ベアトリーチェ・チェンチ

liberation01-01


 ベアトリーチェ・チェンチが生きた十六世紀のローマには、彼女が悲劇に遭う環境が整っていた。

 教皇、貴族や枢機卿の間には、閨閥けいばつ主義(※)と贈収賄ぞうしゅうわい、横暴と専制が横行し、巷には売春が広まっていた。金さえあれば揉み消すことができるため、不正行為は隠すことなく堂々と行われ、誰も罪悪感を覚えることなどなかった時期だ。


 ベアトリーチェ・チェンチについて調べた時、彼女の父フランチェスコとクレメンス八世の所業に怒った。特にフランチェスコに対しては、そのドメスティックバイオレンスの酷さに、生まれてきたことを後悔させてやりたい気持ちになったものだ。

 そして、どんな悪事も金で解決する彼を誰も処罰しない以上、家族がフランチェスコを殺害するのは……殺害が事実だとしても至極当然の流れとしか思えなかった。


 尊属殺人は重大な罪だ。

 だが、正義なんていう青臭いことを語るつもりはないけれど、裁かれるべきはフランチェスコで、ベアトリーチェ達家族は庇護されるべきが当然であろうと強く感じた。

 当時の民衆も裁判官の多くも、ベアトリーチェ達には情状酌量の余地が十分あると考えていたらしい。

 しかし、チェンチ家の財産を我が物にしたいクレメンス八世のおかげで、ベアトリーチェ達は処刑される。


 時代の風潮が起こした悲劇。

 教会でも暗黒の時代が起こした悲劇。


 その上美貌の持ち主なのだから、多くの芸術家の心を刺激したのも理解できる。

 そして俺も、彼女を救いたいと考えたのだ。


 だが、歴史が変わる可能性を作ってはいけない。


 彼女は救う。

 だが、後世に影響ある形で行ってはいけない。つまり、その時代から居なくならなければならないから、現代に連れてくることになる。そこで、彼女の意思を問う必要が出てくる。

 

 また、十六世紀のローマと現代では、文明も文化も大きく異なる。

 家族や友人等とも離れることにもなるだろう。

 そういった状況や現代の事情を説明し、納得した上でなければ、処刑から救ったところで、彼女は幸福ではないだろう。

 だから、彼女の意思を尊重しなくてはいけないんだ。


・・・・・

・・・


「なあ、人間って愚かなんだろうか? 」


 中世では特に目立つ気がするが、中世以外の時代でも人の愚かな行為はいくらでも見つけられる。倫理観が変わり現代に近づいても同じだ。

 特に歴史に詳しいわけじゃない……ただの歴史好きの俺ですら、人間の歴史はさほど進歩がないと思う。


 現代までの間に新たな思想が生まれて、目立って酷い行為は減ってるようにも見える。

 それでも社会に目を向けると、支配層と被支配層の形が変わっただけではないかとか、制度的奴隷ではないけれど実質的奴隷ではないかとか……やりきれない状況は目につく。 


 ルポライターを目指していたのも、視聴者ウケする番組ばかりのTVではなかなか知ることのない現実を世間に届けたかったからだ。


「さあな。我々神の行為も今の常識から言えば酷いことばかりしていたことになる。だが、それを気にしている神などおらぬ。神も時代を経て、昔のような行為はしなくなっているが、それは反省したからというわけではない。そのほうが神も崇められやすく、生きやすいというだけだ。

 人間も時代を経ようと本質は変わらない。そして惨劇の記憶は、感情を伴わない知識に置き換わる。感情の伴わない知識は、感情が伴う欲の誘惑には勝てない。愚かかどうかは判らぬが、永遠の命を持たない限り、過去に起こした悲劇は繰り返されるんじゃないか」


 なるほどな。

 だが、徐々にでも進歩していかないと、悲劇は永遠に繰り返され続ける。人間の業などという言葉で語るのは簡単だけれど、それで済ませたくないものだ。


「だが駿介は、過去に起きた悲劇を知識としては残しながら、実態としての悲劇は減らしたいのだろう? そこに好奇心やちょっとした下心があろうと、それは良いことのように我には思えるぞ」

「なんだ、慰めてくれるのか? 」

「どうだかな。我はおまえがしようとしていることに、嫌々ながら協力するのではないと言いたいだけだ」


 たまには嬉しいことを言ってくれるじゃないか。

 ネサレテのことといい、今の言葉といい、俺の記憶を読み、気持ちを知っての上でのことだと思うが、クロノスも意外と良い奴……いや、良い神になってる。


 少なくとも俺にとっては……だがな……。


 膝上のミニチュアダックスクロノスの背を撫で、「ありがとよ」と声をかけた。




 ※閨閥けいばつ主義:政略結婚による血縁のネットワークを重視する姿勢

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