liberation01-04


 目覚めたとき、俺の頭の下には枕があり、毛布が掛けられていた。あのまま床で寝てしまった俺へのネサレテの気遣いだろう。


 そういえば別れた妻も、会社の飲み会などで深夜遅くに酔って帰ってソファでそのまま寝てたら、きちんと掛けてくれていたな。

 結局別れたけれど、優しかった時もあったんだよな。

 今思えば、俺はあいつのことをきちんと見てあげてたかな……。


 ……いや、もう終わったことだ。


 フウッと一息ついて起き上がり、枕と毛布を自室へもっていく。

 自室のベッドに枕と毛布を置いた後、昨夜は風呂にも入ってないと気づき、着替えを持って風呂へ向かう。


 脱衣場の横にある洗濯機を、身支度を済ませたネサレテが回していた。

 現代文明の利器、家電もだいぶ使いこなせるようになっている。今はパソコンを覚えようとしている。使えるようになって欲しいけれど、ゆっくりでいいからねと言ったのだが、新しいことを覚えるのが楽しいらしい。


「おはよう。昨夜は枕と毛布ありがとう」


 一声かけて、脱衣場の扉を閉めようとする。


「昨日はお疲れ様でした。ベアトリーチェさんは起きてらっしゃいますが、部屋で休んでいただいてます。朝食はご一緒することにしますが、それで宜しいですか? 」

「ああ、そうしてくれ。ここでの暮らしについてはネサレテが教えてあげてくれるかい? 」


 「判りました」と、彼女の返事を聞いて、俺は脱衣場の扉を閉めた。


 ・・・・・

 ・・・

 ・


「おはよう。改めて自己紹介させて貰う。俺は玖珂駿介。この家の家主で、あなたがこれから暮らす牧場のオーナーだ。横に座る犬は、クロノス。もう知ってるとおり神の一人だ。俺の相棒でもある。そして、当面、あなたにこの家のこと、この世界のことを教えるネサレテ。彼女ももともとはこの時代の人間じゃない。だから、不安な気持ちはきっとわかり合えるんじゃないかな。彼女でも判らないことは俺に何でも訊いて欲しい。これから宜しく」


 俺はそう言って席に座る。俺が紹介している間、クロノス用の皿に、軽く火を通した肉と野菜をネサレテは盛り付けていた。


 クロノスは、人の姿に変わって、一緒に食事をとろうとしない。それは可能な限り、犬の姿で過ごすのがゼウスとの約束なのか、それとも別に理由があるのか教えてくれない。

 だけど、できるだけ俺達と同じモノを食べて貰いたいからと、ネサレテにも伝えてある。


 ネサレテは、クロノスに食事を渡したあと、俺の正面に座る。

 その横にはベアトリーチェが居る。


 二人は、現代風のシャツとスカートを着ている。自然にまとめられた髪も綺麗に整えられ、どこから見てもギリシャ人とイタリア人の娘達。まだお洒落な服は無いから、近いうちに二人を連れて、そうだ、平野優美ひらのゆみさんにも付き合って貰って、買い物にいこう。

 

