第16話みんな傷だらけ
「マージ、マーガレット。もう9時よ。起きていらっしゃい」
弾むママの声に私は目を醒した。
窓から差し込む光が眩しい。
まだベッドから出たくなかった。私はモゾモゾと布団に潜る。
「早く降りていらっしゃい。今日は誕生日でしょう」
「誕生日!」
私は目を見開いた。そうだ、今日は私の誕生日。5才の誕生日だ。どうして忘れていたんだろう。
私はベッドから飛び起きるとパジャマのまま部屋を飛び出し、2階から1階へ続く階段を一気に駆け下りた。誕生日だ! 今日は誕生日! ママのフルーツケーキを食べなくちゃ! 心が体の中でパタパタと羽ばたいた。なんて幸せな気分だ。
私の足が1階に着いた瞬間、パーンッ! という破裂音があちこちから一斉に鳴り響く。突然の事に私は悲鳴を上げてその場に腰を抜かした。
火薬の臭いが鼻を突き、紙吹雪とリボンが空中に舞う。カラフルなリボンは空中で踊りながら私の頭に着地した。リボンを手に取って眺めていると、ソファーや本棚、階段の影から大勢の子供達が飛び出して来た。手にはクラッカーを持っている。
「誕生日おめでとう! マージ!」
私は腰を抜かしたまま固まってしまった。驚き過ぎて心臓が止まりそうだった。
彼らは私が毎日窓から見つめていた子供達だった。
どうしてここにいるの? どうして!
「5才の誕生日おめでとう、マーガレット!」
パチパチと手を叩きながら、今度は大勢の大人達がキッチンから出て来た。
子供達は私の周りで飛び跳ねながら、サプライズパーティ成功だと喜んでいる。
笑顔以外の表情を知らない顔が私を取り囲む。
光り輝く健康な子供達。
私は目の奥を突き刺されるような痛みを感じ、思わず手で瞼を抑える。この輝きは私の目を潰すと思った。心の深い部分にある瞳が潰されてしまう。
私は彼らが怖くてたまらなくなった。彼らと私は同じ人間だったけれど、それでいて全然違う生き物なんだって感じとったからだ。
きっと彼らも同じように感じたんだろう。彼らははしゃぐのを止め、値踏みするような不躾な目で、縮まっている私を頭の先からつま先まで観察し始めた。
「誰だよ、幽霊の誕生パーティだって言った奴。ただの病人じゃん」
「この子知ってる。道路で僕らが遊んでいるのを見てるんだ。妹が怖がってた」
「可哀想に。きっと私達が羨ましかったんだわ」
私は生まれて初めての激しいヒステリーに襲われた。
「出てって! 私の家から出てって!」
私は大声で叫び、手近にあったクッションを振り回す。
子供達は悲鳴を上げて逃げ出し、自分のママやパパの影に隠れた。彼らは顔を半分だけ出し、吃驚した目で私を見つめる。
「可哀想に。ずっと1人だったからあんな風になっちゃったんだ」
誰かが呟いたその優しい言葉は、私をどうしょうもなく惨めにした。
私は暴れる気力もなくなってしまい、その場で泣きじゃくった。
大声で泣きたいのを歯を食いしばって我慢したから、震えた唇からはトドの鳴き声に似た変な声が漏れる。オッオゥ、オッオゥ。
子供達は泣き声を聞き、お互いを小突きあいながら忍び笑いを浮かべた。
暖炉の側でハンディカムを回していたパパが人混みをかき分けてやって来た。
「マージ、クッションを置くんだ。パパが部屋まで連れていってあげるからね」
パパは私の手からクッションを取り上げ、私を抱き上げた。
「本当に皆さん申し訳ありません。慣れない事で興奮してしまったようで。少し休ませますから、どうぞお気になさらずにパーティを続けて下さい。どうか楽しんで」
パパは私の背中を大きな手で擦りながら、心底申し訳なさそうに招待客達に詫びる。
私はパパの首に両手を回し、涙で濡れた頬を服に擦り付けた。
「どうしてあの子達は私をジロジロ見るの!」
「ごめんよ。お前はいつもあの子達を見ていたから、きっと友達になれると思ったんだ」
「友達なんかいらないもん! あんな子達大嫌い!」
「あぁ、マージ。そんな事を言わないで。パパが悪かったんだ」
パパは私の頬にキスをした。
