 けれどこの場で切っていた。他に部屋は無いのだから。金が無い僕らは、全てを共同スペースにするしかなかった。情けないな、そう思う。早く大金が欲しかった。ふたりが独立したスペースを持って、交わらないで済む部分があることを許される、2LDKの部屋に住みたかった。彼女が壊れてしまう前に。僕が目を背けて、そうして彼女が絶望に沈まないように。

 思った以上に深く切ったのか、切った端から血が零れ落ちそうだった。駄目だ、と思う。畳に落ちた血は、なかなか落ちない。

 だから腕を掴んで、口に持っていった。血は金属質な味がして、不吉に感じられた。

「……美味しいの?」

「まさか。美味しいから舐めてると思ったの?」

彼女は小さく首を振る。そう、と頷き、僕はもう一度舐めた。深い切り傷を、無意識に舌でなぞる。けれど彼女は、痛いと言わなかった。

「痛くない?」

「ううん」

「どうして。切ったら痛いし、舐められたら痛いよね、普通」

「知らない。痛かったら、自分で切ってないわ」

そうだな、と納得した。切っても痛くないんだ。

 壁時計に秒針が無いせいで、部屋で音を立てるものは無かった。都会と言えないこの町は、夜中だから人気もない。偶に鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。

「美味しかったら、よかった」

「何が。血が?」

「そうだったら、あなたが全部吸ってくれる。そうしてなにも、無くなればいいのに」

口から離した腕からは、未だに血が零れていた。口が鉄の匂いで充満している。机の上のティッシュを一枚取って、傷口に当てた。それでも滲む血は、彼女が呻くように叫んでいるようだった。

「血が美味しかったら、あなたが全部吸ってくれて、あなたの糧になったのに。わたしは、わたしじゃなくなって、あなたの一部で揺蕩ってられたのに」

「……それでも、血は美味しくないよ」

「それが悲しい。血が無くなったわたしを、ばらばらにしてほしかったな。わたしが消えるまで、ばらばらに分解してほしかった。そうして月が綺麗な晩に、海に投げ捨ててほしかった」

「君は、そしてどこに行くの」

「どこにも。完全に消えて、それで終わり」

「……悲しいよ」

「わたしが消えるのだから、悲しいという思いすら、抱かないのよ」

「それは、もっと悲しい」

「……わたしが嫌いなわたしを大事にしてくれるあなたの、糧になれればよかったのに」

その思いは、僕を愛しているという意味で取っていいのかな。

 君を愛している僕が悲しいというのだから、君はそこにいてくれないのかな。

 なんの音も無いから、全てがそのまま揺蕩っていた。このまま地の底に沈み、そうだ、そこで抱きしめあえたら。僕らふたりの世界になれば、君は僕の思いに答えて、そこにいてくれるだろうか。

 血が止まり始めていた。君はひどく眠そうで、僕は抱きしめながら横になった。

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世界からの退出を キジノメ @kizinome

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