第10話真夜中のブギーマン

※差別的な描写を含みます。

 私は首を傾げる。皆がダニーの提案に一斉にざわついた。

「そりゃ……誰だって行ってみたいわよ。でも鍵が掛ってるし」

 うんうんと頷きながらカーチャが続けた。

「入れないノデす。抜け道もないデス。窓も割れなカったでシタよ。頑丈デすよ」

「あー……。割ろうとしたの……?」

 そういえばちょっと前に誰かが外から北棟の窓ガラスにレンガを投げつけたって話題になっていた気がする。

 ……こいつだったのか。

「好奇心ト純粋な探究心の結果デシた!」

「ボクは北棟なんて行かないもん! それに鍵掛かってるもん! 入れないんだもん! 入っちゃいけないんだもん!」

 サードが叫んだ。暗い廊下に彼の声がこだまする。

「馬鹿野郎、うるせぇよ」

 ダニーはシーッと唇の前で人差し指を立てた。

「サードの言う通りだよ。鍵が掛かってるし、北棟には入れないんだ」

 ジャックが残念そうに言うと、ダニーはポケットから何かを取り出して、それを全員に見えるように掲げた。それは窓から差し込む月明かりに照らされて銀色に光る。……鍵だ。

「前に病院を探検した時、掃除夫の休憩所に起きっぱなしになってた鍵をちょっと借りて、型とって作ったんだ。ダミーキーさ」

 言われて見れば彼が持っている鍵は少し不格好で、見るからに手作りって感じだった。

「今夜行かないなら俺はもうこの鍵は誰にも貸さないからな、俺が苦労して作ったんだから! 今回だけは特別に、お前らも北棟に連れて行ってやる! ほら、どーすんだよ」

 ダニーの言葉にサードを除いた全員が手を上げて「行く!」と叫んだ。

「ダメだもん! 北棟はダメだもん!」

 サードがダニーに飛びかかり、彼から鍵を奪おうとする。

「その鍵、捨てなくちゃいけないんだ! 危ないんだ! 北棟は恐い所なんだもん!」

「鎮静しテ、サード」

 カーチャが素早くサードの後ろに回り込み、彼を羽交い締めにしてダニーから引き剥がす。

「絶対に入っちゃダメだよ! 脳味噌が溶ける薬を飲まされるんだよ! 北棟は――」

 なおも叫び続けるサードの首を、カーチャは素早く右に捻った。サードは「キュゥ」という高い声を上げてその場に尻餅を付く。

「! サード! ちょ、大丈夫?」

「問題なイです。少々頭がクラッとしたダケ。さぁ、北棟へ侵入ナのです!」

 カーチャが尻餅を付いたサードをズルズルと壁際へ引き摺っていく。

 素早い動きだった。テレビで見たロシアの特殊部みたい。

「先に病室に戻ってろよ、サード。後で土産話でもしてやるから、な?」

 ダニーは鍵穴にダミーキーを差し込んだ。数回カチャカチャと鍵を動かすと、扉の開く金属音が響いた。

 ダニーが小さく「……やった! 本当に開いたぜ!」と呟く。どうやらダニーも北棟に入るのは初めてみたいだ。はーん。さては1人で行くのが怖かったのね。ははーん。はーん。


 私達はダニーを先頭にして北棟の廊下の奥に向かって進み始めた。

 北棟の廊下は他の病棟と比べてとても広く、壁が柔らかかった。触れてみるとゴムのような弾力が指を跳ね返す。北棟の患者さんの中には体を壁に叩き付けてしまう患者さんもいるらしい。きっとそういう患者さんのために壁を柔らかくしてあるんだろう。

 廊下右手の壁に並んだ扉には全て外側から鍵が掛っている。扉は鉄で出来ていて窓がない物もあった。中から呻き声や泣き声、それに誰かと会話するみたいな声も聞こえてくる。もう真夜中なのに、患者さん達はまだ眠りについていないみたいだ。彼らの出す音は廊下の中で反響して、四方八方から鼓膜や皮膚を刺した。

