第9話 真夜中のゲーム
消灯時間をとっくに過ぎた深夜の病室に、目覚まし時計のベルが鳴り響く。
ベルの音に続いて4つのベッドから服を着替える布摩れの音が微かに聞こえてきた。
「……目覚ましの音、もうちょっと小さく出来ないの?」
私が誰にと言うわけでもなく言うと、カーテンの向こうから「小さカったら誰も起きなイでス」とカーチャの声が返ってきた。
私はベッドから体を起こし、カーテンを開けた。ダニーが病室の扉を開け、顔だけを廊下に出して周囲に見回りの看護婦さんがいないか観察している。ダニーの後ろにはジャックが、その後ろにはサードが並んでいた。2人とも興奮を隠しきれずにいる。
最初は全然乗り気じゃなかったブギーマンの名前探しは、いざ参加してみると今まで病室の中で遊んだあらゆる遊びとは比べ物にならない程、エキサイティングかつスリリングだった。任天堂やソニーのゲームより何万倍も面白い。
探検には一応ブギーマンの名前を探し出すって目的があったけど、真剣に目的を達成しようと躍起になっている子はジャックしかいなかった。
私を含めた他の子達にとってこの探検は存在するかどうかもわからないブギーマンを探すためというより、誰も入った事がない部屋に入り、珍しい戦利品――何でもいい。ボールペンや看護婦さん達の隠し持ってるキャンディでも――を持ち帰って、自分がいかに度胸があり、俊敏に動き回れるのかを自慢 するための探検だった。
そういう意味でなら今の所この遊びの1位を走っているのはサードだった。ぶっちぎりだ。
3ヶ月程前の探検で、彼はどこからか背中に人間の耳が生えた鼠のホルマリン漬けを持ち帰ってきた。彼はしばらくの間その耳鼠を枕の下に隠していたけれど、あっさりとルールブックさんに見つけられ、もの凄く長いお説教を食らった。当然鼠は没収されたわけだけど、サードがトップにいるのは変わりない。あの鼠以上にインパクトがある戦利品を取って来なければ、増々差を付けられてしまう。
私はパジャマの上からカーディガンを羽織ってベッドから出る。カーチャはすでにサードの隣に並んでいた。私が最後だ。
私がカーチャの隣に並ぶと同時にダニーが振り返り、両手で頭の上に丸を作った。
「2時まで自由行動! 2時5分には3階中央棟に集合! スポーツマンシップを大事に!」
「スポーツマンシップを大事に!」
私達はダニーの言葉を全員で復唱する。開始の合図だ。
ダニーは慎重に扉を開けると、足音がしないように気を付けながら廊下へと出て行った。他の子供達も1人、また1人と暗い廊下へと出てそれぞれ別々の方向へ消えていく。私も彼らに続いて廊下へと飛び出した。
夜の病院はとても静かで暗い。数メートル間隔で壁の下部に付いた非常灯の明かりが廊下を緑色にぼんやりと照らしていたけど、その明かりは廊下の暗さを際立たせるだけだった。伸ばした自分の手さえ見えない。
まずは東西南北全ての病棟が連結している中央棟に向かおうと思い、私は東棟7階――本当は6階なんだけど、不吉な数字だから7階って呼んでる――の病室から中央棟への最短ルートを歩き始めた。
ここから中央棟に辿り着くにはまず階段で見回りの看護婦さんが少ない3階に降り、それからエレベーターホールを通り抜けてずっと真っ直ぐに歩いて行けばいい。この時間帯は特に見回りが少ないから中央棟までは楽に辿り着けるだろう。
私は廊下を小走りに進んで階段に到着すると、3階まで一気に階段を駆け下りた。3階の廊下を中央棟に向かって進むと、前方が徐々に明るくなって来た。エレベーターホールの灯りが廊下を照らしている。エレベーターホールの灯りは消灯時間を過ぎても消えないのだ。
ホールの壁にはモノクロの古い写真達が金色の額に入って、額とお揃いの金色のプレートと一緒に飾られていた。プレートには写真のタイトルと写真が撮られた経緯や、写っている人物を説明する文章が刻まれている。
真夜中に見る古い写真はなんとも言えない不気味さがあった。写真の中の看護婦さんやお医者様、患者達の目がじっとこちらを見つめているんじゃないかって不安な気持ちになる。
右側の壁の一番手に飾られているのは小さな2階建ての木造の建物の写真だ。建物の前には映画の中でしか見た事がないような古い服装の看護婦さんとお医者様達が1列に並んでいる。建物の正面には申し訳程度の小さな門が建っていた。よーく目をこらせばその門柱にホリィヒル病院と刻まれているのが わかっただろう。
