第27話 秘密
「私のママは世界で一番の美人さんだった。いつまでも少女みたいな人だったわ」
私はロッキングチェアを揺らすブギーマンに向かって一方的に喋り始めた。
ブギーマンは真剣な顔で「図解毒クラゲ大百科」を読んでいる。私の話を聞いてないみたい。
でも私は構わずに話を続けた。
「ママには夢があったの。家族でサンスフォッズ海岸にいく事と、私をクロリアのリトルプリンセスコンテストで優勝させる事……今となってはどれも叶いそうにないわね」
ぱらりとブギーマンがページを捲った。
私の声なんてまるで耳に入っていないみたい。
「私は小さい頃から体がとても弱くて、5才の誕生日にとうとう倒れてしまって、この病院に運ばれたの。お医者様はママとパパに言ったの。最悪を覚悟しろって。死ぬって事ね」
私は服の上から手術痕をなぞる。
「ママは私のカルテを持って国中の病院に行った。国の外にも行ったわ。何冊も本を書いてる有名なお医者さんにも会った。けどどのお医者様も私はもうダメだって言ったわ。……次にママは今度はトウヨウ医学を頼ったわ。針治療とか、お灸とか……知ってる?」
返事を期待していなかったけど、彼は「東洋の医術だろ」と答えた。聞いてはいるらしい。
「そう。中国のカンフーマスターが考えた医術なの。でもお灸も針も熱かったり痛かったりするだけで効果はなかった。で、次にママは有名な修験者から病気に効果がある石を沢山買ったの。こんなに小さい石なのよ? でもすっごい高いの。1個1万マルもするんだから」
私は親指と人さし指をくっつけて丸い形を作る。彼は私の方をチラッと見ただけだった。
「パパはもうカンカンよ。2人は毎日毎日喧嘩してた。ママはパパを引っ掻くし、パパはママをぶったし……滅茶苦茶だったわ」
私は言葉を切って彼を見た。 彼は退屈そうに長いあくびをして目尻に涙を浮かべていた。どうやら私の話はクラゲ辞典よりも退屈なようだ。
私は馬鹿馬鹿しくなって話すのを止めた。近くに積み重なっていた本の柱から適当に一冊抜き取って――『カラマーゾフの兄弟』と表紙には書いてあった――表紙を開く。
「で? どうなったんだ?」
彼の声が目次ページを開いたばかりの私の耳に届いた。顔をあげると彼が本から顔を上げて私を見ていた。
まるで本を読んでいる時のような、優しい顔をしていた。
きっと私があともう少しだけ大人だったら、この瞬間にきっと恋に落ちていただろう。ま、私はまだ子供だからそんな事全然ないんだけどね。
「聞いていたの?」
てっきり聞き流しているんだろうと思ってた。
彼はぱたんと本を閉じ、自分の両耳を軽く指で引っ張った。
「僕の耳は君のと違って飾りじゃない。ちゃんと聞いてる。ほら、じらしてないで続けなよ」
彼は両手を組んで私を見下ろしている。目が期待に煌めいていた。私VSクラゲ図鑑の戦いは私に軍配が上がったようだ。よっしゃ。
私は本を閉じ、咳払いをしてから再び話し始めた。
「8才の誕生日。私は病気が重い時期で、体中点滴とカテーテルだらけ。その日の夜、ママが病室にやって来た。ママは私から点滴の針やカテーテルや呼吸器を取り外してね、病院から連れ出したの」
「随分危険な事をするね。下手したら死ぬぞ」
私は小さく頷いた。だから私のママは誘拐と殺人未遂で刑務所に送られたんだ。
ママは私を誘拐したつもりも、殺そうとしたつもりもなかったし、私だってママに誘拐されたとも、殺されかけたとも思っていなかったっていうのに。
「ママは私を車に乗せてこれから魔法使いさんに会いにいくんだって言ったの。彼は手で触れただけで病気が治せるんですって。その魔法使いさんはね、私に薬を作ってくれていた人なの。黄緑色に光るお薬。ママはこれを飲めば必ず病気は治るって言ってたわ。私は入院してからそのお薬を毎日飲んでた。 ホットチョコレートに入れてね」