パパの肩ごしに誕生日ケーキを持ったママがキッチンから出てくるのが見えた。不安そうに周りを見渡してから、パパと私を見つけて「どうしたの? 何かあったの?」と聞いた。
私の体内で渦巻いていた怒りの洪水が勢いを弱め、水面に後悔の念が浮かび上がった。理由はどうあれ、ママとパパは誕生日パーティが素晴らしいものになると期待していたはずだ。私はその期待を裏切って、ぶち壊しにしてしまった。なんて事をしてしまったんだろう。
咽の奥でゴボッと排水溝が詰まる音がした。急に呼吸が出来なくて苦しくなった。私は激しく咳き込み、喉に詰まっていた何かを口から吐き出した。苺ジャムの塊だ。でも苺ジャムなんて食べただろうか? 私はもう一度咳き込み、再び苺ジャムを吐く。
ベチャリと嫌な音を立てて床に落ち、カーペットに大きな赤黒いシミを作る苺ジャムを目にして、私はそれが粘ついた血の塊だと気が付いた。咳が止まらなくなった。私は海老みたいに体を折って咳き込む。その度にカーペットに新しい血のシミが出来た。
騒がしかった部屋は静まり返り、ゴフッゴフッという私が血を吐く音だけが響いていた。実際はたった数秒の間かも知れない。でも私にはとんでもなく長い時間に感じられた。
私の咳が途切れた頃。誰かが悲鳴をあげた。
「病気がうつるわ!」
それは短距離走のスタートを告げるピストルの音。
室内にいた皆が金メダルを狙うランナーと化し、玄関へ向かって走り出した。彼らはテーブルを蹴り飛ばし、ソファーや鉢植えを倒しながら、悲鳴や罵声を上げて我先にと玄関から飛び出していく。
「うつる病気じゃないわ! うちの子をこんな風に扱わないで! 誕生日なのよ!」
「邪魔だ! 退いてくれ!」
誰かがママを突き飛ばした。ママは大きくよろめいて壁に叩き付けられる。ママが持っていたケーキが床に落ちグチャリと潰れるまでが、超高感度カメラで取ったスローモーションみたいにゆっくりと見えた。「5才の誕生日おめでとう」ってチョコで書かれたクッキーが、人々の足に踏み潰されていく。
あぁ、そうか――。これは夢だ。5才の誕生日の夢を見ているんだ。
私を取り囲んでいた風景がテレビチャンネルでも変えたみたいにパッと切り替わった。
今度は病院の個室だ。私は両手を点滴に繋がれた姿でベッドに座っている。
側にはママがいて、ホットチョコレートの入ったカップを手にパイプ椅子に座っていた。
「魔法使いカカ・オ・マはおっしゃったわ」
ホットチョコレートをプラスチックのスプーンでゆっくりとかき回しながらママが言う。
「病は血の汚れによるものだと。血は人間を動かすエネルギー。川を流れる水と同じ。水が濁ると川に生き物が住めなくなるでしょう? 血も同じなのよ。逆にいえば血さえ清められれば、病気なんて消えてしまうの。本当よ。血を清められるのは医学じゃないの、人類が産まれた時から脈々と続いている、魔法の力なのよ」
ママはバッグの中から小さなガラス瓶を取り出した。黄緑色に発光する液体が入っている。
「これは魔法のお薬よ」
ママはガラス瓶の蓋を開け、中身を数滴カップの中に垂らした。
「魔法使いのお爺さんがくれたの? ママのお友達の?」
「そうよ。魔法使いカカ・オ・マが特別に作ってくださったの。さぁ、これを飲んで」
私は頷いてホットチョコレートを飲み干した。苦くて舌がビリビリする。
私がホットチョコレートを飲み干すと同時に、病室の扉が開いた。パパだ。ママは慌てて瓶をポケットの中に隠し、やましい事なんてないわって顔をした。
「この子に何を飲ませたんだ、キャロライン!」
パパの怒鳴り声が病室に響く。
「ホットチョコレートよ。見ればわかるじゃない」
「そうじゃない、何を入れたんだ! 今隠した物を出せ!」
「何も入れてないわ! 子供の前で怒鳴らないで!」
ママは立ち上がり、怒鳴り返した。
「一体何なの? 私が何をしたっていうのよ!」
「……これがなんだかわかるか? お前がそこら中から借りた金の請求書だ!」
パパはポケットから何枚か封筒を取り出し、ママに突きつけた。ママの顔が青ざめていく。
「自分が何をしているのかわかっているのか! わけのわからん物に大金払って!」