これは初代ホリィヒル病院の写真だ。この写真が一番古い。残りの写真は全てこの初代病院が焼け落ちた後で撮られた物だ。
『焼け落ちた初代病院跡地』『医師と看護婦達』『当時の手術風景』などの写真が入った額がホールの左右の壁に規則正しく並ぶ中、1つだけ写真が入っていない空っぽの額があった。右側の壁の丁度真ん中に飾られている額だ。プレートには『医師と当時の患者』と言う文字と患者の症状についての詳細が刻まれていた。
この額の中には昔、呪われた写真が飾られていたのだそうだ。……噂だけど。
その写真には人体実験に使われ、命を落とした患者が写っていたらしい。
写真が飾られていた頃はその患者が夜になると写真から抜け出して、病院の中を歩いている姿が目撃されたりしたのだそうだ。あまりに噂が大きくなったから病院側は『患者さんにストレスを与えてはいけない』って事で呪いの写真を飾らなくなったと聞いている。だから私は一度もこの額に写真が入っている姿を見た事がない。
……そんな不気味な写真見たくもないから別にいいんだけど。
私は足早にエレベーターホールを抜けて廊下を進み続け、中央棟に辿り着いた。中央棟は広い円形の空間になっていて、東西南北の方向にそれぞれの棟に通じる廊下が連結されていた。私が入院している東棟は長期入院患者専用の病棟で、西棟は骨折とか盲腸とかの比較的短期の入院患者の病棟、南棟は妊婦さんとか、その他外来患者さん達用の病棟、そして北棟は心が大怪我をしてしまった患者さん達専用の病棟だ。それも『措置入院』の患者さん達専用なんだそうだ。
『措置入院』っていうのは患者さん本人が自分の意思で入院するんじゃなくて、周りの人達の意思で強制的に入院させる事らしい。
サードも今の部屋に越してくる前は、北棟に『措置入院』させられていた。本人はその時の事は殆ど喋らないけど、今でも北棟の事を喋るだけで不機嫌になるからきっとあまり楽しい場所じゃなかったんだろう。……病院自体、楽しい場所じゃないしね。
そういう事情がある病棟だからか、北棟へ通じる廊下の入り口には鍵付きの鉄柵扉が付いていた。扉にはプラスチックの看板が付いていて、それにはこう書かれている。
『関係者以外のあらゆる出入りを禁じます』
私は西棟へ通じる廊下に向かって歩き始めた。東西南北の4つの病棟の中で私が1番気に入っているのは西棟の探検だ。
西棟には掃除夫さん達の休憩所と更衣室があったから、運が良ければそこで面白い戦利品――ライターとか、消しゴム付きの鉛筆とか――をゲット出来る。この間は休憩所のゴミ箱の中から、お酒を買うとおまけに付いてくる可愛い子犬のキーホルダーを見つけた。今日も何かいい物が見つけられるかもしれな い。
私は期待に胸を高鳴らせながら西棟の廊下を掃除夫さん達の更衣室に向かって歩いた。やがて前方に更衣室と休憩所が見えてくる。ここからは慎重に 進まないといけない。足音を立てたり、くしゃみをしてしまったりしたら夜勤の掃除夫さん達に気付かれてしまう。この時間ならまだ病院内にいるだろう。病院の廊下は音がよく反響するのだ。注意しなくては。ダニーのように掃除夫さんに捕まってルールブックさんの所に引き摺られるのはごめんだ。
私は壁に背中を付け、慎重に廊下を進んだ。休憩室から掃除夫さん達の話し声が漏れ聞こえてくる。休憩室の手前にある更衣室の扉からは何も聞こえてこない。灯りも消えているみたいだ。
……今なら更衣室に入って探索出来るかも。
私は更衣室の扉の前まで歩いてゆき、ドアノブに手を掛けた。音がしないように慎重にドアノブを捻り、扉を押す。……が、扉はピクリとも動かない。ドアノブもいつもの半分くらいしか捻れなかった。……鍵が掛かってる。こんな事は初めてだ。いつも開けっ放しなのに。
「ガキ共め! 必ず取っ捕まえてやるからな!」
急に聞こえた男の人の怒鳴り声に私はその場で思わず反射的に飛び上がった。見つかった! という言葉が脳味噌を埋め尽くし、胃が拳のように固くなる。私は慌てて周囲を見回したけれど、廊下には私以外に誰の姿も見えない。
「まぁまぁ、まだ盗まれたって決まったわけじゃないだろ? 証拠もないのに決めつけるのはどうかと思うぜ。今後は更衣室に鍵を掛ければ済む話じゃないか」
別の声が休憩室の扉から聞こえた。先程の怒鳴り声もここから聞こえたものらしい。見つかったわけじゃなさそうだ。安堵しているとまた怒鳴り声が扉を通り抜けて廊下に響いた。