「その魔法使いはもしかして例の……」
「カカ・オ・マよ。逮捕されたわね」
私は笑い「笑うしかないくらい酷い話よね」と続ける。
彼の瞳が複雑な色を浮かべた。彼なりに私を心配しているらしい。
「私の元々の病気ね、今の医学なら手術で治せるんだって。1年くらい前かな? ドイツのお医者様が新しい心臓手術の方法を考えたのよ。難しい事はよくわからないけど、とっても画期的な手術方法。8割は助かるんだって……。でも、私はダメなの。ホットチョコレートの飲み過ぎ。元の病気が治っても、もうダメなのよ」
私は少し黙った。彼も黙って私を見つめている。
「ママが刑務所にいて良かった。ママの刑務所は北棟みたいな刑務所でね、テレビも新聞もないのよ。ママは魔法使いの正体にも、魔法のお薬の正体にも気が付かないで済むわ」
「……母親が憎くないのか?」
私は首を横に振った。
「お嬢さん……その、カカ・オ・マの事だけど」
「何?」
ブギーマンはカクンと首を傾け、それから首を横に振った。
「いや、後で話す。話を続けて」
「……フーン。じゃあ後でね。えっと、ママは魔法使いさんがいるアメリカのユタにいくんだって言ったわ。でも途中で気が変わったの。空港にいく前にサンスフォッズ海岸へいく事になった。きっともうここには戻ってこられないからって」
彼は体を前に倒した。ロッキングチェアが揺れ動いて、彼の顔がグッと近くなる。私は慌てて目線を反らし、読んでもいない『カラマーゾフの兄弟』のページを捲りながら言葉を続けた。 じっと見られると話しにくい。
「夜のサンスフォッズ海岸はとっても綺麗だったわ。あなた、夜の海を見た事はあるの? この病院の周りは海がないけど」
彼は不満をいう子供みたいに唇を突き出す。
「あるに決まってる。何年生きてると思ってるんだ。……ただ覚えてないだけさ」
「それじゃぁ見た事ないのと同じじゃない」
「だから僕が思い出せるよう、しっかりと話してみろ」
彼は偉そうに私に催促した。
「……夜の海はちょっと恐いわ。遠くから波の音がザァーンザァーンって走ってくるの。どこからが海で、どこからが空で、どこまで砂浜なのか、真っ暗で全然わからない。まだまだ砂浜が続くだろうと思って歩いていると、急に足が波に飲み込まれる。でもね、しばらく海辺に立っていると、今まで恐い恐いと 思っていて気が付かなかったものがわかってくるの」
私は目を閉じてあの時に見た夜の海を思う。
「暗闇の中に素晴らしいものが隠れているのよ。波が揺れる度に海面に反射した月や星達が瞬きするの。万華鏡の中に落っこちたみたい。星の光を反射した波打ち際を歩くとね、ミルキーウェイを渡っている気持ちになる。宇宙を歩いているの。どこにだって行けるって思えるのよ。私は病気の事なんかすっかり忘れてママと一緒に遊んだわ。凄く長い間そこにいたような気もするし、ほんの数分しかいなかった気もするんだけど、今まで生きて来た中で一番楽しい瞬間だった。多分これから先もあんなに幸福な気持ちになる事はないわ」
彼はとんっと床を蹴り、大きくロッキングチェアを揺らした。
「まだ12才だろう? 先は長いぞ」
「長くなんかないわ」私は肩を竦める。
「私は人生の半分以上をここで過ごしているけど、お医者様達は私の病気の治し方がわからないのよ。最近、発作が起きやすくなってるし。……あなたが思っているより私は早く逝くわ」
「寿命なんていい加減なものだ。自分が思っているよりずっと短いかもしれないし、予想外に長いかもしれない。僕だってまさかこんなに長生きするとは」
彼はパッと両手の掌をパーに広げた。
「思わなかった」
「……あんたの場合は特殊例でしょ」
「僕に起きた事が君に起きないってなぜ言えるんだ? 君も案外長生きするかも」
