第22話 再び、死体安置所へ

 ジャックは就寝時間直前に病室に戻って来た。

 彼は移動ベッドの上で青ざめた顔のまま寝息を立てていた。

 骨がなくなったみたいにその体は潰れている。強い麻酔が効いているので明日の朝まで目を醒さないと看護婦さんは言っていた。体力の経過を見て、来週には手術をするらしい。

 真夜中になってもジャックはずっと眠ったままだった。


 深夜2時半過ぎ。

 私達は眠っている彼の頬にキスをし、病室を後にした。

 ブギーマンを探しにいくのだ。私達のジャックの命を伸ばしてもらう為に。

 私は既にブギーマンの名前を見つけていた。後は彼を捕まえればいいだけだ。

 私達は2手に分かれて病院内を探索する。

 サードとカーチャは東棟のお庭と図書室。私が初めてブギーマンと出会ったのはあのお庭だし、彼はいつも本を読んでいたから図書室にも現れる可能性がある。

 私とダニーは北棟を目指した。この病院で一番古いのは北棟の地下室だったから、もしブギーマンが住んでいるとしたら、可能性が高いのは北棟だ。

 東棟のお庭か、図書室、北棟の地下。

 このどこかに必ずブギーマンはいるはずだ。……いてくれなきゃ困るんだ。ジャックと、私達のために。

 病室を出て2手に分かれてから、私とダニーは3階中央棟へ移動した。

 病院内に入り込もうとするマスコミを警戒してなのか、見回りの人数がとても多かったのでここに辿り着くまでに1時間近くかかってしまった。

 ダニーが扉の鍵穴にダミーキーを差し込む。北棟に入ったのが一度バレているので、鍵が付け替えられているんじゃないかと不安だったけれど、軽い音を立てて扉は開いた。

 私は暗い廊下を進む。背後でダニーが扉に鍵をかける音が聞こえた。

「暗くて何も見えない!」

「灯り付けて! 足下だけ照らすんだ!」

 言われるがままペンライトを点けた。

「走れ! 走れ! 看護婦、すぐ戻ってくるぞ!」

「わかってるわよ――キャァッ!」

 扉の前を走り抜けようとした時、急に扉が内側からガンッと殴りつけられた。

「速く走れ! そんなの無視してろ!」

 懐中電灯の灯りも届かない前方の闇の中からガンッ! ガンッ! ガンッ! と扉を殴る音が響いてくる。患者さん達が目を醒したんだろう。扉を殴る音の他にも、人々の叫び声や怒号が廊下に反響して私の肌を振るわせた。

 さっき通って来た扉の方から看護婦さんの声が聞こえた。

「一体どうしたの! 静かにしなさい!」

 扉を叩く音を聞きつけたようだ。ガチャガチャと扉を開いている音が微かに聞こえる。

「何してんだ、走れ!」ダニーが私の腕を掴み、グイッと引っ張って走り出した。

「! 誰かいるのね! 待ちなさい!」

「走って! もっと速く!」

 ダニーの懐中電灯の灯りが暗い廊下をあっちこっちと飛び回る。

 前方の道が2つに分かれている。

「俺はこっち! お前はそっち! 上手くやれよ!」ダニーは行き先を懐中電灯の光で指す。

 私はダニーが示した通り、右の道に入った。道は真っ直ぐに続いている。

「待ちなさい! 誰なの!」

 看護婦さんの声は途中から聞こえなくなった。ダニーを追い掛けたんだろう。

 私はダニーがどうか看護婦さんに捕まりませんようにと祈りながら、廊下を更に前へと進んで行った。ずっと、ずっと、真っ直ぐに。

 暗闇の中を五分程進んだ所で、急に足が床を踏み抜いた。

「――!」落ちる!