「いいや、絶対にあのガキ共さ! 前にあの太っちょ小僧をここで捕まえただろう? あの小僧は自分1人で探検していたなんて言ってたが、怪しいね。他のガキ共もあっちこっち病院を歩き回ってんのさ! 図書室の本が消えるのも、きっとあいつらが盗んでやがるのさ!」
私は壁に背中をくっつけて注掃深く掃除夫さん達の会話に耳を傾けた。
「図書室の本はわかんないけど、あんな物を子供が盗むわけないだろ。大体、前の子が盗んだのもチューインガム1枚だったじゃないか。可愛いもんさ。あんな大きな物を盗んだりしないよ。もう1度探してみろよ。あんたの勘違いかもしれないぜ」
「お前まで俺の被害妄想だっていうのか! お前みたいな無責任な大人がガキを甘やかすから、最近の子供はどんどん我が侭になるんだ! いいか? 例えチューンガム1枚だろうと、使い古しのちり紙だろうと、盗みは盗みだ! 口で言ってもわからんのなら2、3発叩いて言う事を聞かせなきゃいかん! シュマイケル大統領の時代は教育がちゃんとしていて――」
怒鳴っている方の声は戦後の教育制度について熱弁を始めた。もう1人の方はうんざりした声で相づちを打ち、殆ど聞き流しているみたいだった。
……今だったらここを走り抜けても気が付かれないだろう。私は体を屈め爪先立ちになると、休憩所の扉の前を走り抜けた。
休憩所を後にしてから、私は西棟をいつもより念入りに探検した。更衣室に入れなかったから、戦利品らしい戦利品を見つけられていない。何か見つけなくては。
私は時に見回りの看護婦さんから逃げ、時にこんな時間まで起きて騒いでいる子供達の病室の前を走り抜けて、西棟の出入り可能な病室や部屋を隅々まで調べた。
しかし結局これといった成果なしのまま、2時を迎えてしまった。今日はもうお開きだ。
がっくりと肩を落とし、私は3階の中央棟に戻り始めた。
私が中央棟に到着した時には、既に私以外の全員が集合していた。
皆はカーチャを取り囲み、彼女の手が握っている物を凝視している。どうやら今回の勝者は彼女のようだ。手に持っているのは何か紙の束みたいだ。
「お疲れー」
私が声をかけると、皆が揃ってこちらに顔を向けた。
「何かいイ物は手に入れマしタですカ?」
「この顔みればわかるでしょ? 何にもよ」
カーチャは不敵に笑い、彼女が持ち帰った戦利品を翳して見せた。どうやら漫画のようだ。拍子には水着姿の女の人がウィンクしている絵が描かれていた。漫画はそう珍しくはない。お見舞いに来た人達が休憩ロビーや待合室にしょっちゅう置き忘れていく。
「開いてみてご覧よ。すっごいんだから! 気持ち悪いんだよ! うぇぇーだよ!」
「ふーん……。まぁ、拝見させて貰おうかしら」
私はジャックに促されるままカーチャから漫画を受け取って、そのページを開いた。
「……すっげぇ! なんだこれ!」
私は自分の目に飛び込んで来た衝撃的な絵を見て、思わず男の子みたいな声を上げた。
漫画には裸の女の人と男の人がベッドで絡まっている絵がドーンと大きく描かれていたのだ。全部見えてた! なんて事! 何もかも丸見えだ! これは大変だ! 大変な事になってるわ! おぉぉぉぉぉ! こんなの許されるの? これ、許されるの? うわぁぁ!
「X指定の漫画でシタ。お酒を買うよりずっと手に入レるの難しいノですヨ」
「どこで見つけたの? うわ! 泡立て器をそんな所に! そんな、絆創膏だけじゃ隠せないわ! 生クリームはそんな事に使っちゃいけないのよ! あぁ! 掃除機が大変な事に!」
私は漫画をパラパラと捲り、その衝撃的な絵を網膜に焼き付けながら彼女に聞いた。
「外科のレジャー先生の部屋です。机の鍵付き引き出しの奥に落ちていたので貰いました」
私はページを捲る手を止め、普段ツンツンと偉そうに看護婦さんや他のお医者さんを顎で使っているレジャー先生を思い浮かべた。あの真面目そうな人がこんな物を……。……いや、そうじゃなくて……。
「……それは落ちてるとは言わないと思うわ」
「おー。ロシアでは落ちてるいいます。カルチャーショックです」
カーチャは明るく言いながら目を反らす。……絶対わかってて盗ってきたな。
「えー、ここで俺から提案があるんだ」
ダニーがコホンと咳払いをする。私達は北棟の扉の前に立っているダニーに目を向けた。
「お前ら、北棟に行ってみたくないか?」
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