第23話 彼からこれへ
空気が水に変わった。
私は水中をゆっくりと歩いていく。ジャックの横たわるベッドまでほんの数メートルしか離れていなかったのに、思うように体が進まなかった。
ようやくベッドの側まで歩いていくと、私はその縁に両手を掛けジャックの体を見つめた。彼の体は黒い死体用の袋に包まれていて、開 いたチャックから顔から首の辺りまでが外に出ていた。
空を飛ぶサメの群れでも見ている気分だ。ナンセンスなジョークみたいな、笑えないとんでもない間違いを。
ジャックはこんな状態でいるべきではない。これは間違いだ。
私は手を伸ばし、彼の頬に触れた。それは十分な冷たさを持っていた。私にジャックがもう彼ではなく、これになったのだという事を思い知らせるのに十分な冷たさ。
デジカメのシャッター音が響いた。
私の足下で腰を抜かしていた男の人は既に立ち上がっていて、死体安置所の扉の前でカメラを構えていた。
私が男の人の方を向くと、彼はカメラを構えたまま笑みを浮かべた。笑顔の下にゲスの本性を隠している表情だ。
彼は私が幽霊なんかではなく、昼間に出会った患者だと気が付いているようだった。彼はカメラを持っていない方の手を持ち上げ、私に向って手を振った。
「有名人になれるよ! テレビに出るからね! 本当に感動的な写真になる!」
私は何も応えなかった。男はもう一度私に向ってシャッターを切る。無抵抗な動物をナイフで突き回すような顔を浮かべていた。
彼の後ろで扉が静かに開き、今度こそ彼が入って来た。
男の人はシャッターを切るのに夢中でそれに気が付いていない。
私は何も言わなかった。
彼は手にしていたモップを振り上げ、カメラを構えた男の人に狙いを定めた。
私は何も言わなかった。私は彼の握ったモップが、強打者のフルスイングよろしく、男の人の頭を見事に振り抜くのをただ黙って見つめていた。
男の人は悲鳴を上げる間もなくその場に膝から崩れ落ちる。デジカメが床に落ちて転がった。床の上で頭を抑え体を捻る。
彼はその頭に向っ てモップを振り下ろす。殴られた男は両手足を真っ直ぐに伸ばしたかと思うと、だらんと弛緩させた。そしてそれっきり動かなくなった。死んだわけではない。 胸は呼吸の度に膨らんでいた。
「恥を知れ」
彼は冷たく言い放ち、男の人のお腹を踏んだ後で、私に顔を向けた。
「どうして君がここにいるんだ?」
「……ジャックが、動かないの」
私はかつてジャックだった物の肩を掴み、揺さぶった。
ジャックがもう『かつてジャックだった物』になっているんだとわかっていた。でも私はジャックの名前を呼び、彼の肩を揺さぶった。小さなジャックがそうさせた。彼の瞼。彼の唇。彼の鼻が私に彼を揺さぶらせた。
ジャックは一時停止しているだけに見えた。どこかにあるボタンを押せば、また動き出すのだ。しかしそのボタンはもう壊れている。2度と直らない。
私はジャックを揺さぶるのを止められなかった。いつか、ダニーがそこには決して存在しないホイッスルを探して床を這い回ったように。私は彼の名前を呼びながらその薄い肩を揺すり続けた。ジャックの体は氷のように冷えていて手の平の温度を奪っていった。
「ジャック、ジャック、ダメじゃない、こんな所で、ジャック、いけない、こんな事は許されない、ジャック、どうして、ジャック、ジャック、あんたまだ、たった8才じゃない、たったの、たったの8才じゃない! ジャック、目を醒して、お願い、これは間違いなんだから、ジャック、お願い、ジャック! 起きなさい! 起きなさい! ジャック!」
彼が私の側にやってきて、ジャックの肩を掴む私の手の上に彼の手を重ねた。
「看護士達が話していた。眠るように息を引き取ったと。苦しまずに逝けたのは幸運だ」
私は彼を呆然としたまま見つめた。
