第31話 発病
家に帰ってから、私は色々な場所に行った。サンスフォッズ海岸にも行ったし、クロリアにも行った。週に一度、体調がよければ学校にも行った。
大嫌いだった健康な子供達は、話してみると私や病室の子供達と何も変わらなかった。何人か友達も出来た。私が友達を家に招いたり、友達の家に遊びにいくのをパパとシンディはとても嬉しく思っているみたいだ。
シンディとの仲はまぁ、割と良好だ。まだママとは呼べないけど。
私達の間にあったぎこちない空気は徐々に薄まりつつある。前は2人きりになると、どこかよそよそしい態度になってしまったけれど、最近では2人でショッピングや映画に出かける事も多い。私達が2人でどこかに出かけたと知ると、妹はずるい! 2人だけずるい! と大騒ぎした。だから私達はどこかに2人で出かけた時は、絶対にそれが妹にばれないようにした。きっと、仲良くなるのに必要なのは、ほんのささやかな秘密を共有する事なんだろう。
妹はまだ私が殴った事を覚えていて、隙あらば復讐しようと目を光らせている。
でも一緒にお人形や、トランプで遊んでやると――特に私が彼女のご機嫌を伺って負けてやると――復讐の事などコロッと忘れて楽しそうに手を叩いて笑った。
私の体調が悪くてベッドから起き上がれない時は「お姉ちゃんが遊んでくれない」と機嫌が悪いのだとパパが教えてくれた。
日々は穏やかに過ぎていく。
私の体にはもう1本も点滴の針は刺さっていないし、苦い薬を無理して飲んだり、注射を刺したりもしない。今は肉体が望むままに任せている。発作の回数は増えたし、体重もかなり落ちてしまった。それでも私は病院にいた時よりも、ずっとちゃんと生きているんだと感じていた。
死が私のすぐ後ろにまで迫っているのはわかっていた。
もし死神がいるのなら、私の首を死の鎌で切り落とす前にそっと肩を叩いて教えて欲しかった。そうすれば私はホリィヒル病院のあの秘密の部屋に向かう事が出来る。
退院してから私にどんな事が起きたのか、私がどんな風に生きたのかを、彼に話し聞かせてから逝きたかった。
先に遠くに逝く人は、残された人のために何かを残して逝くべきなんだ。カーチャのお兄さんがカーチャを立ち直らせる言葉を残して逝ったように。
退院してから半年程経った頃、私は今までになく大きな発作に襲われた。体がベッドの上で跳ね上がり、呼吸が出来なかった。パパが私の体を抑え、シンディが痛み止めの注射を射った。強力なやつ。射ち過ぎると死ぬかもしれないと説明されていた。私は常日頃から発作が起きたら必ず注射を射ってくれと家族に頼んでいた。全て覚悟の上だ。
痛み止めの注射は私を安らかな眠りへと導いた。私の意識は白く霞み、体が軽くなった。
奇妙な夢を見た。
宇宙まで突き抜けるような澄み切った青空。柔らかな風が木々を揺らして枝葉をざわめかせる。コンクリートで出来た建物は残らず倒れ、瓦礫の山と化していた。
荒れた道を1人の少女が歩いている。背中には大きなリュックサックを背負っていた。何が入っているのか、リュックの布地は今にも破れそうな程に張りつめている。彼女が着ている所々穴が空いて色抜けしたワンピースドレスと、腰の後ろまで伸びた金髪が風に吹かれて大きく膨らんだ。髪の毛に隠れて顔はよく見えなかった。
「ねぇ! あなた!」
私は彼女の側に駆け寄り、声をかけた。彼女は私に顔を向ける。
彼女は私にとてもよく似ていた。眉も鼻も目も頬も、何もかもそっくりだった。違うのは彼女がとても健康そうに見えた事だ。肌はピンク色で、目の周りもパンダみたいに黒ずんではいなかった。
彼女は私にもよく似ていたけれど、同時にブギーマンにも似ていた。印象がだ。年相応の少女に見える瞬間もあれば、すっかり年老いたお婆さんに見える瞬間もあった。
彼女の緑色の瞳に私は映っていなかった。彼女には私の姿は見えていないし、それに声も聞こえていないのだろう。不思議そうな顔をして周囲を見回してから、彼女はまた瓦礫の上を歩き出した。
どこに向かっているんだろう?
