第7話 これで全員

 「『汚点』って、つまりあなたの事だよね。ロブ? うん。まさにあなただ。間違いないね」

 私の声を遮ってジャックはロブの横っ面に辛辣な言葉を投げつけた。

 ロブは驚き、笑うのを止める。まるで舞台上の役者が観客席から急に本名で呼びかけられたみたいな表情だ。

 ロブはジャックに目を向けると、怒りを毛穴から噴出させて顔を歪めた。

 おやおや。折角のハンサムな顔が台なしだ。でもこの歪んだ顔の方が彼の性根にはお似合いだろうけど。

「辞書を引いたら名前が乗っているかも知れないよ。『汚点、物に付いた汚れ。不名誉な経歴。あるいはロビン・パウディルの事』とかね! とすると例文はこうかな? 『こんなミスをするなんて、私はロビン・パウディルみたいになってしまった』『彼女にとって不良息子の存在はロビン・パウディルのようなものだった』とかさ! うわぁ! すごいね! まさに君は全人類の恥だよ! 神様もきっと君みたいなのを作ったのを後悔しているに違いないね!」

「そうよね、まさに『汚点』ってのはあんたの事だわ、ロブ」

「『汚点』って言うより『汚物』って感じだけどな」

 ロブは顔を真っ赤にして私達を睨みつける。

「今、僕に言ったのか!」

「あんた馬鹿? この部屋にあんた意外にロビン・パウディルなんて名前の子がいると思うわけ? 馬鹿なの? 阿呆なの? マヌケなの?」

「……この!」

「相手にするな。同レベルになるぞ」サードパパはロビンの肩を掴む。

「けど、お父様!」

「だーれが殺したクックロビン、可愛い可愛いコマドリちゃんよ」

 ダニーがマザー・グースの節を付けて歌い出し、ホイッスルを吹いて拍子を付けた。

「いい年して親父の言いなり、可愛い可愛いコマドリロビン」

 ロブがサードパパの手を振りほどいてベッドに向ってきた。おー。キレてる。キレてる。

「このクソガキ共! 誰に向かって口を利いてると思ってるんだ!」

 ジャックとダニーは両手を持ち上げてボクサー風のファイティングポーズを取った。

 さぁ、間もなく試合が始まろうとしています。ダニー、ジャックの無敵タッグに対するは新人のロブ・パウディル! セコンドには彼のパパがついています。後は開始のゴングを待つのみ! さぁ、一体いつ試合が始まるのか! 緊張はピークに達しつつあります!

「おめーに言ってんだよ、おめーによ! この性悪の下衆野郎! おら、かかって来いよ! おら、どうした腰抜け! さっさとかかって来い! 病人だからって舐めんじゃねーぞ!」

 ダニーの挑発にロブは顔を歪める。

 2人がお互いに腕捲くりをし、いつ殴り掛かろうかタイミングを伺い始めた時、唐突に病室の扉が開いた。

「一体何をしているんですか!」

 扉を開けたのは50代中頃の看護婦さん、ルールブックさんだ。眼鏡を中指の腹で上下に動かし、彼女は今まさに殴り合いを開始しようとしていたダニーとボブを睨み付ける。

 ダニーは素早く構えていた両手を降ろし、『悪い事は何にもしてませんよー』って作り笑いを浮かべる。私とジャックも彼とお揃いの笑顔をルールブックさんに向けた。

「別に何もしてないぜ! ただちょっと、話をしてただけさ」

「……本当ですか、ミスター・ロビン?」

 ロビンはダニーを睨みつけたまま荒々しい口調で「何でもない!」と怒鳴った。

 ルールブックさんはダニーとロブ、それに私とジャックを冷ややかに見つめた後で、視線をサードパパとサードママに向けた。眼鏡の奥にある彼女のオリーブ色の瞳がピントを合わせるカメラのような動きをした。サーチライトから本部へ、サーチライトから本部へ、悪い子を発見した。繰り返す。悪い子を発見 した。

「お見舞いにいらっしゃったんですか、パウディルさん。この騒ぎは一体なんです? 廊下まであなたの叫び声が響いていましたよ。何か問題でも?」

 礼儀正しいけど威圧感を含んだ声でルールブックさんは2人に尋ねた。

 サードパパはルールブックさんの持つ迫力に気圧されたみたいだったけど、サードママは違かった。彼女はヒステリーと不満と日頃溜まっているストレスを思う存分ぶつけられる相手を見つけたぞって顔をした。彼女は思わせぶりな足取りでルールブックさんの前まで歩み出ると、服の袖をまくり上げて右の手首をルールブックさんに見せつけた。

