第4話 忍び寄る魔術
「井沢塾に属する何者かは何らかの魔術を行使して霊を操って、うちの、青原高校の生徒を入塾するように誘導している。これは確定事項。なら次は何を考えるべきか、分かる?」
黒いソファーに腰かけ、細く長い脚を組みながら、冷たく落ち着いた目線を僕に向けている五木さん。ついさっきまではソファーに身を投げていたのだが、僕が正解をぶつけると姿勢を変えて少し真剣な表情で話し始めたのだ。どうやら僕は彼女の期待に応えられているようだった。
場面は第二フェイズに移行していた。
「……誰が魔術を使っているか、とか?」
「0点ね。誰が、なんてことは些細な問題よ。後回しで良い。もう少しその鈍い頭を回して考えなさい。……問題なのは方法なのよ」
方法ね。
というか頭を回せと言われても困るのだが……。僕はほんの少しだけ目を細めた。溜息を吐きたいところだが我慢である。
しかし魔術の方法、となるといよいよ専門的な話ではないか。ここから先に僕の出る幕はないだろう。ならば、五木さんに下僕としてよく分からない労働をさせられることもないはずだ。
ああ、よく分からない労働といえば。
「そういえば五木さん、これ」
僕は足元に置いていた鞄を漁り、中から苺のチョコレート菓子を取り出して手渡す。「苺を使ったものを毎日もってこい」というのが昨日僕に課せられた命令だった。
彼女はそれを素直に受け取った。
「一日目からお菓子とはね。まぁなんでもいいのだけれど」
「コンビニにガチの苺は売ってなかったんだ。勘弁してくれ」
彼女は何も言わず、お菓子をソファーに置いた。そちらにはもう目もくれず、話を続ける。
「……魔術については、素人のあなたにできることはないわ。けど、あなたにも今後のためには知識が必要よ。学生なら経験し、学びなさい」
「え? 今後の、ため?」
どういうことだ。僕が彼女と下僕としての契約を結んでいるのは、割ってしまった水晶を弁償する代わりに今回の仕事を手伝うためだったのではなかったのか。
五木さんは、当たり前だと言いたげな表情で、実際に言った。
「当たり前よ。あなた、もしかして下僕になるのは今回限りなんて思っていないでしょうね」
「それが現在進行形でそう思っているんですが……」
そう言うと、彼女は本当に呆れた顔をした。どうしたものかと憂鬱げに手を頬に当てている。
「阿呆ね。魔術を知った人間を元の世界に帰すわけがないじゃない。もしくは今ここで死ぬかだけれど?」
うぅ……、ひょっとして、いやひょっとしなくとも、僕は一生魔女の下僕であり続けなければならないのか? 想定が甘すぎたのか。
となると、当然のことに心臓は死ぬまで帰ってこない……。
「……そんな馬鹿な」
「馬鹿はあなたよ。ふふ、あなたも男なら潔く諦めることね」
クソ……。
項垂れてもどうにもならないのは分かっているのだが……。
いや待てよ?
僕には彼女と縁を切れる恰好の性質があるじゃないか。
鬼だ。
今でこそ問題ないが、そのうち五木さんも鬼である僕に恐怖を覚えて自分から遠ざかっていくはず。これを利用しない手はない。それに僕はただ待っているだけでいいのだ。
だからその日までは耐える。魔女の下僕としてこき使われてでも生きてやる。
「それで、次は何をすればいいんだ。悪いが僕は戦闘職じゃないぞ。生まれてこの方16年弱、喧嘩をやったこともないんだ。そういうのがお望みなら柔道部の奴でも連れてくるんだな」
鬼のくせに情けない。
そう言いたげな顔で五木さんは僕を嘲笑う。
「フッ、その心配は不要よ。鉄砲玉にしてももう少し上手い使い方をするわ」
鉄砲玉って……。あんたはヤクザか何かかよ。
ともかく、命を散らすようなダークファンタジーではないのならこの際もう何だって良い。
下僕として存分に働いてやるさ。
「井沢塾の連中が使っている魔術だけれど、おそらく可能性は二つ」
彼女はそう言って、指を二本立てた。
「一つ。暗示系の魔術ね。直接対象と目を合わせて掛ける術式よ。でもこの方法だと、多くの生徒と接触できる人間でないと不可能ね。効率が悪すぎるわ」
指を一本折る。
「二つ。簡単に言うと呪符ね。術式を組み込んだ物体を持った人間は術に掛かってしまう。一番メジャーなのは単純に、紙に術式を書き込んだものを対象の持ち物に忍ばせておく、というものね」
「それだと、その紙を生徒に渡すタイミングが必要になるな。それも大量の生徒に対して」
