第12話 掃除夫ピート、意地悪を言う
私の足は以前病院から脱走しようとした時に通ったあのお庭に向かっていた。
この私ですらあの時まで存在を知らなかったお庭なのだ。きっと他に知っている人も少ないだろう。つまり、落ち着いて読書が出来るってこと!
お庭に向かって東棟の廊下を歩いたが、途中すれ違う人は1人もいなかった。殆ど人通りがなくてとても静かだ。ブギーマンの事をああだこうだと喋る人もいない。
苛々していた気持ちは静かな廊下を歩いている内に徐々に落ち着いた。
廊下の右側の壁にずらーっと並んだ窓から見える空は青く高い。読書するのにとてもいい天気だ。
「ん?」
私はふと足を止めて窓に顔を近付けた。窓が高い位置にあるので思いきりつま先を伸ばし、窓枠にしがみついて外を覗き込む。何か動く物が見えた気がしたんだけど……。
あ、いた。
お庭のベンチに誰かが座っていた。背中しか見えなかったけど多分男の人。お医者様でも看護士さんでもない。どこか別の病棟の患者さんか、見舞い客かもしれない。でも他の病棟の人や見舞い客がわざわざこんなお庭に来るだろうか?
私は困ってしまった。見知らぬ人――顔は見えないけどきっとそうだ――がいる所では集中して読書出来ない。
「……んー」
私はどうしようか考えながら、お庭に通じる扉に向かって歩き出す。
お庭で本を読むのを諦めて病室のベッドで読むとすると、またブギーマン騒ぎを耳にしなきゃいけなくなる。図書室には短期入院の煩い子達がいる。後門の馬鹿、前門の阿呆だ。
私は考えた末、お庭で読書する事に決めてお庭へ通じる扉を開いた。
お庭の広さは病室と同じくらい。ペンキの禿げたベンチと、手入れが全く行き届いていない雑草だらけの花壇があり、お庭の中央には無気味なガーゴ イルの石像が建っている。芝は殆ど枯れているし、日当たりも悪くてジメッとしていた。良いお庭か悪いお庭かで言えば、最悪のお庭だ。
ベンチに座っていた人物が顔を上げ、私に顔を向けた。予想した通り男の人だ。20代前半にみえたけど、よくわからない。もっと若いかもしれないし、もっと老けているのかもしれない。お爺さんにしか見えない男の子か、男の子にしか見えないお爺さんって感じ。鴉の羽みたいな色の前髪を右目が完全に隠れるまで長く伸ばしている。頬がちょっと痩けていて、顔色も悪かった。患者さんかもしれない。眉毛はあるのかないのかわからないくらい薄くて、瞼は眠たげに垂れ下がっていた。口は小さくてV字の形。唇は申し訳程度の厚みしかない。
全体的にソフトフォーカスがかかったみたいにぼんやりした顔だった。「あともうちょっとで美形なのに残念でした」って感じ。何がもうちょっとなのかはわからないけど。
彼はお面みたいな顔で私を見ている。
「こんにちは」
何にも言わないのも変だと思い、私は彼に挨拶する。
彼はちょっとぎこちなく「こんにちは」と挨拶を返した。随分久しぶりに人と喋るような、変に強張った声だった。ちょっと声が裏返ってる。
「えーっと……そこ、そのベンチ、空いてますか?」
ベンチが空いているのは見ればわかったけど一応聞いてみる。
男の人はベンチの空きスペースをじっと見つめてから、やはり無表情のまま言った。
「目が悪いのかい?」
「? いいえ」急に何だろう。
男の人は首をカクンと右に傾け、視線を宙に彷徨わせた。心ここにあらずって感じ。私はちょっと恐くなる。テレビ画面の中にいる架空の人を相手にしているみたいだ。
「あぁ、そうか」
男の人の真っ黒い瞳が私の方を向く。本当に無表情。人間がここまで無表情になれるとは知らなかった。マネキンみたい。
「なら頭が悪いんだね」
上顎と下顎を留めているネジを一瞬で抜き取られた。スコーンと私は口を開く。口を開いたっていうか、下顎が落ちたって感じ。
「なんですって?」
「ここが空いているって見ればわかるじゃないか。目が悪くないなら、頭が悪いんだろう」
男の人はその無表情な顔によく似合う平坦な声でそう言った。悪意も嘲りも感じられない。ただ本当に心の底から素直な気持ちで、私の頭が悪いと思ったのだろう。
信じられない! なんて奴だ! このマネキン野郎!