私はハァーとため息を吐いた。
「そうだといいけどね。で、続き話してもいいの?」
彼は深く頷いた。
「私達は空港に向ったわ。ママは私の手を引いて駆け足でロビーに走った。ママの手に握られていたのはアメリカ行きのチケットと私の手だけ。私達は チェック・イン・カウンターに着いた。でも、そこから先には進めなかった。カウンターの前には恐い顔をしたパパと、大きな体をした警察官が先回りしてたのよ」ブルドックみたいな顔だったわ、と私は付け足す。
「ママはあっと言う間に警察官に取り囲まれて、私から引き離された。パパはママに走りよって、ママの顔を思いきり殴ったわ。今までもママとパパが 殴り合いの喧嘩をした事があったけど、その時のパパの拳は今までとは全然比べ物にならない強さだった。ママは糸が切れたお人形みたいに床に倒れた。倒れたママをパパはまだ殴ろうとしてた。側にいた警察官が慌ててパパを掴んでママから引き離したわ」
私は一度深呼吸した。
「ママは私の名前を呼んで、泣きながら手を伸ばしたの。『大丈夫よ、マージ! 何もかも上手くいくわ!』って。私はママに駆け寄りたかったけど、 警察官は私を放してくれなかった。ママは手錠をかけられて、どこかに連れて行かれた。私がママを見たのはそれが最後。……パパは私を抱き締めて『もう大丈 夫だ』って優しく言ったわ。パパの手にはママの血が付いてた。とても恐かった。だから『恐いよ!』って泣いた。パパは私の背中を撫でて『もう恐いママはい ないからね』って言った。……パパには私の気持ちが全然伝わってなかった」
今も伝わってない。パパは私の気持ちになんかずっと気が付かないんだ。
いいえ。気が付いているのかもしれない。誕生日に魔女を連れてこないで欲しいとか、パパだけでお見舞いに来て欲しいとか、私はいつも「ああして欲しい、こうして欲しい」ってはっきり言ってるのに、パパはそれを聞いてくれない。ニコニコ笑顔にはいつもこう書いてある。「お前は子供だから、どれが正しいのかがわからないんだ。パパの言う通りにしなさい。言う通りにできないなら、お前は悪い子だ」って。
「後から聞いたんだけどね、ママはもう私のママじゃなかったんですって。偉い人達がね、ママは私のママでいる資格がないって決めたんだって。パパの許可がないとママは私に会ってはいけなかったの。……変でしょう? 私のママよ、なんで他の人が勝手にママをママじゃなくしてしまうんだろう?」
彼は首を右に傾けてから口を開いた。
「そりゃ、その偉い人が馬鹿だからだよ」
「……そうね」
「うん」
「大馬鹿よね」
「かなりのね」
言ってから私は笑った。彼も少し楽しそうだった。
その日から私は色々な話を彼にした。全てノンフィクションだ。
彼はじっと耳を澄ませて私の話しに聞き入った。 私に新しい話を強請る彼はまるっきり子供みたいだった。タマネギみたいな奴。子供になったり、大人になったり、お爺さんになったり、赤ちゃんみたいになったり、1つ1つ違う要素が重なりあって出来てるんだ。
彼はこうやって自分の正体を知っている誰かと普通に話をするのが、本当に久しぶりらしい。どれくらい久しぶりかっていうと、前にこういう事をしたのがいつだったのか、さっぱり思い出せないくらい。それって、相当だ。
その内に彼は私が部屋にやってくるのを待っていてくれるようになり、気が向いた時にはどこからか――多分看護婦さんのお部屋から拝借して来たんだと思う――紅茶を取り出してそれを私に勧めてくれた。
私達は真夜中と朝までの間を秘密の部屋で一緒に過ごす。
私が彼に話を聞かせ、彼がそれを聞き、部屋を出る前には2人で、本当ならここにいるはずだったジャックのために祈った。
そんな日々が駆けるように過ぎていく。
私は彼の膝の上に乗って彼と話す。彼は本を見るような目で私を見た。
