第11話 目撃談

 私は図書室の扉の前で看護婦さんの到着を今か今かと待っていた。

 図書室の開放は朝10時からだ。今はまだ鍵が掛かっている。新刊案内の手書きポスターや、入院患者が書いた読書感想文が画鋲で留められている図書室の壁の上部に掛けられた時計の針は、間もなく10時を指そうとしていた。

 そろそろ看護婦さんが来てもいい時間だ。

 しばらく扉の前を行ったり来たりしていると、廊下の先に水色のナース服を来た看護婦さんが現れた。図書室の管理をしている看護婦さんだ。

 看護婦さんは私に気が付いて、早歩きになって扉の前までやって来た。私は小さく会釈して「おはよう」と挨拶する。

「おはよう、マージ。今日も一番乗りね」

 彼女は図書室の扉に鍵を差し込む。

「今日は何を読みたいの? 『トム・ソーヤの冒険』? それとも『アンの青春』?」

「それはもう読んだわ。新刊が読みたいの。『この手の中の命』って本よ」

 看護婦さんは扉を開こうとしていた手を止め、何か言いたそうに唇をすぼめた。

「大丈夫、大丈夫。どういう話なのか知ってるわ。最後に病気の子供が死んじゃうのよね。そんなので一々落ち込んだりしないわよ」

 看護婦さんは眉間に寄った皺を揉みながら忌々しげに呟く。

「あの本は入荷したくなかったのよ。ルールブック主任も反対したのに。病院に病気で死ぬ子供の本なんて冗談じゃないわ。でも入荷希望が多く て……」

 看護婦さんは気持ちを切り替えるように短く息を吐き「途中で嫌な気分になったら無理して読まないでね」と言ってから図書室の扉を開けた。

 私は看護婦さんの横を通り抜けて図書室に入っていった。

 室内履きの靴の下で絨毯の毛が柔らかく潰れる。

 床にはサーモンピンクの絨毯が敷き詰められ、天井や壁には銀紙で作った星が幾つも貼り付けられていた。アメリカ製のキャンディみたいに毒々しい色の本棚は、全て私の背と同じくらいの高さしかない。小さな子供でも本を取れるようにって配慮だろう。本棚は四方の壁沿いと、部屋の中央に縦3列の島になって並んでいる。どの本棚にも新しく鍵付きのスライド式ガラス扉が付いていた。

 そういえばルールブックさんが本の盗難が多いから鍵を付けるって言ってたな。

 図書室に入って丁度真正面にある棚の上部には、マジックで大きく「新刊コーナー」と書かれた画用紙が飾られていた。

 私はその棚の前まで歩いてゆき、目当ての本――一番目立つ所に置いてあったので探すまでもなかった――を指差した。

「看護婦さん、これ貸して!」

 看護婦さんが先程図書室の扉を開けた物よりも1回り小さい鍵を持ってこちらに歩いてくる。彼女は本棚の前に屈み、ガラス扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。

「鍵を掛けてからは盗まれなくなったけど、こんなに物がなくなる病院も珍しいわ。新刊本を5冊仕入れたら、必ず1冊はなくなるんだもの」

 鍵を回しながら看護婦さんは愚痴る。

「本だけじゃないのよ。3階のエレベーターホールの写真、ほら、あの妙な噂がある写真! あれだって何回盗まれた事か……」

「あの写真って呪いの写真? 盗まれたって何の事? あれは病院側が飾るのを止めたんでしょう? 皆が怖がるから。夜になると写真の中の男の人が飛び出てくるって聞いたわ」

「あぁ、そんなのナイナイ」看護婦さんは首を横に振る。

「何て事ない普通の写真よ。お医者様と患者さんが写ってるだけ。でもね、その噂がたってからあの写真だけやたら盗まれるようになっちゃったのよ。 何回も何回も現像して飾り直してるらしいんだけど、その度に盗まれちゃうの。だから馬鹿らしくなって飾るのを止めたのよ。多分、その噂を真に受けた患者さんが取っていっちゃってるんでしょうね。全くもう!」