 ここは他の病棟とは雰囲気が全然違う。見かけだけの違いではなく、もっと根本的で大きな何かの違いだ。なんというか、空気の色が違う。例えば他の病棟の空気の色を白だとすると、北棟は絵の具セットに入っている絵の具チューブを全部押し出して掻き混ぜたみたいな空気の色だ。黒のようだけど、もっと 複雑な色が重なりあっている。

 なんだか息苦しい。北棟に入った時はまだ見ぬ新地への期待と興奮で足取りも軽やかだったけど、奥へ進んでいくうちに私達は言葉少なになり、足取りが重くなっていた。

「どこまでいくつもりですか?」

 怯えた声でカーチャが誰かに聞いた。

「ど、どこって行ける所までだぜ。お、俺は全然怖くねーからよ!」

 カーチャよりもずっと震えた声でダニーが強がってみせる。

 私は私達の間で共通の期待が膨らんでいくのを感じていた。

 私達は皆待っていたのだ。

 誰かが『今夜はこのくらいで引き上げよう』って言い出すのを。

 徐々に前に進む足が鈍くなり、皆の視線はそれぞれの足下に落ちた。前方の、どこまでも続いているようにみえる暗闇に目を向けるのが嫌になっていたのだろう。顔をあげ、前方の暗闇を見て歩いていたのはジャックだけだっただ。

 やがて先頭を歩いていたダニーが立ち止まった。カチッという音がして視界が明るく照らされる。ダニーが懐中電灯を点けたのだ。彼は後ろを向き、とても言いにくそうに口を開いた。

「えっと……もう遅いし、このくらいにして――」

 彼が「帰ろうぜ」と言う直前、静けさを劈く雷鳴のような叫び声が廊下に響き渡った。

 ジャックがダニーの背後の闇を指差し、一点を見つめながら絶叫している。口は顎が外れそうな程に大きく開かれて、目は限界まで見開かれていた。

「逃げて! こっちにくるよ!」

 彼は怒鳴り、元来た道をもの凄い勢いで走り出した。

 何がなんだかわからないまま、私達も彼の後を追い掛ける。ダニーは懐中電灯を点けたまま手を振り回して走ったので、廊下や床、天井を懐中電灯の明かりが無茶苦茶に動き回った。その度に廊下を走る私達の影が伸び縮みして、不気味な怪物のように蠢いた。それが増々私達をパニックに陥れる。私達は何がなんだかわからないまま、ギャーッと悲鳴を上げた。悲鳴は廊下に反響して、不気味な唸り声になって私達を追い掛ける。その声にまた怯え、私達はもう一度 ギャアアアアアアー! と絶叫した。

「どうしたの、ジャック! 何が追い掛けてくるの?」

 私はジャックに追いつくと、彼に向かって聞いた。ジャックは私の方に顔を向け、何かを喋ろうと口を開いたが、直後にパッと姿を消した。一瞬で消え去ったのだ。

「ウ、ウワアアアアアアアアアアア!」

 私は悲鳴を上げてその場で腰を抜かした。全力で走っていたのに急に腰を抜かしたので、私はカーリングの石みたいにお尻で廊下を数メートル滑ってしまう。

「ジャック! ジャック! どこ行っちゃったのジャック!」

 慌ててポケットからペンライトを取り出しジャックが消えた方向を照らすと、床に倒れている彼の姿が闇の中に浮き上がった。急に転んだから消えたように見えたのだろう。

「ジャック! 大丈夫? どうしたの?」

 転んだ時に体を打ち付けたらしく、お腹を抱えてうずくまっている。私は慌てて廊下を駆け戻り、彼を抱き起こした。

「ジャック! マージ! 大丈夫か! 早く来い!」

 廊下の先でダニーの懐中電灯が光ってる。私はジャックを背負うと、その光に向って全力で駆け出した。一度だけ振り返った廊下にはどこまでも広がる闇が鎮座していた。

 暗闇の中で何かが蠢いたような気がしたのは、恐怖心が見せた幻だったのだろうか。


 病室に戻ると私達の帰りを待っていたサードがワァ! と歓声を上げて走って来た。

「よかったぁ! 全然帰ってこないから心配したんだもん!」

 サードは涙と鼻水で濡れた顔を突き出し両手を大きく広げ、私に抱きつこうとした。あれに抱きつかれたら顔中黄色いねばねばした鼻水まみれになる。私は素早く右に避けた。後ろにいたカーチャは左に避ける。一番後ろにいたダニーは避け損ねて、悲鳴を上げた。