「ちょっと聞いてみただけじゃない! 何よ! 失礼な人!」
私が反論した時、マネキン野郎はもう私の方を向いてはおらず、膝の上に広げた本に視線を向けていた。もう私の事なんて眼中にないって感じ!
一体こいつは何様のつもりなんだろう。このマネキン野郎。小さな女の子には親切にするのが礼儀なのに。このマネキン野郎。特に病気の女の子にはね、このマネキン野郎。マネキン野郎が。……マネキン野郎がっ! ヴァァーカ! ヴァァァァーカ!
私は心の中で毒づきながら彼の隣に座る。それから横目でマネキン野郎を睨んだ。
私はそこでマネキン野郎の正体に気が付いた。
マネキン野郎はお医者様でも看護士さんでも見舞い客でも他の棟の患者さんでもない。 掃除夫さんだ。
濃紺色の制服、足下に置かれたプラスチックのバケツと、ベンチの背もたれにかけられたモップ。間違いない。
なるほど。掃除夫さんならこういう穴場スポットを知っていても不思議はない。病院の内部にも詳しいはずだ。
「用がないならそうやってジロジロ見るのは止めてくれないかな。気持ちが悪いよ、君」
マネキン野郎は顔を本に向けたまま急に口を開いた。私は彼が視線に気が付いているとは思っていなかったので、急に横っ面を引っ叩かれたみたいに動揺した。
「ジロジロなんて見てないわよ! 私、本を読むから、もう話しかけないで!」
私は跋の悪さを誤摩化すように怒鳴り、マネキン野郎から視線を外して本を開いた。
問題。
とっても嫌な人と一緒の場所にいなくちゃいけない時、どうすればいいか?
回答。
最初からそんな奴は存在しないって態度でいればいい。大人の対応ってやつだ。
私の視線は本に落ちる前にベンチの正面に立っていたガーゴイルの石像に引っかかった。石像の後ろには高いフェンスが見える。フェンスの向こうは 暗い森が広がっていた。フェンスの上にトゲがついた針金が何重にもなって渦巻いている。この前ここに来た時にはあんな物は付いていなかった。針金はまるで 「もう2度と出さないぞ!」と叫んでいるみたいだ。
あんたなんかその気になれば簡単に乗り越えられるんだからね、と心の中で呟いてから私は膝の上に広げた本に視線を落とす。
最初のページにはブランコに腰掛けて赤ん坊を抱いて微笑んでいる細身の女性と、その肩を抱いている口鬚を生やした男性のカラー写真が印刷されていた。
「最愛の息子ジョンと私と元夫ジェラルド」とキャプションがついている。
女性の顔には見覚えがある気がした。綺麗な人。リスみたいに大きな目をしてる。
次の2ページは目次。各章のタイトルと内容の説明が箇条書きにされて並んでいた。
第1章「初めましてベイビー」……難産の末生まれたわが子、ジョン。
第2章「最初の発作」……2才になったジョンが食事中に吐血。悪夢のような1日。
第3章「検査、検査、また検査」……病気の原因を突き止めるため、検査が繰り返される。
第4章「50億分の1」……ジョンの病気は50億分の1の確率で発病する奇病だった。
第5章「泣かないでジョン」……病気との戦いの記録。私は諦めない。
第6章「遊園地に行こう」……遊園地に行来たがるジョンのため、私はピエロを病室に招待した。
第7章「安らかな眠り」……さようなら。私の愛しいジョン。
第8章「別れ、そして新しい旅立ち」……ジョンを失い、精神的に不安定になった私は過去を振り切るため夫と別れる事を決意する。1人になった私に新しい出会いが。
目次を読んだだけであらすじがわかってしまった。こういうのってどうなんだろう?