私はもう彼から目を反らしたりはしない。彼の目を覗き込みながら話す。
私が話した言葉で彼が楽しんでいるのを見ると、私は自分がブギーマンのお気に入りの本になったような気がして誇らしかった。
ロッキングチェアに揺れる彼の膝の上に座ると、大きな揺りかごの中にいるみたいなうっとりとした気持ちになった。いつの間にか眠ってしまう事もあった。眠ったふりをしてみる事も。
眠った振りをしてブギーマンの胸に顔をくつけて見ると、彼の心臓の音が聞こえた。1分に1度、聞こえるか聞こえないかの長い間隔で、彼の心臓は乾いた音を立て て脈打った。彼の心臓の音はドングリが転がる音に似ていた。コロン、コロン、コロン……。
ロッキングチェアが誘う眠りに連れて行かれるのは私だけじゃない。
ブギーマンも時々、本を読んでいる途中で眠ってしまう。
私は彼の寝顔を眺めるのが好きだ。
長い睫が頬に落とす影が揺れるのを見るのが好きだ。
唇の端が動くのを見るのが好きだ。
鼻の穴が呼吸すると小さく膨らむのを見るのが好きだ。
最近、私は朝方によく咳き込む。心臓の脈がちょっとした事で乱れる。朝起きると鼻や耳から血が出ていて枕が真っ赤に染まっている事もある。
きっと私は長くはないんだろう。
死んでしまうより早く私は大人になりたかった。ブギーマンに恋ができるくらい大人になりたかった。それはきっと、贅沢過ぎる願いなんだろうな。
彼が眠っている時に、私は自分だけの小さな秘密を作った。
誓っていうけど、最初からその秘密を持とうと思っていたわけじゃない。結果的に秘密を持ってしまったってだけの話。
ロッキングチェアが揺れていて、ブギーマンは静かに眠っていて、私は本を読むのに飽きてしまっていて、ずっとブギーマンの顔を見つめていた。
例えば呼吸する時にこう考える人はいるのだろうか。そろそろ肺が空っぽになるから、鼻の穴を開いて、肺が膨らむまで酸素を吸わなくちゃ、って。そんな人いるわけない。肺が空気を必要としたら、体は考えるよりも前に呼吸をする。それが必要だし、当たり前の事だから。
だからその時私がした事も、私にとってはとても必要な事で、当たり前の事だった。
私が自分の行動を理解して、秘密にしなきゃいけないって思った時には、私の唇はもう何もかもを済ませてしまっていた。私は彼を起こさないように注意して、部屋から去った。
彼とのキスがどんな味だったのか。それは私だけの秘密なのだ。
秘密の部屋で過ごしている内に、彼は私に自分の体験を本にするように勧めた。
本なんて書いた事なかったし、書きたいって思った事もなかったから、私はとても戸惑った。
というか、はっきり言ってそんな面倒な事したくなかった。話を聞き返したいのならボイスレコーダーか何かに録音すれば済む じゃないって思った。
けれど彼は譲らなかった。彼には計画があったのだ。
今後も彼が年をとらず、死ぬ事もないまま生き続ければ、彼は人類が滅亡――彼がまだ生きてい るから正しくは『滅亡』ではないのかな? ――した後もただ1人で生きていく事になる。
彼はもう相当なお爺さんだから、子供も作れない。
地球上に独りぼっちになってしまった時に、彼はどこか日当りのいい場所でロッキングチェアを揺らしながらのんびり読書したいんだそうだ。彼はその時に読む本を私に書いて欲しかったのだ。
彼の計画を聞いた私は、腕まくりをして自分の話をノートに書き始めた。
彼の部屋には溢れる程大量の本があり、その中には何度読んでも読み飽きない素晴らしい名作が何冊もあったけれど、人類滅亡後に彼が読みたいのは私の本なのだ。
こういうのをなんて言うか、私知ってる。ロマンチックって言うんだわ。
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