「あの子が私を、母親を噛んだの」

 だから私が怒鳴ったのは当然の事なのよ、わかるでしょ? と言いたいのだ。

 ルールブックさんはピンと薄い眉毛を跳ね上げて彼女の手首を見つめる。

「ミスター・ロバートは興奮状態だったんですか?」

「えぇ、えぇ、そうですわ。まるで狂った犬みたいで手が付けられませんでした! 私はただ着替えを手伝ってあげようとしただけなのに」どこか自慢げにサードママは言う。

 ルールブックさんはカーテンをクルクルと体に巻き付けながら、ルールブックさん達の様子を伺っているサードを一瞥し、厳しい口調で答えた。

「ミセス・パウディル。私は再三お願いしたはずです。まずは彼の自主性を尊重してあげてくださいと。彼が何かを成し遂げようとしたら、例えそれが着替えのような些細な事であろうと彼本人にやらせてあげてください。時間はかかるかも知れませんが自分でやる事が大事なんです」

 サードママは思ったような反応――例えば「全て病院側の責任です。どうか私を犬とお呼び下さいませ。ワンワン」とルールブックさんが泣きながら詫びるとか――を得られなかった事に腹を立てたらしく、目を斜めにして怒鳴った。

「あの子に1人で着替えさせたら日付が変わってしまうわよ! ここに移動してから、あの子は全然良くなってない! 悪化するばっかりだわ! 早くあの子を治して頂戴!」

「治療には時間がかかると、予めご説明申し上げたはずです。それにここに来てから彼は以前よりもずっと元気になりましたよ。乖離状態も少なくなりましたし、自主性が芽生えて来ました」

「良くなっていたらこんな事しないわ! 何か原因があるはずなのよ!」

 彼女は忙しく目を動かしながら周囲を見回した。運が悪い事に私と彼女の視線は空中でかち合ってしまった。途端、彼女は垂直に近くなるまで眉毛をつりあげた。

 緊急警報! 緊急警報! 意地悪ババァの射程距離に入った模様! 繰り返す! 射程距離に入った模様! 総員衝撃に備えよ!

 サードママは沢山の指輪と真っ赤なマニキュアで飾り付けられた指を私に向けて――最後通告! 衝撃に備えよ! ――叫んだ。

「どうしてあんな子と同室なの! いかれた犯罪者の子供なんかと! あの頭のおかしい、いかれた女から生まれた子供が、私の息子に悪影響を与えたんだわ!」

 サードママが発射した散弾銃の弾は見事に私の頭や心臓を撃ち抜いた。血のように赤い怒りが一瞬にして私の内部で爆発する。

「ママの事を悪く言うな! このクソババァ!」

 私は体を許される限り前に傾け、ベルトを揺らしながら叫んだ。ベルトの留め具がぶつかり合う固い音がして、体がベッドの上でバウンドする。

 サードのママは大袈裟に口を手で覆う。手の中で彼女は「まぁ、なんて事、なんて下品な、まぁ、まぁ、なんて事!」とわざとらしく繰り返していた。

「ご覧なさい! なんて凶暴な子なのかしら! 何かしでかす前に北棟に閉じ込めておくべきだわ! えぇ、きっと、何かするわ! そうに決まってる! 母親のようにね!」

「あの母親にしてこの娘だ。遺伝だな。犯罪者の遺伝子だ」

「お前遺伝子の意味わかってんのか? 犯罪者の気質なんて遺伝するわけねぇだろうが! 寝言は寝て言えよ、このクソムシが! ほんっっとうに頭悪い奴だな! いっぺん死ねよ、クズ!」

 ダニーがロビンに向かって先程よりもずっと強い調子で怒鳴った。

「お止めなさい! 皆さん、自分のベッドへ戻りなさい!」

 ルールブックさんが手を叩いたけれど、誰も従わなかった。ルールブックさんがもう一度手を叩こうとした時、サードママの散弾銃が火を吹いた。今度の標的は私『達』だ。

「本当にご立派な病室だわ、ルールブック看護主任!」

 彼女は私達を順番に――私、ダニー、そしてジャックの順――視線で突き刺した。

「犯罪者の娘に、タカリ屋の息子、それに、あれは一体なんなの? あぁ、気持ちが悪い! あの白い目で見つめられると吐き気がするわ! あのロシアマフィアの小娘は今はいないみたいだけどね、私の息子はこんな子供達と一緒にいるべきじゃないわ!」