私は目次を飛ばして本文を読み始める。
世の中には自分よりもっと悲しい思いをしている人がいるんだって知るのはとても大事だ。他人の不幸を嬉しがってるわけではなく、自分だけが貧乏くじを引いたんだって思って捻くれてしまわないために必要なお祈りなのだ。
おお、いるのかいないのか全然わからない神様。もしもいるとしたらあなたが作ったこの世はクソです。希望も夢もなんにもありません。全部クソです。あなたはご自分のクソをこねて遊ぶすっごい下品な最低野郎です。あなたなんかと絶対友達になってやんないからね、べー。っていうのが私のお祈り。悲しい本は私の聖書。
私みたいにしんどい環境にいる子が捻くれないためには、こうした日々の努力が大事だ。油断したら根性が朝顔の蔓みたいに曲がってしまう。体が不健康な分、心の方は人並み以上に健康でいたいもの。清く、正しく、美しく。輝けマイハート。
私が1ページ目を読み終えるか読み終えないかって時、マネキン野郎が話しかけて来た。
「君は入院している子かい?」
無視しようかと思ったけど、ふと考えが浮かんだので私はマネキン野郎に答えた。
「あなたは目が悪いの?」
「いいや」
私はマネキン野郎に顔を向け、思いっきりニヤァーッと笑ってやった。
「なら、頭が悪いのね! 入院してなきゃ真っ昼間からパジャマなんか着て歩かないわ!」
マネキン野郎は無表情のまま動きを止めた。無表情の仮面の下できっととっても悔しがっているに違いない。へ、へ、ざまーみろ。ざぁまぁみろぉー! バーカ! バーカ! 言ってやったー! 言ってやったわー!
マネキン野郎は「フム」と顎の下に手をあてて私を見た。
「さっきは悪かったね、お嬢さん」
そうそう。そうやって素直に謝ればいいの。ドゲザして私の靴の裏にキスすりゃいいのよ。
「君が悪いのは、頭じゃなくて性格だったんだね」
「なんですって!」
「中々深刻な病状だね。その性格、注射か薬で治るといいけど。ご愁傷様」
「私の性格は健康そのものよ! 私程健康的な性格の女の子はいないわ!」
彼は私の目を覗き込むように見つめ、落ち着き払った声で「またまたご冗談を」と言い放った。なんて奴だ! こんなに人の神経を逆撫でする奴がいるなんて信じられない!
「私は体の病気で入院してるの! ずっと長い間ね!」
「ずっと?」彼は私の言葉を繰り返した。
「君は東棟の子か」
マネキン野郎はググッと顔を私に向けて近づけて来た。怒ってるのか、笑っているのか、彼の中に魂があるのかどうかもわからない顔。妙な威圧感があった。
「ブギーマンを見たって言いふらして回っている子だな。でたらめな噂を広めないでくれ。迷惑だ」
それだけ言うとマネキン野郎は私から顔を離し、再び本に視線を落とす。
「失礼、ミスター――」
私はマネキン野郎の制服に留めてあるネームプレートを見る。金属製のネームプレートにはピーター・エリオットと刻印されていた。
「ミスター・エリオット」
マネキン野郎は視線を本に向けたままだ。私は苛立ちを抑え、もう一度彼の名前を呼んだ。
「ミスター・エリオット!」
やはり返事はない。
「返事くらいしなさいよ! ミスター・ピーター・エリオット!」
ピーターはネームプレートをわざとらしく確認してからやっと私に顔を向けた。
「人の名前を呼ぶ前に自分の名前を名乗ったらどうだい? 礼儀のなってないお嬢さんだね」
「私の名前はマーガレット・アイリス・ブルーム! 皆はマージって呼ぶわ!」
「マーガレット・アイリス・ブルーム? あの、ブルームか? 例の誘拐事件の?」
私は鼻をツンと上に向け刺々しい口調でピーターに言う。
「そうよ、あのブルームよ。8才の誕生日に自分のママに誘拐された女の子よ! 珍しいでしょ? サインしてあげましょうか?」
「いらないよ、そんなの。自己顕示欲の強いお嬢さんだね」
じこけんじよくって何の事かわからなかったけど、馬鹿にされているのは伝わって来た。
「僕の事はピートでいい。よろしく、根性と旋毛がどうしょうもなく曲がったお嬢さん」