前方から駆け抜けていくような風が吹いた。風は若葉と土の香りと、そしてキィキィという何かが揺れる音――そう、ブギーマンのロッキングチェアが揺れる音だ――を運んだ。
少女は一瞬足を止め、そしてその音が聞こえて来た方向に向かって駆け出した。
次に大きな風が吹いた時、私の意識はタンポポの綿毛を思い切りフーッと吹いたみたいに、小さく分解されて掻き消えた。
私は目を醒し、自分の力でベッドから起き上がった。パパとシンディと妹は奇跡を目の当たりにしたみたいな顔で私を見ていた。
「信じられない」パパは私の両手を強く握りしめた。
「お前の心臓はもう1時間も前に止まっていたのに!」
この大きな発作を最後に、私の発作はパタリと止まった。
病気が治ったわけではない。体内で病魔は生き続けている。心臓は蝶がゆっくりと羽ばたくように鼓動する。体温は異常に低い。でも、それだけだった。
私の体から全ての苦痛は消え去った。私はもう血を吐く事はないし、心臓が不規則に乱れ打って倒れてしまう事もない。私の死体のような皮膚の色はピンク色に変化し、目の周りを囲んでいたクマは綺麗に消えてしまった。気が付けば鏡に映る私の姿は、夢の中でみた少女とそっくり同じになっていた。
私は自分の体に一体何が起きたのか、薄々は予感していながらも「気のせいだ」と、その予感を心の奥底に閉じ込めた。その予感を受け止められるだけの覚悟が、私にはなかったのだ。
病院で一緒だった子達で頻繁に連絡がついていたのはダニーだけだった。
私達はメールをやり取りし、時折――彼が夏休みに入り、こっちへ戻って来た時など――一緒に映画館やサッカー観戦に出かけたりもした。アメリカの学校でフットボールクラブに入ったというダニーは、上向きの鼻以外はハンサムな男の子になっていた。女の子にも結構モテるみたい。
妹は一目でダニーが気 に入り、彼が家に遊びにくる日は朝から大騒ぎだった。ダニーは小さい子供の扱いが上手だった。妹を肩車して遊んでやりながらも、時折その顔に寂しげな影が過ったのは、きっと彼のママの元に置いて来た弟達を思い出していたからなんだろう。
夏休みに私はダニーと一緒にウェイドローヴにいく事になった。パパは「男の子と旅行なんて!」と散々反対したけど、ダニーのお姉さんが一緒に来てくれる事と、サードのお見舞いが目的な事と、カーチャも合流する事を告げるとようやく折れてくれた。
サードは北棟に入院させられた後でもっと環境のいい――つまり彼の意思では決して出られない――病院に送られていた。彼がその病院から出て来れたのは、ほんの数ヶ月前だ。
脳味噌を薬漬けにされ、心を綺麗にカッティングされて退院した彼は、もうレゴでタージマハルを作ったりしない『普通』の人だった。彼の家族が望んでいた通りのサードだ。
彼の家族は『普通』になった彼を歓迎した。そしてその夜、全員サードに殺されたのだ。
サードパパもママもロビンもバラバラに切り刻まれた。サードは彼らの死体をレゴブロックの代わりにしてエンパイアステートビルを組み立てている所を、召使いに発見された。
翌日の新聞の一面に清々しい笑顔を浮かべてパトカーに乗り込んでいくサードの写真が大きく掲載された。彼の笑顔は昔と変わらず、何の陰りもなかった。
彼は今、かつて私のママがいたのと同じウェイドローヴのジェンド刑務所にいるのだ。
ダニーのお姉さんが運転するフェアレディZに乗って、私とダニーはウェイドローヴに向かった。面倒な面会許可の手続きはダニーのお姉さんが先に済ませておいてくれた。本当は囚人の家族か親戚じゃなければ面会させてもらえないんだけど『ちょっとした裏技』を使って、私達はサードに面会出来るようになった。何にでも抜け道ってあるものなのだ。
ウェイドローヴまであと十キロの所にあるドライブインで、カーチャが合流した。わざわざロシアからサードに会いに戻って来たのだ。短かった髪の毛は長く伸びていて、印象が随分変わっていた。更に驚いたのは彼女の喋りからロシア訛りが完全に消えていた事だ。
どうしてそんなに上手になったの? ロシアに帰ってから勉強したの? と尋ねると、カーチャは照れくさそうにバッグから小型のアルバムを取り出して写真を見せてくれた。
写真にはカーチャと、もの凄く気の弱そうな眼鏡をかけた男の人が写っていた。2人はお揃いのピンクのセーターを着て遊園地の門の前で抱き合っている。頭にはやはりお揃いのハート形の帽子を冠っていた。
犯罪級のダサさだ。かつてのカーチャの追っかけが見たら自殺しちゃうんじゃないだろうか。
「彼はサンスフォッズからの留学生で、私がロシア語を教える代わりに彼からはこっちの言葉を習ったんだ。とても優しいし、カッコいいし、素敵な人だよ」