「私は、私はただマージに元気になって欲しいだけよ!」
「それがこれか? これがお前の考えた結果なのか? ふざけるな!」
パパは封筒を床に叩き付けてガンガンと踏みつけた。本当に踏み付けたいのはママだって顔をしていた。
「これだけ金があればマージを家に連れて帰れた! 自宅治療が出来たんだ!」
「治療? 治療ですって!」
ママが髪を振り乱しながら叫ぶ。
「あんなのは治療じゃない! あなたが言ってるのはね、アレックス! 娘を見捨てるって事なのよ! わかってるの? 諦めるって事じゃない!」
パパは私の方に顔を向けると「ちょっとママと話をしてくるよ。心配ないからね」と言ってママの腕を掴んだ。
「放して! 放してよ! マージ! パパはあなたを殺すつもりよ!」
「いい加減にしろ! 外に出るんだ!」
ママはパパに引き摺られ病室から出て行った。でもパパの気遣いはあまり意味がなかった。廊下での口論は病室の中までばっちり聞こえていたから。
「何が魔法使いだ! ただの詐欺師じゃないか!」
「世界中の医術は彼の魔法を模倣したものなの! マージが受けている治療だって、カカ・オ・マの劣化コピーでしかないのよ!」
「冷静になってくれ、頼むから。もうどうしょうもない所まで進行しているんだ。残された時間を家族で過ごしたいとは思わないのか。それがあの子に出来る唯一の事なんだよ」
「誤摩化さないで! あなたは娘の命を諦めようとしているの!」
「どうしてそうなるんだ! 僕はマージのためを思っているだけさ! このまま死ぬまでベッドに縛り付けるのか? 僕は今のうちにあの子を外に連れていってあげたいんだよ!」
「そうして病気を進行させるつもりなのね? 私、知ってるのよ!」
「何を? お前が何を知ってるって言うんだ! ろくに家にも帰らず、こんな如何わしい詐欺師の教会に出入りして!」
「教会じゃないわ! 教えの寺院よ! 私達を救ってくれる素晴らしい場所なのよ!」
「ただのカルトだ! そんなもののためにお前は娘の人生を滅茶苦茶にするつもりか!」
「滅茶苦茶にしてるのはあなたじゃない! 私が知らないと思ってるの? とっても奇麗な人ね! シンディでしたっけ? あなたの会社の部下。この間お見舞いに来たでしょう! 彼女のあなたを見る目! 汚らわしい! あなたは家族の事なんてどうでもいいんだわ!」
「いい加減にしてくれ! 君に必要なのは魔法使いなんかじゃない! カウンセリングだ!」
「はっきり言いなさいよ! 重荷になったんでしょう! あの子の事が! 見捨てる気なんだ! 人殺し! 人殺し! 何度だって言ってやる! 人殺し! 人殺し! 人殺し!」
「もうこれ以上は我慢出来ない! 別れよう、あぁ、もっと早くにこうするべきだったんだ! 2度とマージに近づくな! 君は母親失格だ!」
また風景が切り替った。
私はベッドの側に立ち、布団から伸びた誰かの手を握っている。布団の中からはダニーの啜り泣く声が漏れ聞こえていた。
「お袋に電話したんだ、俺、いつになったらここから出られるんだって。お袋は裁判が終わるまでダメだっていうんだ。工場は入院している期間が長ければ長い程、金をくれるんだって。治療費とか入院費とか、精神的な苦痛に対するあれこれとか……もし俺が病院で死んだら、もの凄い金が俺の家に転がり込む」
ダニーは布団の中でチクショウ、チクショウと繰り返す。
「お袋はこう言うんだ。『わかってるでしょ、ダニー。お前が一家を支えているのよ。自分の役割を果たしなさい。私達家族を愛しているなら、出来るはずでしょう』って。……あぁ、出来るさ! 俺は何だって出来るさ! でも、シャロン姉貴が言ってた。俺に払われた金で、お袋はニューシンズに家を買ったって。その家に俺の部屋はねぇんだ! 一番下の弟はもう俺を忘れてる! 俺の事を、何とも思っちゃいないんだ!」
血を吐くような怒鳴り声が布団の中で爆発した。
「もうどこも悪くないのに! このままここで暮らすなんて嫌だ! 絶対に、嫌だ! お袋は俺に死んで欲しいんだ! ここで死ねって、そういう事なんだ!」
