第13話セリョージャ

 肩甲骨の辺りの血が氷水になったような寒気を感じた。

 闇の中に沈んでいた私の意識は一気に浮上する。

 瞼を上げると夕陽を受けて真っ赤に染まっているお庭が視界に広がった。

 見上げた空は東から西へ向かって、濃紺から赤へ変わる幻想的なグラデーションを描いている。

 どうやら本を読んでいる内についつい眠りこけてしまったらしい。もう夕方だ。

 私は大きく背伸びをして体を伸ばし、視線を隣に向けた。

 ピートは既にいなかった。

 私が眠っている間にお庭から出て行ったのだろう。

 起こしてくれればいいのに。それくらいマナーなんじゃないかしら?

 私は膝の上に広げっ放しになっていた本を閉じてベンチから立ち上がると、駆け足になって建物内に戻った。

 消毒液と床磨きワックスの臭いが鼻先に触れる。

 病院独特の空気。いつもは気にならなかった微かな臭いが文字通り鼻に付く。長い間外の空気を吸っていたからだろう。

 廊下をエレベーターホールに向かって進んでいくと、カーチャが背の高い男の人と話しをしている姿が見えた。

 彼女は私に背中を向けていたから顔は見えなかったけど、あんな金魚のタトゥーだらけの腕をした女の子はこの病院には1人しかいないんだから間違えようがない。

 彼女のハスキーなロシア語が廊下に反響する。 話し相手は時折頷きながら彼女の言葉に頷いていた。

 20代中頃の男の人だ。鼠色のスーツをラフに着こなしている。

 カーチャの知り合いのようだけど、見舞いに来た事はないだろう。見覚えがない。目の下が少し落ち窪み過ぎているのを覗けばかなりのハンサムだった。ハンサムって言うか美形。それも超が付く美形。ウラー。 もし一度でも見舞いに来ていたなら、絶対に忘れないと思う。

 私が2人に近づいていくと、男の人はカーチャに向けていた顔をチラッと私に向けた。彼の灰色の瞳はカーチャのそれにとてもよく似ていた。

 彼はカーチャに向かって何か喋り、彼女の両頬にキスをすると足早にその場を去った。

「もしかしてお邪魔しちゃったのかなー? 今の綺麗な人はだーれ?」

 私はカーチャに声を掛けた。

 彼女は振り返り、私の顔を見るなりアッハッハと笑い出す。

「何? なんか付いてる?」

 彼女は笑いながら窓ガラスを指差す。

 私は窓ガラスに顔を向けてそこに映り込んでいる自分の顔を見た。

 ガラスに映った私の顔には大きく「ねぼすけ」と書かれていた。

 ご丁寧に鏡文字でだ! 私の脳みその中をお庭で出会ったあの変な髪型のマネキン野郎の顔が走り抜けた。

 ……あいつだ! 間違いない!

「信じられない! なんて奴なの!」

 私はハンカチで顔をごしごしと擦った。落ちなかったらどうしようかと思ったけど、文字は案外簡単に落ちた。チョークか何かで書いたみたいだ。

 カーチャは私を見ながらまだ口を抑えて笑っている。

「もう! 笑わないでよ!」

 私は肘で彼女を小突く。

「すまないデス、すまないデス」

 カーチャは目尻に溢れた涙を指で拭いながら頷いた。

 私達は並んでエレベーターに向かって歩き出す。

 廊下を進むに連れて人影が増えて、騒がしくなって来た。

 この頃になってようやく私の鼻は、消毒液の臭いをあまり感じ取らなくなった。嗅覚が順応したんだろう。人間は何にでも慣れるものらしい。

「で、で、さっきのカッコいい人は誰? 彼氏? すごい仲良しそうだったけど?」

 私がそう尋ねると、カーチャは一瞬きょとんとしてから首を横に振った。

「あれはアタクシの兄、セリョージャ。ロシアから会いに来たです。……病室には女の子達がいたから、ちょっと兄は連れていけないですネ」

「あぁ、カーチャ様ファンクラブか。あのお兄さんを連れて行ったら大騒ぎしそうだもんね。お兄さんと何話してたの?」

 カーチャの眉間に細かい皺が寄った。

「セリョージャは大きな仕事があると言いマシタ。アタクシのためになる仕事だト言いマす。だからこれカら長く会えないデシタ」

 彼女は不満げに「アタクシのためを思うなら、仕事なんか止めてもっとお見舞いにくるべきト思ウデス」とぼやいた。

「セリョージャは心配無用と言いますカラ、きっとそうでしょう。セリョージャはいツも本当の事を言います。後の事はヴィーチャ・セルゲェーヴィチに任せてあると言いマした」