「じゃあ、食べようか。ベアトリーチェさんは食事の前にお祈りするなら、俺達に構わずしてくれ。習慣が違うことを気にしないで欲しい」


 「いただきます」と俺とネサレテは言ってから、俺は箸で、ネサレテはナイフとフォークで食事を始める。

 今日のメニューは、厚切りのトーストと、鳥の胸肉と季節野菜のスープ、そしてミモザサラダ。

 机の上に腕を組み、祈りを捧げるベアトリーチェを気にしないように、俺はスプーンでスープを頬張る。


「今日も旨い。ネサレテの料理は日に日に上手になってるね。とても有り難いよ」

「ありがとうございます。駿介さんからいただいた料理の本を見ながら……何とかです」

「そうか、でもホント旨いよ」

「……洋食……は、簡単なものなら。でも中華や和食はまだまだで……」

「いいさ。何でも急ぐ必要はない。少しずつゆっくりとでいいんだ」


 俺達が会話しながら食事する様子を見ながら、ベアトリーチェも手と口を動かしている。


 そう。生きている者は食べなければならない。

 しっかり食べて、働いて、そして自分の時間を楽しんで、疲れたら十分に休んで……少しでも幸せへ近づく……生きるってそういうことだと思う。

 昨日の今日で、笑顔で食事をなんてことは思わない。

 とにかく今は栄養をとり、身体と心を休ませて欲しい。


 時折、料理の内容をネサレテに質問するベアトリーチェと、微笑んで優しく教えるネサレテの様子を見て、このまま仲良くなってくれればいいなと思っていたよ。


 ・・・・・

 ・・・

 ・


 食後、紅茶を飲みながら、これからの生活を説明することにした。


「ベアトリーチェさん。ここでは、貴族のお嬢様というわけにはいかない。ネサレテと同じように働いて貰うことになる。俺も働くし、みんな働くんだ……」


 この世界のことも勉強して貰うこと。

 この家と牧場の外で暮らすために必要なことも教えること。

 貯金も可能な額の給料は払うこと。


 その他、当面、必要なことを俺は説明した。


「この家と牧場で働きながら、今後のことを考えてくれ。ずっとここに居ても構わないし、外で生きることを選んでも構わない。急ぐことはない。だが、忘れないで欲しいのは、あなたの主人はあなただけだ。あなたが第二の人生を歩むために必要なことは何でも協力するから、ゆっくり考えて決めて欲しい」


 話している間、ベアトリーチェは俺から一瞬も目を離さずに聞いていた。牢で見た時は青白さが目立ったが、やや赤みもあり顔に生気が戻ってきているように感じた。一晩、ベッドでゆっくり休めたせいかもしれないな。


「あの……どうして私にこうまで良くしていただけるのでしょう? 」


 姿勢の良い座り姿のまま、首を少し傾げて訊いてくる様子がとても可愛らしい。

 ネサレテもそうだが、美人というのは些細な仕草に、男をドキッとさせる魅力がある。


 柔らかさと知性を感じさせる、長いまつげを持つブラウンの瞳を前に俺は実は困ってしまった。


 当然の疑問だ。

 だが、どう説明したらいいものか……。

 歴史上で悲劇的な目に遭った美女を救いたいと思っていた時期があって、クロノスと知り合ったおかげで可能になり……なんて説明したら、おまえは馬鹿かと思われても不思議じゃないし、下心で助けたと思われても困るが完全には否定できない。


「駿介は、あんたが美しく描かれた絵画を見て、騎士道精神に目覚めたのだ」

「お……おい。何を言ってるんだ」

「本当のことだろう? いいじゃないか。男が辛い目に遭っている美人を助けたいと思ってどこがおかしい」


 俺の心情を、クロノスがからかいながらバラしてしまった。ネサレテは俺達の様子を見て、口に手を当ててクスクスと笑っている。


 ああ、下心が全くないと言ったら、それは嘘だろう。

 美しい女性が身近に居てくれるのは嬉しいからな。


 だけど、嫁や恋人にしたくて助けたわけではない。

 これは本当だ。

 

「……あの時、もっと生きたいと強く思う自分を感じました。周囲の誰もが私の死を願う中、あなただけが私に生きる機会を与えて下さった。神も私を救って下さらず、あの絶望の中で死ぬしかないのだと諦めていたあの時、生きられるなら悪魔とでも契約してもいいとさえ思ったのです。生きて、そして私の誇りを貫けるならと」


 ベアトリーチェが話し始めたので、俺とクロノスは黙った。


「あなたがお望みなら妻でも愛人でも喜んでなりましょう。ですが、一つだけお願いしたいことがあります」

「どうぞ。可能なことなら」

「私の家族の墓を参らせていただきたいのです」

「ああ、問題ないよ。今日にでも行こうか。心にひっかかることがあっては落ち着かないだろうからね。それと、俺の妻や恋人になれだなんて思っていないさ。そんな資格は俺にはない」



 午後、ネサレテも一緒に、クロノスと四人でベアトリーチェの家族の墓参りに行った。俺以外は喪服など用意していないが、ベアトリーチェがそのようなことは構わないと言うので、平服でだがな。

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