私は布団の上から彼の体を撫でる。ダニーはうわぁ、うわぁと大声で泣き出した。
また風景が途切れる。サードが部屋の隅で膝を抱えて泣いている。隣にはダニーが彼と同じように膝を抱えて座っていた。
私はカーテンの隙間から2人の様子を見つめていた。ダニーは私が2人を見ているのに気が付くと、声を出さずに唇だけを動かして言った。
『大丈夫。俺が側にいるから』
翌朝、2人は床に寝そべっていびきをかいていた。お互いを守りあうように抱き合って。
また風景が変わる。冷たい風が病室内に流れ込んでいた。カーテンが同じ方向に向かってヒラヒラと揺れ動く。窓の前にカーチャが立っていた。窓は開いていて、そこから風が流れ込んで来ている。
「カーチャ」名前を呼ぶと彼女は振り返った。目が赤く、瞼が泣きはらしたように腫れている。彼女はもう一度窓の方に顔を向けた。私はもう一度名前を呼ぶ。
今度は彼女は振り返らず、窓枠に手をかけた。
「カーチャ、止めて!」
カーチャは少しの間窓の外を見つめ、静かに窓を閉める。私は安心してホッと息を吐いた。
「ピーチェルに帰りたい」
彼女は私に背中を向けたまま言った。
「兄さんに会いたい……1人で死にたくない」
また風景が変わる。今よりもずっとずっと小さなジャックが薔薇の辞典を開いて、幾つかの薔薇の写真にマジックで印を付けている。
「何してるの?」と聞くとジャックは楽しそうに笑って答えた。
「お葬式の時に棺桶に詰めるお花を選んでいるんだ」
この頃のジャックはまだ幼過ぎて「死」がどういう物なのか理解していなかった。
「お医者様が話してるのを聞いたんだ。僕、いつ天国に行ってもおかしくないんだってさ! 生きているのが不思議なんだって!」
嬉しそうにジャックは「天国だよ! 天国!」と笑った。
「マージは知らないでしょ? 人間は死んだら生まれ変われるんだよ。どんな時代のどんな人にだってさ! ダライ・ラマみたいに何度でも! 僕は僕のパパに生まれ変わるんだ! もし僕がパパに生まれ変われたら、絶対に息子の側から離れやしないよ! ずっと側にいて、毎日一緒に遊ぶんだ! それでね、 もしその息子が病気になって倒れてしまったら、病院になんか連れていかないよ。家に置いてずっと側にいるんだ。そうさ。もし僕が僕のパパに生まれ変わった ら、毎日、僕が天国にいくまで言うんだよ。『愛してるよ、ジャック』ってね」
私は彼の隣に座り、彼が印を付けていた薔薇――ジャックに良く似た真っ白いクリスマスローズという品種――を見つめながら言った。
「じゃぁ、私が死んだらあんたのママに生まれ変わってあげるわ。そんでチビッコいあんたを抱きしめて毎日キスしてあげる」
ジャックは薔薇のつぼみが開くように微笑んだ。
また風景が切り替る。今度は病院じゃない。外だ。
目の前に広がるのはどこまでも続く夜の海。海はミルキーウェイと月を映し出している。一体どこからどこまでが海で、どこからどこまでが空なのかわからない。
私は靴を脱いで浅瀬を走る。海水は冷たかったけれど嫌な感じはしなかった。スカートの両端を摘んで持ち上げ、バレリーナにでもなった気分で、飛沫を飛ばしながらピルエットを繰り返す。星の海を歩いているようだった。
「ママ! 今流れ星が落ちたわ!」
私は振り返って叫んだ。振り返った先にママの姿はない。
エンジンがかかったままの車と、ママがさっきまで座っていた椅子はあるのに。
寄せては返す波の音だけが鼓膜に響いた。
「もう会えないわ」背後から誰かの声がした。
振り返ると幽霊みたいに色の白い女の子が、海の中に立っていた。
彼女は私だ。
「もう二度と会えないのよ」
もう1人の私は悲しそうに笑う。
ダーンッと何かが叩き付けられる大きな音と悲鳴、怒鳴り声が頭の中で爆発する。
――大丈夫よ、マージ! 何もかも上手くいくわ!――
ママの叫び声が耳を劈き、今度こそ私は意識を取り戻した。
病室のベッドの上で。
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