「ヴィー……?」

「アタクシの叔父上。ヴィーチャ・セルゲェーヴィチ・プーシュカ」

「ロシア人って名前が長過ぎるわ。それに何故呼び方がコロコロ変わるの? ヴィクトールだったりヴィーチャだったり、エカテリーナだったりカーチャだったり。紛らわしいわ」

「そうデすか? アタクシは覚えやスイと思いまスが――あ」

 カーチャが前を見て小さく声を漏らす。

 私も彼女の視線を追いかけて前を向いた。

 廊下の上で丸まったお尻がこっちを向いて左右に揺れている。

「何してるの、ダニー」

 私は廊下に這いつくばって、首をキョロキョロと動かしているダニーに向かって叫んだ。

 ダニーは私の声に顔を上げると緩慢な動作で床から立ち上がった。疲れ果てた顔をしている。目は赤く充血していてパジャマの膝は黒く汚れていた。

「よぉ」

 彼は力なく手を上げた。手の平も黒く汚れている。

「ちょっと探し物しててよ」

「探し物? 何?」

 彼はとても言いにくそうに「……俺のホイッスル」とボソリと呟いた。

「ホイッスルって、あんたがいつも下げてるやつ? あんたのパパの形見の?」

「病院中探したんだけど見つからなくて……」

 今にも泣き出しそうな顔でダニーは言った。

「ルールブックさんには聞いた? 落とし物預かり所にあるかも」

 ダニーは首を横に振って「なかった」と力なく答える。

「いつ頃なくしたの? 大体の場所とか思い出せない?」

「それは覚えてるけど……でも勘違いかもしれないし……。でも、この間、北棟に行った時まではあったんだ。戻って来たらなかった……だから……」

「北棟に落としたの?」

 私は驚いて叫んだ。

「……いや、わかんねーけど……でもどこにもねーし……多分、うん……北棟かも……」

「じゃぁ、今度北棟に行ってくればいいんじゃない? 鍵はまだ持ってるでしょ?」

「ば、馬鹿野郎! オメーは俺に死ねって言いたいのかよ!」

「何よ、だってそれしか方法ないじゃないの」

「オメーはブギーマンを見てないからそんな無責任な事が」

「あんただって見てないでしょ。見たって思い込んでるだけよ」

 ダニーはぐっと言葉を詰まらせた。

「もういい! オメーなんかに話した俺が馬鹿だったんだ! 白状者! 阿呆! 冷血動物! 冷凍サラダ! レトルトカレー!」

 悪口なんだかよくわからない言葉を吐きながら、今にも泣き出しそうなのを必死で堪えた顔をして、ダニーは大股でズンズンと歩いていく。

「彼はお可哀想デすね」

 カーチャが彼の背中を見つめながら言う。

 ダニーの足取りが徐々に重くなり、背中が小さく丸まっていく。

 彼は廊下の途中で足を止めるとその場に四つん這いになって、ここにはあるはずもな いホイッスルを探し始めた。

 絶対にここにはないってわかってるはずなのに、探さずにはいられないんだろう。何にもない廊下に顔をくっつけて床を這う彼の姿は、トリュフを探す子豚ちゃんのようだ。

 それもトリュフを見つけられなかったら、丸焼きにされてしまう運命の子豚ちゃん。

 ……。

「ダニー」

「なんだよ」

 声が擦れていた。泣いてるのかもしれない。

「病院食のニンジン、あんたがこれからずーっと私の分も食べてくれるって言うなら、明日にでも北棟に行って、ホイッスル探して来てあげるわ」

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