第15話 笑う男

 私はペンライトとダニーから借りた北棟のダミーキーを持ち、皆の「生きて帰って来いよー」って声援を背中に受け、病室を後にした。

 暗い廊下を1人進む。

 病室から離れるにつれて廊下は暗さを増し、静かになる。

 光の届かない深海に沈んでいく気分だ。闇の中にはグロテ スクな姿の深海魚や軟体動物がかくれていて、私の体が泳ぎ疲れ、酸素不足になって動きが鈍るのを待っているんじゃないかと思った。

 私は北棟へ向かって歩き続ける。足音が廊下に響いたりしないように靴は脱いであったので足の裏がヒヤッとした。暗闇に浮き上がる自分の足が無気味な生き物の触手のように見えた。あるいはすっかり水藻に覆われた水死体の足みたいにも。

 今まで何度も夜の病院を探検して来たけど、こんなに不安な気持ちになったのは今日が初めてだ。1人で北棟に入るという事実が柄にもなく私を緊張させているのかもしれない。

 やがて私は中央棟へ辿り着く。東棟から中央棟へ続く廊下からそっと顔を覗かせて北棟の廊下を見ると、鉄柵扉の向こう側からこちらへ向ってくる光が見えた。足音も聞こえる。あれは懐中電灯の光だ。見回りの看護婦さんが廊下を歩いて来ているのだろう。

 私は体を東棟の廊下の内側に引込めると、腕時計をペンライトで照らして――光が漏れないように手の平でライトの周囲を覆いながら――時間を確認した。時計の針は間もなく1時15分を指す。1時15分に見回りの看護婦さんは北棟の見回りを終え、西棟へ向かうはずだ。

 金属の触れ合う音が聞こえる。看護婦さんが鉄柵扉の鍵を開けているんだろう。少しして扉が開く音と閉じる音が聞こえて来た。もう一度ガチャガ チャと今度は鍵を閉める音が響き、止まっていた足音が再び響き始める。規則正しい足音が近づいてくる。懐中電灯の光が私のすぐ側まで這ってきて床を闇から照らし出す。だが不意にその光が横に移動し、看護婦さんの足音は西棟の廊下へと向っていった。足音が徐々に小さくなって消えていく。

 もういいだろう。私は体を低くかがめて廊下から足を踏み出そうとした。

 その時だ。私が通って来た廊下をこちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。

 見回りの看護婦さんが後ろから迫っているのかと思ってヒヤッとしたが、足音は看護婦さんのそれよりも軽くてペタペタしていた。子供の足音だ。

 足音が近付いてくる方向にペンライトを向けると、サードが廊下を走ってくる姿が見えた。彼が一歩足を踏み出す度に、鳥の巣状態のこんがらがった赤毛が左右に揺れる。

「サード! どうしたの?」

 私は彼が「女の子1人では行かせられないのね! ボクもいくよ!」って言い出すのではないかと期待したが、すぐにそんな事はありえないと期待を 放り投げた。

 彼にとって北棟に足を踏み入れるという事は、天井から壁、床まで一面ゴキブリで覆われた部屋に裸で入るに等しい拷問だ。無理無理、ありえない、絶対にない。

「聞きたい事があるんだよ。今聞いておかなくちゃって思ったのよぅ」

「聞きたい事って何よ? 今じゃなきゃダメなわけ?」

「ダメだよ! だって、だって、マージ! お星様になっちゃうかもしれないじゃないか!」

「……本人を前にして不吉な事言わないでくれるかな……。で、何なの?」

 私が尋ねると彼は真剣な顔で言った。

「さっきジャックに話していたダイヤの話! あれって本当かな? あのね、ボクもダイヤかな? お父様達はボクを『まともに』したがるんだ。そ れってボクを『切り揃えて』『ピカピカに』にするって事なのかなぁ? ボクも今のままでいいと思う? ボク、このままでいいのかな?」

