第18話 行ったり来たり
今日のお昼ご飯は温野菜サラダと茸のスープとオートミールに牛乳、それからフルーツ。
私は温野菜サラダから小さく刻まれたニンジンを選り分けていた。
大変だったけど、もう終わりだ。私はサラダの中に残った最後のニンジンをスプーンで掬い、牛乳瓶の蓋の上に移動させた。蓋の上にはニンジンのピラミッドが出来ている。
積み上げられたオレンジ色のピラミッドに満足してから、私はサラダにスプーンを伸ばした。ニンジンさえ取り除いてしまえば温野菜サラダは大好きだ。
スプーンでサラダを掬い、口に運ぼうとした時、何かが床に落ちた。
ガシャーンと何かが割れる音と、金属がぶつかりあう音が病室に響く。
思わずスプーンを運ぶ手を止めて音がした方――隣のジャックのベッド――に顔を向けると、床の上に食器や牛乳瓶やプラスチックのトレーが落っこちていた。まだ温かいオートミールが湯気を立てている。
ジャックは取り乱す風でもなくベッドに座っていた。
落とした物を拾う素振りどころか、ベッドから降りる素振りもみせない。トレーが落ちたのに気が付いていないように見えた。
彼はじっと前を向き、キョンシーみたいに両腕をピンッと前に伸ばしていた。右手にはブロッコリーが刺さったフォークを握りしめたままだ。
「何やってんだよ、ジャック。キョンシーの真似か?」
私達は彼がふざけているのだと思い、クスクスと笑ったけれど、やがて様子がおかしい事に気が付いた。
「ねぇ、どうし――」
サードが声を掛けようとした時、ジャックはそのままの格好で背中からベッドに倒れた。私達が唖然としている内に彼は起き上がり、また背中からベッドに倒れる。それを何度も繰り返した。
「ジャック、大丈夫? ねぇ? どうしたの?」
巨大な猫の舌で背筋を舐められるような嫌な予感を覚え、私はジャックに声をかけた。
彼は何も応えない。もう一度声をかけようとした時、彼の体が傾いた。彼は両手を前に突き出したままベッドから床へ転がり落ちた。オートミールが彼の下で濡れた音を立てて潰れる。
「ジャック!」
私はベッドから飛び降り、慌てて彼に駆け寄った。
床に散乱していたお昼ご飯の上で、ジャックは全身を振るわせ始める。彼は弓なりに背中を反らし、手足を滅茶苦茶に動かし始めた。アニメに出てくる感電した人みたいに、不規則で激しい痙攣だった。彼の口は顎が外れるんじゃないかってくらいまで大きく開かれ、喉の奥から超音波のような悲鳴が吐き出さ れた。
「アァァァァーッ! アッーッ! ア、ア、ア、ア、アーッ!」
彼は両手の爪を立てて、自分の体を引っ掻き始めた。引っ掻くと言うより、引き千切ろうとしていたと言った方が近いかもしれない。貝殻のような爪が、柔らかそうなほほ肉や首筋に真っ赤な筋を付けていく。パジャマはボタンが外れ、布地がビリビリと音を立てて破れた。彼はパジャマの下からあらわになった胸やお腹まで奇声を上げながら掻きむしる。
ジャックの体には数えきれない程の、数える気すらなくなるほどの手術痕が残っていた。肉ごと盛り上がった手術の縫い目が、メロンの皺みたいに体中に広がっている。繋ぎ合わされた皮膚は様々な色に変色し、腐った林檎色の部分もあれば、瑞々しい葡萄色の部分も、潰れたオレンジ色の部分もあった。皮膚のパッチワークだ。
一体何度手術を受けたんだろう。一体どれだけの苦痛をこの小さな男の子は抱えて来たんだろう。私のバツ印の手術痕が一瞬ピリッと痛んだ。たった2本の手術痕でさえ、あんなに痛かったのに。
ジャックの口から血が混ざった泡が吹き出されるのを見て、私はやっと正気に戻る。
「誰かナースコールを! 看護婦さんを呼んで来て!」
ダニーがナースコールを押してから数分後に、お医者様と看護士さんが病室にやって来た。
私達はジャックが自分の体を傷つけないように彼の両手に抱きついて抑えていたけれど、ジャックはまだ激しく暴れ続けていた。看護士さん達がジャックを抑え、私達をジャックから引き離す。
お医者様はジャックの首にピストルみたいな形をした注射器を押しあてて、トリガーを引いた。ジャックは暴れるのを止めて目を閉じ、だらりと手を床に落とした。お医者様はジャックの瞼をつまみ上げ瞳をペンライトで照らすと「緊急治療室へ」と強ばった顔で叫んだ。
ジャックは看護士さん達に移動用ベッドに乗せられ、そのまま病室から運び出される。
いつもどっしりと構えていたダニーが激しく取り乱していた。
