第30話 退院

 退院を明日に控えた夜。私は重い足取りで彼の部屋にやって来た。

 私はまだ彼に退院の話をしていなかった。いつも言おう言おうと思ってはいたんだけど、その度に喉が詰まってしまって言葉が出なくなったのだ。

「やぁ、来たね」いつものようにロッキングチェアに座ったまま彼は私を迎えた。いつもと違ったのは彼の顔が本ではなく、真っ直ぐに私を見つめていた事だ。

「お嬢さん、今日は大切な話があるんだ」彼は私を手招きし、彼の前に座らせた。


 彼は今までになく長い間、首を右に傾けてから、静かに口を開いた。 


「明日退院なんだろう?」 


 私は言葉を失い、彼を見つめ返した。

「知ってたの? いつから?」

「かなり前から。掃除夫のふりして病院を歩いていた時に、君の父親と君の主治医が、退院の段取りを話してるのを聞いたからね。君は知らないみたいだったし、黙ってたんだ」

「知ってるなら言ってよ! 私、あんたになんて言おうかってずっと悩んでたのに!」

「まぁ、そう喚くなよ。結果オーライってやつだろう。ほら、手だして」

 彼は私の手を握り、ぶんぶんと乱暴に握手をした。

「お、め、で、と、う」

「……め、で、た、か、ね、え、よ」


「素直に喜びなよ。君は家に帰れるんだ」 


「家には帰れるけど、あんたに会えなくなるじゃない。それにあんた、1人で平気なの?」 


「馬鹿にするな。僕は今までだって1人だったんだ。君がいなくてもこれがある」

 彼は私が書いた本――本棚の一番いい場所に並んでいた――を指差した。

「ただの本じゃない! ねぇ、あんたは平気なの? もう会えなくなるのよ!」

「そう騒ぐなよ。これから先、君はちゃんと生きていけるんだぞ。手を叩いて喜べよ」


「生きてなんかいけないわ!」

私は怒鳴った。

「私が家に帰るのはね、病気が治ったからじゃないのよ。どうしょうもないからよ。最後の時間はご家族でってやつ。ご家族ってパパだけじゃないの よ。あの魔女に、あの魔女の娘も家にいるの! 想像出来る? 私は家に帰って、私のパパが魔女と魔女の娘を可愛がってる姿を見せつけられるってわけよ!  それも死ぬまでずっとね!」

  自分で思っていたよりも大きな声が出て、叫んだ自分が一番驚いていた。彼は私とは反対に、落ち着き払った顔をしている。その態度が気に喰わない。もうお別れになるのに。腹が立つ。あぁ、腹が立つ。


「今さら家に帰ったって居場所なんかないわ! 魔女達は私を邪魔者だと思ってるの! どこがおめでたいのよ、私がそんな家に帰らなきゃいけない事のどこがおめでたいの!」


「興奮するなよ。顔が猿みたいに赤いぞ」


 彼の表情は初めて会った時のお面のような顔に戻っていた。あんなに話しをしたのに、あんなに一緒に笑ったのに、彼は私を知らない子供を見るような目で見つめた。 私は増々腹が立ち、沸き上がってくる怒りを休む事なく口から吐き出した。


「お家になんか帰らない! 今日からここに住む! 死ぬまでここで本を読んで暮らすわ!」


「君の居場所はここにもない」


 彼は有無を言わさない強い口調でそう言った。無表情だった顔に徐々に怒りが浮き上がり始めていた。 私は思わず言葉をなくしてその場で固まる。


「ドロシーもアリスも最後は家に帰るんだ。君ももう帰れ。帰り道を覚えている内にね」


 彼は立ち上がり、ぽんっと私の背中を叩いて、部屋から出るように促す。

「さようなら。君は自分の居場所に帰れ」


「……行きたくない」

 我慢しようとしたけどダメだった。私の目から蛇口をひねったように涙がこぼれ落ちる。 


「一人ぼっちだって、突きつけられるのよ! 私はここにいるわ! だって、あんたには私が必要でしょう? ここにいれば、私はいらない子なんかじゃないもの! 私、ここにいる!」


 彼が私の前にしゃがみ込んで、私の顔をじっと見上げた。私は不細工な泣き顔を見られたくなくて顔をノートを持っていない方の手で隠した。


「居場所は、自分で作るものだよ」

 顔は見えなかったけど、彼の声は優しかった。もう怒ってはいないようだ。

「ちゃんと周りを見るんだ。君に差し伸べられている手もあるはずだ。君に開かれている扉もある。ちゃんと生きるって言うのはその手を掴む事だ。開 いている扉に飛び込む事だ。僕はもう手を掴む事は出来ないけど君にはまだ残ってる。生きるチャンスが残っているんだ」


 彼の細くて長い、少し関節の部分が膨らんだ手が私の頬に触れた。

「お願いだから僕に後悔させないでくれ。君までアダムみたいにしたくないんだ。君がちゃんと生きてくれなかったら、僕はどうなる? 今までよりずっと苦しむんだ。『あの時もっと上手くやっていたら、あの子も魔法使いにならずに済んだのに』って」