 私は反射的に暗闇に手を伸ばす。右手が何かに触れる。私はとっさにそれを強く握りしめる。お尻がガンッと何かに衝突した。腰骨まで貫通する痛みに私は声にならない声を上げて、その場にうずくまった。

 痛みが引いてから手探りで周囲の壁や、床に触れ、自分に何が起きたのかを確認しようとした。

 床は20センチくらいの幅ごとに段差がついている。

 ……階段。

 階段だ。

 私はお尻の下敷きになっていたペンライトを取り出し、灯りを付ける。足下を照らしてみるとぼんやりとだけど滑り止めのゴムが見えた。やはり階段だ。私は痛むお尻を撫でたり、揉んだりしてから、スッと息を吸い込んだ。

 ……よし。歩ける。大丈夫だ。

 私は手すりを掴んで階段を降り始めた。螺旋階段。

 間違いない。この先が死体安置所だ。

 階段を降り続けていくと、徐々に階段の続く先が明るくなって来た。私はもう地下に着いたのかと思ったけれど、それは1階廊下の灯りだった。この間通った時は1階にこんな灯り点いてなかった。きっと見回り看護婦さんが私達を見つけるために点けたんだろう。

 私は1階まで降りると螺旋階段から外に出た。もしかしたらダニーとここで合流出来るんじゃないかと思ったからだ。

 1階は北棟の待ち合いロビーのようだった。壁沿いに自販機と観葉植物、大きなゴミ箱、それと背もたれ付きの長椅子が並んでいた。

 正面に両開きの扉が見える。その扉の向こうから看護婦さんの鋭い声が聞こえて来た。

「必ず捕まえてやりますからね!」

 看護婦さんの声はどんどんこっちに近づいて来ている。私はどこか身を隠せる場所はないかと慌てて周囲を見回し、スライディングでもするみたいに長椅子の下に滑り込んだ。

 私の体が全部長椅子の下に隠れた時、看護婦さんが待合室の扉を開けて部屋の中に入って来た。プロレスラーみたいに腕が太い看護婦さんだ。東棟にいる看護婦さん達と違って腰に太くて固そうな棒を下げている。

 噂で聞いた事がある。北棟の看護婦さんは言う事を聞かない患者さんを殴る権利があるんだっ て。私はごくりと唾を飲み込む。

 看護婦さんは大きな懐中電灯で待合室の床をサーチライトみたいに照らす。

「誰かいるの?」 
 

 私はパジャマスカートの端が長椅子の下から出ないようにぎゅっと強く掴み、ただただ自分の運を信じて祈った。

 見つかりませんように!  見つかりませんように!
 

 看護婦さんは大股でこちらに向かって歩いて来た。ガッチリした2本の足が長椅子のすぐ前に迫る。

 しかしその足は私が隠れている長椅子の側を通り過ぎ、 大股で螺旋階段を上って行った。タン、タン、タンと階段を上っていく音が遠ざかる。
 

 私はほっとため息を吐いた。

 よかった。見つかったらどうしよ うかと思った。

 耳を澄まし、足音が完全に消えるのを待つ。だが足音は再び近づいて来た。看護婦さんは待合室に戻って来た。彼女は待合室の中心近くまで歩いてゆき、こちらに懐中電灯を向ける。


「出て来なさい。いるのはわかっていますよ」


 看護婦さんは腰のベルトから棒を外し、それを威嚇するように握って頭の上に持ち上げた。

 どうしよう? 大人しくつかまる? それともここから地下室まで走って逃げる? 