「ギャァー! 鼻水が! 鼻水が口に入る! やめろー!」

 私は叫び声を上げるダニーを無視して、ジャックを彼のベッドにまで運んでいった。

 私はまだ小刻みに震えている彼をベッドに降ろし、その青ざめた顔を覗く。

「大丈夫?」

 コクンと彼は頷いた。全力で走ったためか、彼の白いばかりの顔が僅かに赤くなっている。

 私も疲れた。体中が燃えるように熱い。脇腹が痛む。それに吐き気も。脈も乱れてる。私はジャックの隣に乗り上げてベッドに仰向けに転がった。休まないと話も出来ない。

 ジャックも仰向けに転がり、私の腕の上に頭を乗せた。小さな手で私のパジャマを掴む。彼の手はプルプルと震え続けていた。顔は目を大きく見開いたまま固まっている。何かに怯えているようだ。私は彼の頭が私の腕から落ちないように注意して腕を曲げ、彼の頭をゆっくりと撫でた。汗ばんだ白い髪に指先を沈めると、熱を持っている頭皮に触れる。

「大丈夫よ、ジャック。何も心配する事なんてないんだから」

 ジャックを宥めている内にカーチャとサードが私達の側に歩いて来た。ダニーはサードの後ろで鼻水まみれになった顔をウェットティッシュで拭いている。半べそ状態だ。

「一体どうしたんデすカ、ジャック。急に走り出して、驚いたデス」

 ジャックは2人に向って口を開いたけど、彼の口から聞こえるのはカチカチと歯を打つ小刻みな音だけだった。何か喋ろうとしているみたいだったけど、声が出ないようだ。

「ダニー、ジャックに何か温かい飲み物を」

 ダニーは返事をしなかったけど、その足を電気ポッドが置いてある彼の冷蔵庫の方へ向けた。冷蔵庫を開けてごそごそと何かを取り出し始める。

「ジャック、ジャックは……えっと、甘いやつ……アレルギーはない……じゃぁこれかな」

 ダニーの独り言の後で――彼は私達が口にしてはいけないものを全部記憶してた。何とマメマメしい――シナモンとミルクとココアの混ざった香りが漂って来た。

「チャイだ。インドのミルクティーなんだぜ。温まるぞ」

 ダニーがカップを持ってこっちに歩いてくる。私はジャックの肩に手を回し、彼と一緒にベッドから体を起こした。ジャックはダニーからカップを受け取り、チャイの表面から立ち上る湯気をフーッフーッと吹き飛ばしてからゆっくりとそれを飲んだ。

 私は彼がチャイを飲み干し、震えが収まるまで待ってから改めて聞いた。

「一体どうしたの? 何があったの?」

 ジャックはグリンと眼球を回転させ、私を見つめる。そして見つめたままもごもごと唇を動かして何かを喋った。小さ過ぎてよく聞こえない。

「何?」

 彼はもう一度私の顔を見つめ、震える声で言った。

「いた、いたんだ。いるんだ、いて、僕を見たんだ」

 ゴクリとジャックは唾を飲み込んだ。

「おい、ジャック。オメー何言ってんだ? 何を見たってんだよ?」

「僕は見た、見たんだ。確かに。見たんだよ」

 ジャックは擦れた声を絞り出した。

「ブギーマンを!」


 ジャックの言葉に私達は戸惑い、困惑し、何より途方に暮れた。

 空気が重い。

 小さな子供に『サンタクロースはパパじゃないよね?』っ て涙目で訴えられているパパの気分だ。……あぁ、そういえば私も小さい頃パパにそんな事を聞いて困らせたっけなぁ。今更ながらパパに悪い事をしたっていう 後悔の気持ちが沸き上がって来た。

 最初に私がこの病室に移動して来た時、確かに子供達は皆してブギーマンの事を信じていた。けれども、それはもう3年も前の話だ。今では私以外の子供達もブギーマンを本気で信じる程子供じゃない。