「……私は魔法使いになんかならないわよ」私は涙を堪えながら言った。


「最後なんだぞ。顔みせなよ」


 私はごしごしと涙をパジャマの袖で拭ってから彼の顔を見た。 彼は寂しそうな顔で笑っていた。無理して笑っていたのが一目でわかる。顔中の筋肉がピクピク痙攣していた。 私の怒りが萎んでゆく。彼が私と同じように、お別れを悲しんでいるのがわかったからだ。 


「マーガレット。跳ねっ返りのくせに寂しがりやで根性がねじ曲がったお嬢さん」


 とても失礼な事を事を事に言われていたのだが、私はそんな事よりも彼が初めて私の名前を呼んでくれた事が嬉しかった。


「ちゃんと生きろ。いつまでも閉じこもってはいられないんだ。ちゃんと生きて、色々な人と触れ合って、一生懸命勉強して、毎日新しい事をして過 ごすんだ。美味しい物を沢山食べて、行った事のない場所に旅をして、沢山誰かを好きになるんだ。それから新しいママにャンスをあげろ。君と家族になるチャンスを。それから新しい友達も作るんだ。自分の世界と向き合ってみろ。人生というのは案外、いいものだ。いいものに出来るんだ。君の力でね」 


 彼の顔がぐっと近付いて来た。長い睫が私の目に入る程近くにある。

「出来るかい?」

 私は大きく頷いた。 彼は嬉しそうに微笑んだ。さっきよりもずっと自然な笑顔だった。

「私がもし……ちゃんと生きれたら」私はパジャマの裾をギュッと強く握りしめた。

「もう一回あんたに会いに来てやってもいいわよ! そんで、あんたに聞かせてあげるわ! 私がどうやって生きてきたか! きっと、どんな本よりも面白いわよ! 本当よ!」

 彼は首をカクンと横に傾けた。薄い唇が声を出さずに『本当に?』と動いた。私は顔を大きく縦に振る。

「冒険あり、ロマンスあり、ホラーあり、コメディありのすっごい面白い話になるんだから! あんたにだけ聞かせてあげる! あんたにだけね! だ から、だから……もし、その時、私が皺だらけのピクルスみたいなお婆ちゃんになってたり、病気で今よりもっと幽霊っぽくなってボロボロだったりしても、あんたの膝に乗せるのよ! 約束だからね!」

 ブギーマンは白い歯を覗かせて声を出して笑った。細くて長い首の真ん中で、のど仏が妖精みたいに跳ねる。

「いいだろう。約束だ。君が例えピクルスみたいなお婆さんになっていたとしても、必ず君を膝に乗せるよ。……じゃぁ今度は君が僕に約束する番だ。 ねぇ、マーガレット。もしこれから先、君の長いか短いかわからない人生の中で、万が一――僕はそんな事絶対に望まないけれど、万が一僕に起きた事が君にも 起きてしまったなら」

 ブギーマンは静かに囁いた。

「人類が消えた後にここで会おう」

 彼はそう言って私のおでこに触れるだけのキスをした。


 翌日、私は退院した。

 パパと新しいママそれと妹がやってきて私の荷物を段ボールに詰めた。妹はずっと新しいママの影に隠れていて近づいては来なかった。新しいママは 私をどう扱っていいのかわからないって顔をして、緊張を顔に張り付かせている。私がじっと彼女の事を見つめていたから余計に緊張していたんだろう。

 私が彼女の事をちゃんと見たのは初めてだった。彼女は普通の、本当に普通の女の人だった。どうして彼女が魔女に見えていたんだろう。

 家に向かう車の中、パパの無理矢理な明るい声だけが虚しく響いていた。パパは車内の張りつめた空気を少しでも和ませようと努力していたけれど、誰も口を開かなかった。居心地の悪さだけが増していき、とうとうパパも喋るのを止めてしまった。

 私は深呼吸して、崖から飛び降りる覚悟で助手席に座っていた新しいママに声をかけた。

「あの」私の声はとても小さくてカーラジオから聞こえる天気予報の声に掻き消されてしまった。私はもう一度深呼吸してから大きな声が出るようにお腹に力を入れて口を開いた。

「あのさ!」今度の声は大き過ぎた。バックミラー越しに皆の視線が私に突き刺さる。

「どうしたの、マージ?」新しいママは助手席の体をよじり、私の方に顔を向けた。その顔は不安と驚きが混ざりあった複雑な表情を浮かべていた。

「……ケーキ……また作ってくれる?」

 新しいママの顔からスッと力が抜けた。彼女は目を細め、唇の両端をクッと持ち上げて笑った。私も彼女に微笑み返した。照れくさくてすぐに目を離して窓の方を向いちゃったけど。
 家族になるには時間がかかると思う。今すぐには無理だ。


 でも、ちょっとずつなら、何とかなるんじゃないかなって私は感じた。

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