彼はジャックの名前を叫びながら移動ベッドをエレベーターの所までずっと追い掛けて行った。
私は慌ててダニーを追い掛け病室に連れ戻して来たけれど、彼は激しい興奮状態でまともに話も出来なかった。壊れたレコードのように「どうしよう、どうしよう」と繰り返す。
「ジャックは大丈夫だから! お医者様がなんとかしてくれるって!」
彼を落ち着けようと私は言ったけれど、ダニーは増々興奮してしまった。
「大丈夫なわけねーだろ! お前も知ってるだろ! ジャックは頭の中にテニスボールくらいのニキビがあるんだ! それが潰れたら死んじまうんだよ! 本当ならもう何年も前に死んでたかもしれないんだぞ! 医者に何が出来るってんだ!」
サードがおずおずと言う。
「死んでも生き返れるってジャックは言ってたよ。ジャックは天国へ行って、すぐに戻ってくるの。人間は死んだら必ずそうなるんだって」
「生き返る?」
ダニーは青ざめた顔でサードを見つめた。
「人間は何度だって生まれ変われるのよ。ラマイ・ダラみたいにね!」
ダニーは彼に向かって歩き出す。血走った瞳が揺れている。
「止めて。お願いだから」
私はダニーの腕を掴み、サードから遠ざけようと引っ張った。
「落ち着いて、落ち着いてよ、ダニー! サードはまだそういう事がわからないの!」
「人間が生き返るわけないだろ!」
私の制止を無視してダニーは叫んだ。
「死んだら死んだっきりだ! 骨になって終わりだ! 苦しんで、苦しんで、死んで、それで全部終わりなんだよ! 俺の親父もそうだった! 俺の親父もああやって運ばれていって、戻ってこなかった! 親父がどうやってくたばったか聞きてぇか? 体中の皮膚が捲れて、苦しい、苦しいって言いながら死んだんだぞ! お前の会社の工場が爆発して、巻き込まれて死んだんだ! 俺の肺だってそうだ! お前の――!」
「ダニー! いい加減にして!」
私はダニーを彼のベッドにまで引っ張っていく。
「サードのせいじゃないってわかってるでしょ! あんたらしくない事言わないで!」
ダニーは「うるせぇ! わかってる!」と叫び、顔を覆って泣き崩れた。
「ジャックが死ぬかもしれねぇんだぞ! なんでお前らは平気な顔していられんだよ!」
「平気じゃないわよ!」
私は叫んだ。
「平気なわけないじゃない!」
風景が歪む。眼球が燃えるように熱くなり、涙が流れ出した。
私は床の上に座り込み、歯を食いしばって泣いた。サードがふらふらと歩いてきて私とダニーの間に座る。彼もまた泣いていた。
私達は3人で肩を寄せあって抱きしめあい、そのまま床で眠ってしまった。
翌週。手術を無事に終えたカーチャが戻って来た。彼女は私達に向かって微笑み「地獄は満員でごザリましタ。天国の方は面接試験で落とさレたですヨ。もうちょっと現世に居残りデス」とおどけてみせたけれど、かなり無理をしているのが見ていて伝わって来た。
カーチャの笑顔は以前よりも暗く陰っていた。彼女がまた昔みたいに笑うには、きっととても長い時間がかかるのだろう。
カーチャの帰還を喜んだのは私達だけではなかった。
追っかけ少女達の喜びようは凄まじかった。
カーチャ様ー! 影のあるカーチャ様も素敵ー! こっち向いてカーチャ様ー! きゃーっ! きゃーっ! カーチャ様ー!
私とダニーとサードは押し掛けてくる少女達から病室を守る警備員と化した。
そのラインから中に入らないでー。押し合わないでー、ここから先は関係者以外立ち入り禁止ですよー。警備のスキを突いて病室に入り込もうとする少女達を叩き出すのは骨が折れた。女の子――西棟の子――がカーチャのベッドの真下にへばりついていたのを発見した事もある。あの時は本当に心臓が止まるかと思った。お化け映画じゃないんだから勘弁して欲しい。カーチャもあの子たちを煽るようにキザにウィンクしたり、投げキスしたりしないで欲しい。ああいうことをするから追いかけ回される羽目になるのに。
ともあれ、カーチャの帰還によって私達は物事を少し楽観的に考えられるようになれた。
彼女が無事に戻ったんだから、ジャックだって無事に戻ってくるだろう、って。
探検はジャックが戻ってくるまで見合わせる事になった。あの探検を一番楽しみにしていたのはジャックだったし、一番ブギーマンに会いたがっていたのもジャックだったからだ。
そしてジャックが病室からいなくなって2ヶ月が経った頃。
私はピートに再会した。
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