そう言うと彼は私の手を勝手にとって軽く握り、上下に振った。一体いつから庭にいたのか、手が随分と冷たかった。
「で、お嬢さん。あのブギーマンの話、君が広めているのならもう止めてくれないか。他の患者の迷惑になってるんだ」
「悪いけどね、ピート。私にはそんな事出来ないわ」
「出来ない?」
「あなた、私がなんでこんな天気のいい日にわざわざこんな『最悪のお庭選手権』と『死体が埋まってそうなお庭選手権』で優勝しそうなお庭にいると思うの?」
ピートは「ふむ」と小さく唸り、ちょっとだけ黙ってから口を開いた。
「君はもしかして『死体が埋まってそうな最悪のお庭がお似合いの最悪な女の子選手権』の優勝者なのかい? ディフェンディングチャンプ? グランドスラム? 大会ベスト?」
「……あなた、本当に、本当に性格悪いわね」もう怒る気もしない。
「私はブギーマンの噂話なんか広めてないわ。他の子達が騒いでるの。その子達だって、自分で見たんだって信じ込んでるだけよ。その内冷静になって収まると思うわ。その時まで我慢するしかないの。それから」
ピートの顔の前で人差し指をピッと立てた。
「私はね、ブギーマンって言葉を聞きたくないの。うんざりしてるんだから!」
フーンとピートは間延びした声を出す。
「それはよかった。僕も同感だよ」気が合うじゃないかと彼は無表情のまま淡々と言った。
こいつと気が合っても全然嬉しくない。気が滅入る。
「掃除夫さん達の間でもブギーマンは噂になってるの?」
「あぁ、そりゃぁもう。僕がこの病院に来たばかりの頃、ブギーマンの噂はもうちょっと控えめなものだったよ。それが今はなんだい? 血だらけだの、牙だの、爪だの、最近の子供はどうも血生臭いものが好きらしい」嘆かわしい、きっと暴力ゲームとアクション映画と親の教育とマクドナルドと後は何らかのバタフライ効果のせいだね、と彼は付け加えた。
「……噂は1人歩きするものよ。私だって家にいた頃は幽霊呼ばわりされたもん」
「幽霊? 君が?」
ピートはジロジロと私を見つめる。
「そいつは幽霊に対して失礼だ。もしここがアメリカなら君を幽霊呼ばわりした連中は残らず幽霊から侮辱罪で訴えられてる。僕が陪審員なら間違いなく有罪にするね。だから心配するな。君はちゃんと幽霊以下だ」ポンッと励ますように肩を叩かれた。
「自信を持っていいぞ。君は幽霊より色々と酷い。僕が保証する」
「……あぁ、そう」
「で、なんで幽霊だなんて言われたんだ?」
私は右肩だけを軽くひょいっと竦めた。
「家にいた頃ね。私いつも2階の部屋の窓から外を見てたの。近所の子供達が遊んでる姿が見えたから。私は外に出られなかったけど、子供達が遊ぶ姿を見るのは好きだったのよ。自分も一緒に遊んでいるみたいな気持ちになれたから……。そしたら変な噂が流れたの。『あそこの家には幽霊が住んでるんだ』っ てさ。……私、こんな感じの顔だからね。子供達には私が幽霊み見えていたんでしょ。だからね、きっとこの病院のブギーマンの話だって、元々は凄くくだらない事だと思うのよ。例えば……」
私は何かいい例え話がないかと周囲を見回し、ピートの足下にあるバケツに目を向ける。
「夜中に病院を掃除してた掃除夫さんを、恐がりの誰かが見間違えただけかも」
ピートはちょっと黙ってから「なるほど」と頷いた。それからもう話をする気がなくなったみたいで再び視線を私から手にしていた本へ戻した。
「何読んでるの? 面白い?」
「恋愛小説だよ。凄く面白い」
こんな性格の悪い男の人も恋愛小説なんて読むんだ。意外な発見。
「へー。なんてタイトルなの?」
彼は本の表紙を私に見えるように掲げた。
「毒キノコ図鑑」
赤と黒のシマシマ柄のキノコ写真がドーンと印刷されている表紙が目に入る。
「とても感動的だ。特にアマゾンドクバラ茸が命と引き換えに胞子を飛ばす所がいい」
……とんでもなく変な人に話しかけちゃったのかもしれない。
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