 私が迷っているうちに看護婦さんはズンズンと歩いて来て、私の隠れている長椅子の真ん前で足を止めた。もうここまでだ。後はダニー達に託すしかない。


 観念して長椅子から身を出そうとした時、右隣からカタンと何かが開く音がした。 顔をそちらに向けると、あの大きなゴミ箱の中からダニーが出てくるのが見えた。体中埃だらけだ。

 看護婦さんは大きなため息を吐いて、握っていた棒をベルトに戻した。


「鼠じゃないんだから……本当、勘弁して頂戴。あなたどこの病室の子?」


 看護婦さんはダニーの頬をつねり、彼の首を猫でも掴むみたいに指で摘んだ。私には気がついていないようだ。 長椅子から顔だけを出して看護婦さんに連れ去られていくダニーの背中を見ると、彼の手が私に向けてVマークを作っていた。 私はどうせ見えないだろうけど、彼の背中に向かってぐっと親指を立てた。あんたの犠牲は無駄にしないぞ、ダニー3等兵。

 看護婦さんの足音が消えたのを確認してから、私は長椅子の下から這い出て再び螺旋階段を降り始めた。

 ペンライトを握り、静かに階段を降りてゆく。 灯りのない階段は底のない黒い沼のように見えた。私をつま先から飲み込もうとしている、大きな化け物の口のようにもだ。

 暗く視界の悪い階段を降りるのは2回めとはいえ、やはり恐かった。

 手すりをしっかり握り、階段から足を踏み外さないように注意して降りていても『いつ足を踏み外すのか』という不安が拭えない。徐々に階段の先が明るくなっていく。もう死体安置所は近い。私はスピードを上げて階段を降り切り、地下の廊下に出る。

 廊下の先に死体安置所の扉が聳えている。私を待っていたというように堂々とした姿だ。灯りが付いていて、窓から光が漏れている。

 私は深呼吸をしてから廊下を進み、死体安置所の前に立った。扉に耳を付けて中から話し声や物音がしないかどうかを確認する。話し声は聞こえなかった。でも――人の気配がする。

 私はそっと死体安置所の扉を押し、数センチの隙間を作って中を覗き込んだ。

 掃除夫さんの制服を着た男の人が死体安置所の左手、ステンレスの死体冷蔵庫の前に立っていた。あのお爺さんじゃない。背格好が違った。きっと彼だ。

 私の心臓は体内で煩く暴れている。手の平にも額にも沢山汗が吹き出していた。緊張で頭がどうにかなってしまいそうだ。でも、やらなくちゃいけないんだ。

 私は音がしないように慎重に扉を開け、死体安置所の中に入り込んだ。彼は私に気が付いていない。私は腰を屈め、床を四つん這いになって進んだ。

 彼の視線はじっと前方に向いている。彼の前にはステンレスの棚が引き出されていた。死体冷蔵庫の棚だ。彼は棚の上を背中を丸めなが ら見つめている。

 という事は今、あの上に誰かの死体が乗っているんだろうか? ゾッと寒気が走った。ただの死体ならまだしもブギーマンが見ている死体なのだ。きっと普通の死体じゃないだろう。

 今は低く屈んでいるので、私は幸運にもそれを目にする事はなかった。よかった。

 ――ピピッ!

 奇妙な電子音が室内に響いた。私は心臓が口から飛び出すくらい驚いたけど、彼の体はピクリとも動かなかった。

 ――ピピッ!

 また電子音。その音は彼から聞こえてきていた。彼は胸の前に持ち上げていた両手を下げる。彼の手に握られていたのは大きなレンズが取り付けられたデジタルカメラだ。

 カメラ? なんでそんなの持ってるの? 

 私は屈むのを止めてその場に立ち上がった。

 今まで視界に入らなかったベッドの上の死体が目に入る。

 私の手からペンライトが滑り落ち、室内にカーンという軽い音が響いた。

 彼が音に驚いて振り返る。

 その男は彼ではなかった。全然違う人。でも知っている人だった。私にジャックの事を喋らせようと迫って来たマスコミの男の人だ。

 彼は口を抑え、その場に腰を抜かした。彼は震える声で失礼にも「幽霊……!」と呟いた。

 でもそんなのどうでもよかった。私の目も、魂も、心も、意識も、ベッドの上に横たわる小さな死体に向いて、決して離す事が出来なかった。

 小さな、小さな、ジャックの死体から。

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