 私はサードの両頬を掴むと、左右にプニプニと引っ張った。サードが「イタタタタタ」と抗議の声を上げたけど、それはあえて無視した。

「当たり前でしょ。あんたがあの連中が言う『まとも』な男の子になったらどうなると思う? 顔だけじゃなくて性格までロブそっくりになっちゃう。ああいうのは世の中に1人だけでいいのよ。本当、どうしてああいう奴に限って健康でピンピンしてんのかしら、不公平だわ」

「ロブは最初からああじゃなかったよ! 昔は優しくて楽しい子だったよ」

 いつになく強い口調でサードは言う。

「ロブだけじゃないよ! お父様もお母様も、昔は皆優しかったよ! ボクがこんな風に『ゆっくりしてる』って気が付くまでは!」

 私は疑いの目を彼に向けた。

「……嘘だぁ。信じらんないわ」

 あの家族の体内に『愛情』だなんて貴重な鉱石が埋まってるなんてとても思えない。掘り返しても、掘り返しても、出てくるのは『高慢』とか『自己愛』とかいうヘドロだけに思える。

「嘘じゃないんだよ! きっとね、ボクが『まとも』になったら皆、昔みたいに優しくなるよ。ボクが『切り揃えて』『ピカピカ』の『まとも』な子になったら、それでめでたし、めでたしなのかも、だよ。……ボクはきっとボクじゃなくなっちゃうけど」

「待ってよ、サードなんであの人達のためにあんたが自分を『切り揃えて』『ピカピカ』にしなきゃいけないのよ? また北棟に行きたいっていうの?」

「あそこには絶対に、絶対に行かない!」サードは「絶対に」に殊更力を込めて繰り返した。

「でも……元はと言えばボクの『ゆっくり』がいけないんだもの」

 サードの目の奥で深い悲しみが揺れていた。ガラス玉に入った亀裂みたいな悲しみだ。放っておいたらガラスが粉々に砕けるように、彼の心も砕けてしまうんじゃないかと思えて、私は恐怖を覚えた。

 私は彼の亀裂が少しでも塞がるように、自分の頭の中にある辞書をひっくり返して慰めの言葉を探した。何か飛び切り気の利いた、説得力がある言葉を。

 でも頭の中にある図書館をひっくり返して出て来たのは「簡単に結論を出しちゃダメよ、よく考えなきゃ」ってオリジナリティも説得力もないつまらない言葉だけだった。

「そうだねぇ」とサードは頷き「……もう帰るね。北棟、気をつけて行ってきてね」と言って私に背中を向けた。

 引き止める間もなく、彼は再び闇の中 へと消えて行った。

 私は彼の足音が完全に聞こえなくなるまでずっと、彼に何か言葉をかけなくちゃいけないんだと思っていたけど、ついにその言葉は見つから なかった。

 サードの足音が聞こえなくなると、私は気を取り直して北棟連絡通路の前まで歩いた。鉄柵の向こうはインクを零したように黒い空間が広がっている。看護婦さんの姿は見えないし気配もない。見回りの看護婦さんが戻ってくる前に、さっさと入ってしまった方がよさそうだ。

 私は扉の鍵穴に借りたダミーキーを差し込む。慎重にゆっくりと鍵を回すと、カチンと軽い音が微かに響き鍵が開いた。私は静かに扉を開けて北棟の中に足を踏み入れると内側から扉に鍵を掛け、より闇の深い廊下の先へ進み始めた。

 北棟の廊下をこの前に来た時より無気味に感じた。鯨に飲み込まれたピノキオはきっとこんな気分だっただろう。どんなに恐くても絶対に足を止めちゃいけないんだ。立ち止まったらきっと鯨の胃液で溶かされてしまう。ドロドロに、跡形もなく。

 子供じみた想像が私の足を急がせた。急いで、急いで、 マーガレット。見つけ出すの、ホイッスルを、それで、こんな場所とはおさらばするのよ。

 床をペンライトで照らし、私はお婆さんみたいに腰を屈めてホイッスルを探す。

 ダニーに約束はしたものの、本当に見つけられるのか自信がない。ペンライトの灯りは弱過ぎたし、北棟の闇は深く、広過ぎたのだ。

 この廊下を見て回るのにどれだけ時間がかかるだろうか。ペンライトの灯りでは床に這いつくばるようにしないと廊下を照らせなかった。腰が痛む。ダニーから懐中電灯を借りてくればよかった。