 喋っている内に怒りがこみ上げて来たらしく、看護婦さんの目が三角になった。

 ガラス扉の鍵が開く。看護婦さんは『この手の中の命』を棚から抜き取り、表紙を開いた。表紙の内側に貼られた貸し出し表に私の名前と返却日を書いているのだろう。

「それに他にも色々なくなってる。私も前にリボンをなくしたし、レジャー先生も何かなくしたらしいわ。何をなくしたのか知らないけど随分慌ててた」

 私は素知らぬ態度で「へー、そーなんだー、大変だねー」と笑う。

 リボンは私の宝物箱の中、レジャー先生のX指定のスケベ漫画はカーチャのベッドの下だ。

「はい、どうぞ。返却期間は1週間後よ。遅れないようにね」

 私は看護婦さんから本を受け取る。

「もし何か他にも読みたい本があれば事前予約してとっておけるわよ」

 彼女はそう言いカウンター奥の本棚を指差す。特に人気の高い本は全部あのカウンター奥の棚に入っているのだ。

「ファンタジーは人気があるわよ? 正義の魔法使いが悪いドラゴンを倒す話とか……」

 私は首を横に振る。

「ファンタジーって苦手。魔法使いとか、魔女とか――」

 図書室の扉が開いて体のあちこちに包帯やギブスをつけた男の子達が入って来た。日焼けしてるから一目でわかる。西棟の短期入院患者達だ。なんで東棟にいるんだろう?

「あ、いたいた! きっとあの子だよ!」

 男の子の1人が私を指差して叫んだ。彼らは足早に駆けてきて、私の周りを取り囲む。

「君、東棟の子だろ?」

 私は彼らから目を反らし小さく頷いた。元気な子は嫌い。話しかけないで欲しい。

 彼らは「ほら、やっぱりそうだよ」と頷きあい、期待と羨望に満ちた目を私に向けて来た。なんだか檻に入れられたパンダの気分だ。居心地が悪い。

「君さ……見たんだろう?」

 リーダー格らしき男の子が私に顔を寄せ、囁いた。

「ブギーマンをさ!」

 私は沈黙し完全に固まった。

「皆が噂してるぜ、東棟の子達がブギーマンを見たんだって!」

「身長3メートルもあるんだろ? 背中から羽が生えてて、牙も生えてて、全身血だらけだって聞いたぜ! 血で真っ赤に染まったタキシードを着ているんだ!」

 日焼けした顔を好奇心で輝かせる男の子達を前にして、私は思わず脇腹を抑えた。胃が痛い。これが所謂『ストレスで胃が痛くて……』ってやつなんだな。


 北棟でジャックがブギーマンを見た――と思い込んだ――日の夜。

 私が眠りについた後もジャック達は夜明け近くまで「僕達が見たブギーマンの話」を続けていた。

 目撃談は繰り返し話す度に『こんな事もあった気がする』『きっとそうだ』『そうに違いない!』『間違いない! っていうか見たし!』と誇張されてゆき、私が目を醒す頃には、最初のジャックの話に背びれと尾びれと胸びれとがくっついた『目撃談』に変化してしまっていた。

 しかも面倒な事に、彼らは自分達が誇張しまくったその『目撃談』をすっかり信じ込んでしまっていたのだ。集団催眠っていうんだろうか。なんという馬鹿共だろう。

 これだけでも十二分に馬鹿なのに、彼らは更に輪をかけて馬鹿な事をした。

 病院中の人にその『目撃談』を熱っぽく、時には涙を目に溜めながら力説してまわったのだ。夜中に病院を迂路ついてたなんてバレたら大変だから、廊下から足音が聞こえたから扉を開けて廊下を覗いてみただけ、って事にしてはあったけど。