「ええ、ネックはそこよ。その方法が分かれば封じ込めるのだけれど……」
どうやらそこまでは分からないようだ。
大量に呪符を散布する方法か……。
例えば、学校の教師が術者ならば、全校生徒に配布するプリントに術式を紛れ込ませればいい。しかしおそらく術者は塾の人間なのだ。そこまでのことができるとは思えない。
「とにかく、そのどちらかの方法で霊そのものか、あるいはその力を生徒に擦り付けているの。その霊の正体もまだわかっていないわ」
ふむ……。
「五木さん。その術式っていうのは本当に文様みたいなものなのか? それをただ書き込んでおけばいいんだよな」
五木さんはゆっくりと頷いた。
だとすると……。
「……一つだけ、いい方法がある」
どうやら今日の僕は、ひどく冴えているようだった。
▼
「___えー、ベクトルの内積に関してだが、この記号は乗法のものとは異なるものだから気を付けること……」
……分からないなぁ。
第一、ベクトルの意味を知らないのに内積がどうとか言われても困る。自宅で勉強はしているが、学校で習っていない先の範囲の予習はしていないのだ。分からないものは分からない。ノートを開きシャーペンを握ってはいるが、そこに大した意味は無い。
そんなわけで、僕は体験授業を受けに来ていた。
例の井沢塾に乗り込んでいるわけだ。
工房で話をした後、五木さんが申し込みを済ませてあるから、今から受けて来いと命令してきた。僕としては誠に不本意だが、忠実な下僕として逆らうわけにはいかないから制服のまま素直にやってきたわけだ。
つまりは潜入調査である。
潜入調査なんて仰々しい風に言うが、実際のところはただ単に授業を受けているだけ。下僕の仕事のメインはこういうものなのだろうか?
さて。教室内をざっと見まわしてみたが、様子がおかしい、つまり操られているような生徒は見当たらない。至って普通の塾のそれではないだろうか。決してオカルト塾のような雰囲気ではない……。巧妙に隠しているだけかもしれないが。
そんなことを考えながら、勉強にはやはり集中せず、3時間の潜入を終えた。
工房に戻ろうと、誰とも会話せずに塾の玄関扉を開けようとした時、声を掛けられた。
「君は鎖原悠斗くんだったかな」
「あ、はい。鎖原ですけど」
スーツを着て黒縁眼鏡を掛けた男が後ろに立っていた。
胸元に「井沢隆太」という名札が付いている。
井沢……。この男が塾長なのだろうか。
井沢の目線は僕の目を真っすぐに貫いていた。眼鏡の奥が冷たく光っているような気がする。嫌な緊張で少し肩が上がった。
「……どうかな、うちの塾は」
どうかな、と言われましても。他に行ったことがないから比較しようがない。
「いや、えっと……」
どうすればいいか分からず、言い渋っていると、井沢はふっと硬い表情を崩した。柔らかい笑みを漏らす。
「いや、すまないね。君も青原高校の子だろう? 知り合いもここには多いんじゃないかな」
「ええまぁ……それは、はい……」
知り合いは学校にすらいないのですがそれは……。
苦笑いで応えるしかなかった。
そんなことは知らず、井沢は言う。
「うちは君たちの学校専属でやっているつもりだ。きっと君たちよりも、君たちのことを理解していると思うよ」
そう優し気な笑顔で言ったのが、どうも不信に思えた。腹の底が見えなさそうな男だ。それに現状、魔術を悪用している一番の容疑者ではないか。
「君も、よかったらうちに来なさい。……今はもう、大手にだって負けていないつもりだよ」
「そうですか」
じゃあ、と井沢は手を振り事務スペースに消えていった。
その後ろ姿を目で追う。
……本当にこの男が魔術を使っている元凶なのだろうか。だとすれば、その理由はなんなのだろう。
▼
そして工房に戻り。
「五木さん、戻りましたよ……って」
当の彼女はソファーに身を投げて寝ていた。
スースーと寝息を立てている。僕が塾で勉強していた間、ずっと寝ていたのだろうか……。まったく優雅な魔女様だ。
「あのー……」
声を掛けようとして、途中で止めた。
ソファーの足元にタオルケットのようなものが転がっていた。それを指で拾い上げる。起こさないように、ゆっくりそれを掛けた。
こうして見ている分には、普通の女子高生なんだけどなぁ。それもかなりの美人。スタイルもよく、カースト上位の連中はきっと放っておかないはず。
だがその実態は魔女である……。