 廊下を進む内に自分が真っ直ぐ歩けているのか、どこを歩いているのかがわからなくなって来た。脳味噌が頭蓋骨の中で揺れている。圧倒的な闇に視界を囲まれて、目を開けているのか閉じているのかすら曖昧になって来た。

 壁に手で触れながらじゃないと前に進めない。歩いても歩いても道の先は暗く、聞こえるのは自分の足音と鼓動、唾を飲み込む音だけ。

 ホイッスルはまだ見つからない。せめてどの辺りに落としたのかわかればいいのに。

 20分程過ぎた頃にはパジャマが冷や汗を吸い込んで重さを増していた。油断すると上顎と下顎がカスタネットみたいに触れ合ってカッチカッチと音を出してしまいそうだったので、強く歯を食いしばっている。そのせいで奥歯の感覚がなくなりかけていた。

 微かではあるけど後方から物音が聞こえた。私は振り返る。

 廊下の先、鉄柵扉の向こう側で懐中電灯の灯りが丸く輝いているのが見えた。看護婦さんの足音も聞こえてくる。

 私は体を屈め、じっと看護婦さんの持つ懐中電灯の光を凝視した。幸いな事に看護婦さんはまだ私に気が付いていないみたいだった。足音が出ないように注意しながら、私は暗い廊下を駆け出した。ホイッスルを探すのは一旦中止だ。まずは看護婦さんをまかなければ。

 私はつま先だけで床を蹴り、呼吸を止めて走る。実際効果があったのかどうかはわからないけど、そうすれば足音が小さくなるような気がしたのだ。 真っ直ぐ続いているだけだと思っていた廊下は途中で曲がったり、二手に分かれたりしていた。私は分かれ道が出現する度に右に左に、自分でもどこをどう歩い ているのかわからない程ぐにゃぐにゃに進んだ。

 しかし看護婦さんの足音はどこまでも正確に私に付いて来ていた。彼女が私に気が付いている様子はない。つまり看護婦さんが私の後を追い掛けて来ているのは全くの偶然だったわけだけど、私は彼女には微かな足音でも捉えられるセンサーがついているんだと思った。

 私を追い掛けて来ているのは本当に看護婦さんだろうか?

 そう思った瞬間、闇の中で看護婦さんは死神に姿を変えた。お腹のバツ印の傷痕が痛む。


 ――マァーガレットォ。マァーガレットォー。見つけたぞぉ。お前は『エラー』だ。回収してやるぞぉ。さぁ、さぁ、こっちへ。こっちへ。『エラー』は回収だぁぁぁ――


 うるさいばか! あんたのミスじゃない! もう放っておいて! 

 私は耳を塞ぎ、廊下を走り続けた。やがて廊下の突き当たりに辿り着く。行き止まりではなかった。目の前には暗い暗い、洞窟が見える。下へと続いている真っ暗い階段だ。

「どうしよう」思わず言葉が口を突いて出た。

 一定のリズムで聞こえていた看護婦さんの足音が止まる。

「そこに誰かいるの?」

 止まっていた足音が駆け足で近づいて来た。ここにいたら捕まってしまう。

 いくしかない! 私は12階建てのビルから飛び降りるような気持ちで、思い切って暗闇へ続く階段に足を踏み出した。

 階段の暗さは廊下の比じゃなかった。廊下には非常灯の灯りがあったけど、階段には本当に何の灯りもない。ペンライトを点けたかったけど、看護婦さんに見つかるかもしれない。