 彼らが布教してまわった『目撃談』はあっという間に院内感染して爆発的に広がり……。

「で、どうだった? ブギーマンって恐かった? どうだったの?」

 ……こうやって見知らぬ男の子達が聞きに来るくらい、病院内で大流行してしまったって事だ。

 もう最悪。

 バッッカじゃねーの。話す方は馬鹿だし、真に受けるのは阿呆だわ。

「ねぇねぇ、聞いてる?」

 私はしつこく質問を繰り返す男の子達を無視して、看護婦さんに向かって叫んだ。

「魔法使いも魔女もブギーマンもくっだらないわ! いるわけないんだから!」

 吃驚している男の子達をかき分けて、私は図書室から飛び出した。

 この所いつもこんな感じ。

 どこにいても誰と話していてもブギーマン、ブギーマン、ブギーマン! うんざり! もう沢山! ギブアップ!


 ヒステリー発作が起きる直前の脳味噌を泡立て器で掻き回されてるみたいな状態で病室に戻ると、皆がダニーのベッドに集まっていた。

 ダニーとジャックがベッドの上に向かい合って座り、カーチャとサードは私に背中を向ける形でベッドの前に立っている。

「北棟からブギーマンは出られないんだ。夜の探検も北棟にさえ入らなきゃ続けられる」

「でもブギーマンを探すんだから、これからは北棟を中心にした方がいいんじゃない?」

「なんの準備もなしに北棟に入って、掴まっちゃったらどうすんだよ!」

「名前さえわかればいいですが……なんとしてもブギーマンを捕獲すルデす!」

 顳かみの血管が一杯集まっている場所が大きく痙攣した。胃に加えて頭まで痛い。思わず口から長いため息が漏れた。そのため息が聞こえたのか、それとも私の視線を背中で感じ取ったからなのか、ジャックが顔をこちらに向けた。白い目が私の姿を見据え、大きく開かれる。

「マージ! どこ行ってたのさ! こっちにおいでよ!」ジャックが手招きする。

「一緒にブギーマンを捕まえる方法を考えようよ!」

「……いや、私はいいよ」

「い、い、か、ら! は、や、く! は、や、く! カモーン! マージ!」

 ジャックはノラ猫を呼び寄せるみたいに手を叩き、私を呼ぶ。

「ヘーイ、カァモォーン! ヒュー! オォーウィエェーイ! シャケナベイベェー!」

 どこのダメリカ人だよ……もう。あぁ、胃が痛い。

 ジャックはブギーマンを目撃したあの夜から、ずっとこの通りのハイテンション。変なスイッチが入っちゃったらしい。ノンストップ・ジャック・ノンストップ・アゲインだ。

 彼は最初の晩こそブギーマンに怯えていたけど、一晩明けると『いいや! 僕、絶対にブギーマンに会わなくちゃ! 彼に言わなきゃいけない事があるからね!』って言い出して、この有様だ。彼が何をブギーマンに言うつもりなのかは知らない。どうせ病気を治してとか、そういう願いだろう。

 ……私がブギーマンの話を聞くのが嫌な一番の理由はこれだ。

 ジャック達はブギーマンが実在していると信じている。ブギーマンを捕まえて名前を呼びさえすればどんな願いも叶うと信じている。

 わざわざ聞かなくたって彼らの願いはわかる。

 病気を治したいという何よりも切実な願いだ。けれどそれは叶わないのだ。絶対に叶わない。だってブギーマンなんて最初からいないんだから。

 楽しそうにブギーマンの話をする彼らを見る度に、シャボン液を飲み込んだ時みたいな苦々しい味が口の中に広がった。

「私、ちょっと出かけるからさ。また今度ね」

「えー! なんでー? ブギーマン探そうよぉ! マァジィー!」

 私が誘いを断ると、ジャックは『全く理解出来ない!』って顔をしてベッドの柵を叩いた。他の子供達も揃って私にブーイングする。

「なんとでも言えばいいわ。私はあんた達のお馬鹿さん決定会議には参加しないからね!」

 私はダニーの「最近付き合い悪ぃーぞ!」という声を無視して病室から出ると、再びエレベーターに乗り込んだ。もうブギーマンのブの字だって聞きたくないんだ。  

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