「この子に約束して出て来たの。必ずブギーマンを見つけるって。たった2時間半前よ! たったの2時間半前! この子はベッドにいたの! なんでここにいるの! どうしてここにいるのよ! ベッドにいなきゃいけない子なのよ! 病気なんだから!」
私は叫んだ。
「この子はブギーマンを怖がったのを謝っていたの。ブギーマンは何もしていなかったのに、怖がってしまって悪かったって。友達になりたいって言ってたんだから!」
彼は背中を屈め、顔をジャックに近づけた。
「優しそうな子だ」
私は頷いた。何度も、何度も。それから彼の顔を真っ直ぐに見上げて言った。
「あんたの名前を持って来たの! ブギーマン……ルーカス・クリストフ」
ブギーマンは私を見つめていた。私は彼の瞳からなんの感情も読み取る事が出来なかった。
私はパジャマのポケットに折り畳んでいたモノクロ写真を取り出し、それを彼の顔の前で広げた。飾ってすぐに盗まれた――私が少々お借りした――あの写真だ。
「これ、あんただわ! 何百年も前の写真! あんたがブギーマンなのね!」
「……僕は君達が噂しているようなブギーマンじゃないよ。君が幽霊じゃないようにね」
「違わないわ。あんたは不老不死で、この写真が撮られた時からずっと生きてるじゃない」
私の言葉には自然と熱が籠っていた。
「僕は魔法なんか使えない。超能力もない。僕はね、お嬢さん」
彼は私の手を握っていた手を放し、私の頭を撫で「ただの人間だ。ただ年寄りなだ けで、君と何も変わらない。窓から外を眺めていた君を子供達が幽霊だと呼んだように、たまたま僕の体質に気が付いた人々が僕をブギーマンと呼んでいただけなんだ」と穏やかに続けた。
「お願い……そんな事言わないで……お願いだから」
私は顔を横に振ると彼の腰に手を回し、強く強く抱きしめた。
「私の願いを叶えて。……お願い、見捨てないで、お願いだから、ジャックを助けてあげて」
ブギーマンは私の頭を撫でながら一言だけ言った。
その時の彼の声は、今までの彼の平坦で何の感情も含んでいなそうな無機質な声ではなかった。血を吐き出すような、苦痛と悲しみに溺れた声だった。
「僕には何も、何も出来ないんだ。……すまない。本当に」
ダムが決壊した。悲しみが濁流になって溢れ出す。私はブギーマンに抱きついたまま涙を流した。零した涙は一粒だけ。それ以上は一滴だって出やし なかった。私の中に巣くった悲しみはあまりに深く、あまりに重く、あまりに量が多かった。だから体が涙腺を感情から切り取ったんだと思う。もし悲しみのまま私が涙を流していたら、涙の勢いで私の眼球は流れ落ち、体中の水分が干上がって、私は死んでいたと思う。
私は夜明け近くまでジャックの側に留まった。いつかジャックが息を吹き返すと信じていたけれど、ジャックはとうとう目を醒さず、石のような冷たさで私を拒絶したままだった。
ブギーマンはずっと私の隣に黙って立っていたけど、夜明けが迫ってくると「もういかないと」と言って私の手を取り、死体安置所から連れ出した。
私は何度も振り返り、ジャックが「置いていかないでよ!」と追い掛けてくるのを待ったけれど、それはただの虚しい願望だった。私を追い掛けて来たのはただの沈黙だけだ。
私は地下室の階段を登った所で眠りに落ち、目を醒した時――翌日の昼過ぎだった――には自分のベッドに戻っていた。ブギーマンが運んでくれたのだろう。
カーテンの向こう側に人の気配を感じ、私はカーテンを開けた。ブギーマンがいるのだと思っていたけれど、立っていたのは浅葱色のコートを着たルールブックさんだった。制服を着ていない彼女を見るのは初めてだった。
「おはようございます。ミス・ブルーム」
彼女は腰を屈めて私と同じ位置に視線をあわせ、とても静かに、この病院から退職する事を告げた。
「どうして?」と聞いても彼女は何も言わず、寂しげに微笑むだけだった。
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