「今日は、帰るか……」
別に報告は明日でも、文句は言われないだろう。僕は静かに工房を後にした。
帰りにコンビニで明日の分の苺菓子を買って帰った。やはりコンビニに生の苺は置いていないようだ。
▼
翌日の朝。
校門で大手の予備校が雇っているバイトに宣伝のビラを押し付けられる。毎朝の日課。
いつもなら速足で通り抜けるところだが、今日は少しゆっくりと観察しながら通った。
井沢塾の人がいるかどうかは、見ているだけでは分からない。
だがやはり、いるにはいるのだろう。
ふぅ、と短く息を吐き、バイトたちの間を通り抜けた。
声の掛けられない場所まで来ると、もう一度だけ振り返った。
「……呪符、か」
春にしては冷ややかな朝の風が、頬を撫でた。僕の静かな日常に、確かな異変が起きようとしている。まるでそう示唆しているように思えてならなかった。
▼
放課後。
終礼後、真っ先に教室を出た五木さんを追って、工房に向かおうとすると、後ろから誰かに呼び止められた。
「鎖原くん!」
「あぁ……鳳さんか」
先を急ぎたいが無視するわけにもいかず、立ち止まって振り返った。
委員長こと鳳美香が少し息を切らしながら立っていた。急ぎの用なのだろうか。追い付いた彼女は腰に手を当てながら言ってきた。
「……ねぇ、鳳さんっていうの、なんか硬くない? 委員長でいいよ。みんなそう呼んでるし」
「い、委員長……」
僕も心のうちではそう呼んでいたのだが、特に仲良くないのに渾名で呼ぶのはキモくないかと遠慮していた。本人が嫌がらないなら実際に呼んだっていいだろう。
「それで、何か用か。委員長さん」
「うん! それでいいよ! ……あ、でもよく考えたら鎖原くんって呼ぶのも硬いな……。よし、じゃあ悠斗くんでいい?」
僕の声は耳に届いていないようだった。というか、いきなり名前呼びか。別に困るわけではないが……。ムズ痒いなぁ。
「別に何でも良いよ」
「やった! じゃあそう呼ばせてもらうね!」
「そうかい。それで本題はなんだ」
「いやー、さっきクラスの子が昨日塾で君を見たっていうから話を聞こうと思って。……私を出し抜いて先に行っちゃうなんて。君も隅に置けないなぁ」
あぁ、見られていたのか……。
これは面倒なことになった。
「えぇ……まぁ、行ったっちゃ行ったけど」
行くつもりはなかったんだけどね。
入塾目的ではなく謎の潜入調査だったし。しかしそれを説明することはできないので、それっぽく誤魔化しておくことにした。
「ま、普通だな。普通」
「へぇ。結構しつこく勧誘してるし、皆行ってるからどうなのかな、って思ってたど」
「まぁ、他人も行ってるから、っていうので決めるのはあんまり良くないんじゃないか? 知らんけど」
僕にはその「他人」にあたる友人というものがいないのですがね……。
「確かにそうだよね。自分の目で見て判断してみるよ。ありがとねー」
そう言うと、制服の___セーラー服のスカートのポケットから何かを取り出して渡してきた。
「はいこれ相談料。お礼にあげるねー」
「……これは、消しゴム?」
それもよく見ると、「井沢塾」と書いてあった。
これは……。
「校門で配ってる宣伝パンフに入ってるやつだよ。こういうのって単価幾らくらいなのかなぁ」
そんなどうでもいい疑問だけ投げかけると、じゃあね、と委員長は去っていった。
残された僕は一人、廊下に立って貰った小さな消しゴムを握りしめていた。
「……女子に初めてプレゼントを貰った」
「何を情けない顔をしているのよ、あなた」
「でぇっ!?」
変なリアクションをしながら振り返ると、今度は五木さんが腰に手を当てて立っていた。てっきり先に工房へ向かったのだと思っていたが、どうやら残っていたらしい。
「あの子は、確か鳳美香だっけ。付き合ってるの?」
「違うわ! それはいくらなんでも安直すぎるだろ! ていうか後ろからじゃ顔見えないでしょ!?」
「見なくても分かるわ。気持ち悪い」
そう罵りながらも至極どうでもよさそうな顔をしやがる。
だが今はそんなことより。
「これからどうするんだ?」
そう訊くと、五木さんは一度髪をかき上げて___
「……えぇ。役者は揃ったわ」
「役者?」
「……急ぎなさい。乗り込むわよ、敵の本拠地へ」
不敵な笑みを浮かべたのだった。
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