 暗闇の中私は手すりにしがみつき足下を確かめながら階段を降りていく。東棟にある階段と違い、この階段は螺旋階段だった。どれくらい降りたのかわからない。

「気のせいかしら?」

 ため息混じりの独り言が廊下から聞こえてきた。看護婦さんの足音が階段の前で止まり、そして遠のいていく。足音は徐々に遠ざかって小さくなった。

 私は階段を降りるのを止めてその場――何段目かわからないけど、階段のステップの上――に腰を下ろした。しばらくここで休んで、看護婦さんの気配が完全に消えてから元の階に戻ろうと思う。

 ホイッスルを見つけないと。まださっきの廊下をちゃんと調べてない。

 瞬間。鼓膜がざわついた。何かの音を捕らえたのだ。私は息を止め、全神経を耳に集中させた。また鼓膜がざわつく。今度はさっきよりもはっきりと聞こえた。

 ホイッスルの音だ! 階段の下の方から鳴り響いて来ている。

 私は立ち上がり再び階段を降り始めた。

 徐々に音色は大きくなってくる。

 どこの誰が吹いているのか知らないけど、あれはダニーのホイッスルの音だ。絶対に返してもらわないと。

 降り続けていく内に視界が明るくなって来た。階段の続く先からオレンジ色の暖かい光が漏れている。光に剥がされた闇の中から浮き上がったのは、 ただの螺旋階段とただの壁とただの手すり。壁にはペンキで地下2階と書かれていた。もう何十階も降りていた気がしていたんだけど、実際はそうでもなかったみたいだ。階段もあと数段で終わり。

 私は怖がっていたのが馬鹿らしくなってトントントンと階段を降りきった。ホイッスルの音が凄く近い。どこから聞こえているんだろう。

 短くて幅の狭い廊下が階段から真っ直ぐ続いている。

 高い天井からオレンジ色の蛍光灯がぶら下がっていて、コンクリートの床や壁を照らしていた。 右側の壁には真っ赤な消防扉があった。火災用ホースが収納されているやつだ。なんでこんな地下にあるんだろう? こんな場所で火事が起きるとは思えないけど。

 左側の壁にはエレベーターの扉があったけれど、開かないようにボルトで固定されていた。ランプも付いていないし、呼び出しボタンも取り外されている。かなり昔から使われていないようだ。

 廊下の奥には両開きの扉が見えた。銀色の金属の扉で丸い窓が2つ付いている。

 窓からは室内灯の光が漏れていた。中に誰かいるのだ。扉にはプレートがはめ込まれていたけれど、何が書いてあるのかはここからだと読み取れなかった。

 私は更に廊下を進んだ。さっきまで恐怖で震えていたのが嘘みたいに私の足取りは軽い。近づいていくと、扉のプレートに刻まれた文字がはっきりと目に入った。


 死体安置所。


 ……だから何? って感じ。全然恐くない。死体はこの世界で一番恐くない物だ。だって絶対に動かないって決まっているんだから。

 私は扉に向かって歩きながら何故あんな所からホイッスルの音が聞こえてくるのか、その理由についてあれこれと考えを巡らせる。

 もしかしたら掃除夫さんが掃除中にホイッスルを見つけてネコババしたのかもしれない。それで今、地下室でピーピー吹いて遊んでいるのかも。

 私の思いつきに『イエス!』と言うみたいに、ピーピーとホイッスルが鳴り響く。ただの偶然だったんだろうけど、私は自分の思いつきが正しいのだと確信した。となればホイッスルをネコババ癖のある掃除夫さんから取り戻さなくては。

 私はそーっと扉を押した。鍵は掛かっておらず、拍子抜けする程簡単に扉は開いた。

 私は音がしないようにゆっくり慎重に扉を開けると、犬のように這いながら死体安置所の中に入り込んだ。緊張すると呼吸が止まるのは何故なんだろう。

 死体安置所の中に無事に侵入し、ほっとして息を吸い込んだ途端、鼻の穴に編み棒を突っ込まれた。その編み棒は鼻の粘膜を貫き、脳味噌に突き刺さる。

 悪臭が死体安置所の中に充満していた。鼻が付け根からもげ落ちてしまいそうだ。眼球も痛くヒリヒリと痛くなる。私はパジャマの袖で目蓋を擦り、空いている手で鼻を摘んだ。口から空気を吸うと今度は喉が焼けるように痛む。この臭いはなんだろう? 私は痛みが引くのを待ってから改めて目を開いた。