 彼女の放った銃弾は空中で四散して固いつぶてとなって襲いかかり、私達3人の心臓や脳味噌を床に飛び散らせた。底冷えするような怒りが体を振るわせる。

「ぶっ殺すぞ、このクソババァ!」

 ダニーは叫び、サードママに向かって飛びかかろうとした。寸での所でジャックがダニーの丸いお腹に横から抱きついてそれを阻む。

「殴っちゃダメだ! 殴ったら『負け』だよ! わざと挑発してるんだ!」

 サードママは私達の反応を見て残忍に笑った。自分の言葉が私達を撃ち抜いた――それも急所ばっかり――と確信したのだ。彼女は素早く散弾銃の装填を終え、再び私達にその銃口を向けた。

「全く! 母親の顔が見てみたいわね! 一体どういう育て方をしたらこんな子供になるのかしら! まぁ、ここに母親を連れて来いとも言えないわね。知ってるわよ、あなた達のご立派な母親がどこにいるかね! そこのお嬢ちゃんのママはジェンド刑務所でしょう? あの頭がおかしい連中専用の刑務所! それにそ このおデブちゃんのママは? そう、今頃裁判で脅し取ったお金でバカンスでも楽しんでいるんじゃないかしら? それとも貧乏人用のカジノに入り浸りかし ら? いい気なもんよねぇ。子供1人、病人に仕立て上げればホワイトトラッシュでも一流の大企業からお金を搾り取れるんだもの!」

「ミセス・パウディル! いい加減になさってください!」

 ルールブックさんがサードママの腕を掴み、扉の方へ引っ張っていこうとした。けれど彼女はそれを振り払い、更に言葉を続ける。連続射撃だ。弾がなくなるまで射ち続ける。銃身に彫られた言葉に従って。殺して、殺して、殺しまくれ。

「でもあなた達はまだマシよね! だってまだ家族と連絡がつくんだもの! そこの白い子は哀れね! 一体あなたのご両親はどこにいるのかしら? たったの 一度もお見舞いにいらっしゃらないなんて! よっぽどあなたの事が嫌いなのね! その姿じゃ無理もないけど!」

「いい加減になさい、ミセス・パウディル! あなたには恥というものがないのですか!」

 ルールブックさんの顔に激しい怒りが浮かんだ。理性的だった声にも反論を許さない響きが込められる。サードママは怒鳴り声に一瞬怯んだが、すぐに怒鳴り返した。

「たかが看護婦が偉そうに! 私を誰だと思っているの!」

「さっさとその汚らしい口を閉じて出ていきなさい! これ以上子供達に汚物を吐きかけるのは許しませんよ!」

「うちの子が凶暴なモンスターになったのよ! なにもかもこの子供達のせいだわ!」

「薬の量を増やせばいい。薬を増やせばまた大人しくなる。それだけの話だ!」

 サードのパパが高圧的な口調で続けた。

「そもそも彼には必要のない薬だと言ったでしょう! おわかりにならないんですか!」

「あなたじゃ話にならない! 院長先生に直接お話させて頂きます! あなたの無礼な態度も報告させて頂きますからね! ここの院長先生とは仲良くさせて頂いていますのよ! あなたのお給料も私達の寄付から出ている事を忘れない事ね!」

 サードのママが喚く中、病室の扉が控えめな音を立てて開き、60才くらいのお爺さんが病室に入って来た。この病室の4人目の入院患者、エカテリーナ・ミハイロヴナ・モロゾフの叔父さんだ。長く伸びた灰色の髪がトレンチコートの肩で揺れている。がっしりした顎に無精髭。手の甲と10本の指には金魚のタトゥーがある。

 おじさんの斜め後ろにエカテリーナことカーチャも立っている。この騒ぎを見て驚いたようで、下睫毛が濃い垂れ目を丸くして何度も瞬きをしていた。栗毛色の髪を軍人風に短く刈り込んでいたから遠くから見ると男の子みたいだ。飾り気も色気もない黒いタンクトップとジャージを着ていたから余計にそう見える。

 彼女はルールブックさんに食いついて喚いているサードのママと、怒りで真っ赤になっている私達の顔を見て大体何があったかを察したらしく、面倒臭そうに頭を掻いた。彼女が腕を動かす度に、両肩から肘にかけて彫り込まれた金魚のタトゥーが泳ぐように体を揺らした。

「ヴィーチャ」

 カーチャはおじさんに声をかけ、視線でサードのママ達を指した。なんとかしろ、って言いたいんだろう。おじさんは面倒くさそうに顔を歪め、生え際の後退しているおでこを撫でてから、サードパパに向かって歩き出した。

「おいおい。ここは病院だぞ。動物園の猿みたいに喚いて恥ずかしいと思わんのかね」

 おじさんの顔を見るなり、サードパパは青ざめる。蛇に睨まれた蛙状態だ。

「いやぁ、旦那。この間はどうも世話になったね。うちのボスが、つまり、俺の上司……そうエリアマネージャーが、あんたにお礼を言ってたよ。今後もいい取引が出来るといいな」