 ジャックの前では口には出さなかったけど、皆もうわかっていた。結局私達の部屋にだけ伝わって来たというその本当のブギーマンも、看護婦さん達が話しているブギーマンの話と同じで、誰かが勝手に作り上げたデタラメな話なんだって。ブギー マンなんて最初から存在しないんだって。

 ジャックは私達がこれっぽっちも彼の話を信じちゃいないってわかったらしい。唇を突き出し、空になったカップを振り回しながら大声で叫んだ。

「嘘じゃないよ! はっきりと見たんだから! ブギーマンを!」

「……あのね、ジャック」

 私は彼を刺激しないように出来る限り穏やかな声で語りかけた。

「何かを見間違えたのよ。私は何も見なかったわよ?」

「見間違いなんかじゃない! ねぇ、ダニー! 君は先頭にいたんだからあいつを見たでしょう? 背の高い痩せた男! シルクハットをかぶってて、真っ赤な服を着ていたよ!」

「いや……どうだったかな……えーっと……。俺、足下ばっかり見てたし……」

「兎に角、僕の話を聞いてよ! きっと何か思い当たる事があるはずだよ! ダニーが懐中電灯を付けたその時さ! 前方の暗闇の中に、1人の痩せた男が立っていたのが見えたんだ! 顔はよく見えなかったけど、多分お爺さんだと思う! 真っ赤な、真っ赤な服を着ていたよ! 僕を見て笑ったんだ!」

 ジャックは言葉を撃ち出すマシンガンになったみたいに休みなく、彼の目撃談を喋り始めた。最初から最後まで話し終えると、また最初から繰り返し た。5回も6回も7回も8回もだ。喋るのを止めると死んでしまう病気にでもかかったみたい。誰も彼を止められなかった。ノンストップ。ノンストッ プ・ジャック・ノンストップ。

 ジャックの声が途切れたのは、彼が話し始めてから1時間を過ぎようとしていた頃だ。彼は1時間の内に20回も同じ話を繰り返し喋り続けたのだ。もし彼がダニーにチャイのおかわりを要求しなければ、夜明けまで1人で喋り続けただろう。

 ジャックの話が途切れると、話を聞いていた他の子供達がおずおずと口を開き始めた。

 そういえば自分もブギーマンを見たような気がする! って。


 最初は皆がジャックの話に乗ってあげているんだと思った。

 ジャックのお話に付き合ってブギーマンを見たぞごっこでもしているのかと。

 でも違った。皆はマジだった。

「お、俺も何かいるなーとは感じてたんだぜ! 他の奴は何も見てないかも知れないけど!」

「ア、アタクシだって気が付いてまシタ! 確かに赤い服のモンスターがイタですよ!」

「そういえば皆が北棟に入ってから、誰かが笑う声がこの病室まで聞こえて来たんだよ!」

 彼らは一斉に自分が『目撃した』ブギーマンについて喋り始めた。周波数の違うラジオを一斉に大音量でつけたみたいだ。耳2つじゃとても聞き分けられない。

「ねぇ、ちょっと落ち着いてよ! 私は何にも見てないわ! あんた達もそうでしょう!」

 私は大声で怒鳴ったが、誰も聞いていなかった。

 皆はジャックを中心に円陣を組んでより熱っぽく、より激しく、より大声で喋り続けた。地面にばら撒かれた餌を啄む鳩みたいに、首を前後に落ち着きなく動かして。

「ねぇったら! あんた達!」

「扉に鍵は掛けまシタか?」

「大丈夫、ちゃんと掛けて来たぜ。ここまで追い掛けて来れねぇよ!」

「ねぇってば! 冷静になって! あんた達、そういうのを集団ヒステリーって言うのよ!」

「ブギーマンはアタクシ達の顔を覚えたと思いマスか?」

 また無視された。私は怒りに任せて床を蹴り飛ばす。

「あぁ、そう! 勝手にすればいいわ!」

 私は増々盛り上がっていく彼らを残して、ベッドに飛び乗ると乱暴にカーテンを閉めた。テッシュを耳に詰めて布団を被る。馬鹿馬鹿しいったらない。どうかしてる。付き合ってらんない。もうさっさと眠ってしまおう。

 明日になれば皆もこの大騒ぎに飽きて、少しは冷静になってるだろう。

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