 広い部屋だ。ステンレスと石で構成された死体用のリラックスルーム。床には小さな丸いタイルが並んでいる。右手には様々な薬品が入った棚があり、左手の壁はステンレスで覆われていた。ステンレスの壁には縦横30センチ四方の切れ込みが規則正しく列をなして入っている。切れ込みの真ん中にはどれ も金属の取手が付いている。

 ドラマで見た事がある。あれは死体を入れておく冷蔵庫なのだ。あの切れ込み1つ1つが死体をおさめる棚になっている。

 そして正面。正面には年老いた男が1人立っていた。

 私の方を向き、見下ろしている。

 私は鼻や喉の痛みも忘れて悲鳴を上げた。悲鳴は音にならず喉の奥へと吸い込まれ、胃へと落ちた。私の両手は震え、体は大きくよろめく。毛穴が開いて汗が吹き出し、背筋が震える。

 男の髪は水中で揺らめく海藻のように不気味に絡み合い、その細長い顔の上でゆっくりと揺れていた。男の全身は真っ赤な液体――血だ。大量の血 ――にぐっしょりと濡れている。

 血は男の髪の毛の先や、顎、鼻の尖り、指先をつたって床へと垂れ落ちる。男の着ている真っ赤なシャツは血で濡れ、男の体に張り付いていた。手には大きな針みたいな鉄の塊を持っている。それも血だらけだ。

 男は皺だらけの顔を歪めて笑っていた。

 大きな、大きな2つの目。その真っ黒い瞳の中で残酷な歓喜が踊っていた。とうとう目的の物を見つけ出したぞ、という瞳だ。前歯は1本もない。大きく開いた口はハロウィンのジャックランタンを思わせる半月型。

 その口にダニーのホイッスルが銜えられていた。

「こんばんは、お嬢ちゃん」

 先程胃の中に落っこちた悲鳴がせり上がってきて、私の口から吐き出された。

 盛大な悲鳴のリバース。

 私は悲鳴を上げながら扉に向かって逃げ出した。弾丸のように走り出したつもりだったけれど、手にも足にも力が入らず立ち上がる事すら出来なかったので、実際には四つん這いのまま扉に体を向けただけだった。

 背後から男が近づいてくる音が聞こえる。

 逃げなくちゃ。逃げなくちゃ、今すぐに。もう後ろまで来てる。

 私はガタガタと震える体を無理矢理気力だけで動かし、扉に向かって這った。扉と私の距離はほんの数十センチだというのに、その距離は永遠に縮められないような気がした。

「逃げられないぞ」

 男の声が私の右耳のすぐ後ろから聞こえた。男は私の背後にいる。いつだって私を捕まえられる距離に。喉が締め付けられ、胃が痙攣する。死体安置所に弱々しいすすり泣きが響く。視界が涙で歪んだ。

 どうか、どうか、触らないで。私に触らないで。私をここから無事に、無事に逃がして。祈りながら私は扉に向かって這い続けた。ほんの少しでも男から離れたかった。それにここで扉に向かって進むのを止めたら、もう2度と立ち上がれない気がした。

 足音が響く。私の背後から、私の横へ足音は進み、やがて血に濡れた2本の足が私いく手を塞いだ。視線を感じる。男が私を見ている。見下ろしている。

 私は拳を握りしめ、瞼を閉じた。ハッ、ハッ、ハッと走り疲れた犬みたいに呼吸が乱れる。

「……さぁ、行こうか」

 男の手が私の肩に触れた。

 私は反射的に顔を上げる。

 なんて馬鹿な事をしたんだと後悔した時はもう遅かった。

 視界一杯に男の顔が広がっていた。血だらけのまま、笑う男の顔。死神の笑顔。

「悪い子は遠くに連れて行くんだぞ」

 私はもう1度悲鳴を上げ、意識を失った。

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