デレッと顔中の筋肉を緩めてカーチャは笑う。ルールブックさんと話している時のカーチャのおじさんみたいだ。
カーチャのアルバムの中にはそのおじさんの姿もあった。暖炉の前でソファーに座っている。おじさんの右手と左足は義足と義手に代わり、右目に海賊みたいな眼帯を付けていた。『退職』するために『会社』と『上司』に支払ったのだとカーチャは淡々と告げた。
カーチャのおじさんの隣には、なんとルールブックさんが座っていた。
おじさんの猛アタックにとうとうルールブックさんが折れたのだとカーチャは小刻みに笑いながら言った。来年には身内だけでひっそりと挙式も挙げる予定らしい。本当に人生って何があるかわからない。
ジェンド刑務所はコロッセオを思わせる円形の建物だった。白い外壁には植物や動物を象ったレリーフが刻まれていて、窓は全部ステンドグラス。外から見ただけだと刑務所には見えない。囚人を収容するよりもモネやマグリットの名画を展示していた方がお似合いだろう。
古代ローマの建築物みたいな外側と違い、内部は近代的だった。何もかもが直線で構成されていて余計な装飾などどこにもない。冷たいコンクリートと鉄と強化ガラスで出来た牢獄だ。
私達は面会室に通された。面会室の中央にはプラスチックの仕切りがあり、その仕切りの前には床にボルトで固定された椅子が3つ並んでいる。片方の壁には鏡が嵌め込まれている。あれはマジックミラーで、向こう側に見張りがいるのだとダニーのお姉さんが教えてくれた。
しばらくすると仕切りの向こう側の鉄扉が開き、両手を後ろで縛られたサードが入って来た。彼の後ろにはアメフト選手みたいな体格の刑務官がぴったりとくっついている。
サードは私達を見ると、目を細めて微笑んだ。
私には彼が家族を殺したなんて――それもゴシップ雑誌が大喜びするような方法で――とても信じられなかった。彼は長かった髪の毛を短く刈込んでいて、水色の囚人服を着ていた。私は彼がとても落ち込んでいるんじゃないかと思っていたけれど、彼の顔はとても晴れやかで活き活きとしていた。
「久しぶりだね、皆。元気かい?」
サードは爽やかにそう言い、私達の顔を順番に見つめた。はっきりした抑揚のある声。キビキビした動作。本当にサードなんだろうか? ……本当に、随分変わってしまった。
「大丈夫なのか? ここでの生活。虐められたり、何か嫌な事をされたりしてないか?」
「あぁ」サードは笑みを深めた。
「大丈夫。外にいた時よりずっと楽だよ。ここは僕にぴったりの場所さ。君達こそ大丈夫かい? そんな『友達が人殺しになって刑務所に入っちゃった』みたいな顔しちゃってさ! 辛気くさいったらないよ」
ハハハとサードは歯を見せて笑った。
「会いに来てくれて嬉しいよ、本当に。君達と一緒に病院にいた時が僕にとって一番素晴らしい時間だったんだ。世界の全てがキラキラと輝いて見えた。何もかもが素晴らしいものに思えたし、僕にとってはそうだった」
彼は少しの間空中を見つめてから「ジャックが」と口を開いた。
「彼が死んで、皆がバラバラになって、僕は閉じ込められ、いつか君が言った通りすっかり形を整えられてしまったんだ。ダイヤモンドのように」
彼は遠い昔を懐かしむような目で私を見た。
「世界は輝きを失ってくだらないものになってしまった。カーテンにグルグル巻き付いて遊んだり、段ボールで迷路を作ったりする事がどんどんくだらなく思えてくる。あの人達は僕を『普通』にして、それが何より素晴らしい事だと言ったけれど、僕の世界はすっかり錆び付いて、腐って、醜いものになってし まったよ」サードはぼんやりと自分の足下を見つめながら「『普通』になって、僕の幸福は消えてしまった。あの人達に、僕の幸福を奪いさってしまう権利があったと思うかい? 愛情一つ、与えてくれなかった人達に」と呟いた。
彼の瞳の中で暗い憎しみがまだくすぶっているのを私は見た。いつかあの暗い怒りが、彼の瞳から消える日がくるのだろうか。
私達は半年に1度、ジェンド刑務所で再会した。
6回めの再会を果たす頃には、ダニーは声変わりを終え、サードは少年から青年になり、カーチャは少女時代を終えようとしていた。皆変わっていく。大人になっていく。
私だけが何一つ変わらずにいた。身長も体重も、何一つ変わらない。退院した時から何も。
私はいつかブギーマンが言った言葉を思い出していた。
――僕に起きた事が君に起きないってなぜ言えるんだ? ――
心の奥底に閉じ込めていたあの予感が現実となって私にのしかかった。私は新しい病気にかかったのだ。彼と同じ、不死の病に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。