 サードパパは精一杯胸を張り――全然怖がってなんかないって威厳を保とうとしていたみたいだけど、お生憎様大失敗――おじさんに「それはどうも」と言った。

「うちの姪御とそちらの息子さんが同じ病室になったのも何かの縁だ。旦那の会社とうちの会社と同じ。持ちつ持たれつってやつさ。お互い譲り合って上手くやっていこうじゃないか。なぁ? それが大人としての常識ってやつだろう?」

「何よ、マフィア風情が私達に命令するつもり――」

「もういい、いくぞ」

 サードパパはおじさんにまで食って掛かろうとしたサードママの腕を引っぱり、足早に病室から出ていく。ロブも憎らしげに私達の方を一瞥してから、彼らに続いて病室を後にした。

「……全く、どうしょうもない連中だな。今時あんな絵に書いたブルジョア気取りも珍しい」

 おじさんが閉じた扉を見つめながらため息を吐く。

「大丈夫ですカ? 皆の衆」

 私は「大丈夫よ」と返事をしてから、改めて彼女の姿を上から下まで多少不躾なくらいジロジロと観察した。

 頬と首にキスマーク。タンクトップの首周りが伸びていて、顔には深い疲労の色が滲んでいる。私は彼女に何が起きたのか大体の事を察して苦笑した。

「また追い掛けられてたの? あんたの熱ーいファンに」

 カーチャは頷く変わりに「あぁぁぁぁ」という唸り声だかため息なんだかわからない音を唇から漏らし、がっくりと肩を落とす。がっちりした肩幅に程よく筋肉がついた腕、それに美人というよりハンサムという言葉が相応しい顔。

 彼女はそりゃーもうとってもモテたのだ。女の子に。

 カーチャの入院生活の4分の1はクレイジーな少女達から逃げ回る事に費やされている。

「おはようございます、ミスター・プーシュカ。今日はお見舞いですか」

 ルールブックさんが垂れ落ちた髪の毛を耳にかけながらおじさんに声を掛けた。

 忽ちおじさんの背中は一直線に伸び、鋭くつり上がっていた目尻が蜂蜜のよう に垂れ落ちる。さっきサードのパパに向けていたのとはまるで違う輝く笑顔をおじさんはルールブックさんに向けた。

 ……なんてわかりやすいんだろう。

「どうか、どうか、どうかヴィーチャと呼んでくれ! いやぁ、今日も相変わらずお美しい! 今日はいい天気だし、折角だからデートでもしませんか? 僕、美味しいウクライナ料理の店を知ってるんですよ」

「ミスター・プーシュカ。先程はどうもありがとう。助かりました」

 ルールブックさんはピクリとも表情を変えずに言うと、私達のベッドに顔を向けた。

「あの人達の言う事は気にする必要がありませんからね」

「あんなボケババァの言う事なんか全然気にならないぜ! なぁ、そうだろ?」

 ダニーの声に私達は頷いた。

「それは結構」

 ルールブックさんは軽く頷いてから、みの虫みたいにカーテンに包まっているサードに顔を向ける。

「ミスター・ロバート。あなたもです。あなたのご両親は少しばかり興奮していただけ。酔っぱらっているようなものです。ご両親が何を言おうと本気にしないで」

「……パパとママはいつ酔っぱらいじゃなくなるの?」サードが囁くような声で聞く。

「少し時間がかかるかもしれませんね。でも酔いはいずれ必ず醒めるものですよ」

 おじさんは軽く咳払いをしてルールブックさんの視線を自分の方へ向けさせる。

「困った事があったら呼んでくれ。助けになるよ!」

「ご心配いりません、ミスター・プーシュカ」

 ルールブックさんの態度は相変わらず冷たい。冷たいというか、スルーだ。完全にスルー。

 おじさんはルールブックさんの背中に向ってフーと小さくため息を吐いた。彼はルールブックさんにほんの少しの好意と興味を示してもらう為にかなりの努力をしていたけど、未だその努力が実る気配はなかった。ご愁傷様、お気の毒。

「今後もサードのご両親が病室にいらっしゃったら、ナースコールで私を呼んでくださいね」

 ルールブックさんの言葉に私達は素直に「ハーイ」と返事をした。ルールブックさんは満足げに微笑んでから、何かを思い出したように両手を胸の前で叩いた。

「そうだ、また図書室から本が消えたそうです。タイトルは『18世紀の宮廷料理レシピ』です。もし誰かが読んでいたら、図書室に返すように伝えてくださいね」

「消えたって、また盗まれたの?」

 私は驚いて聞き返した。図書室の本は新刊が入る度に盗まれ、消えているのだ。

「えぇ。どうやら盗癖のある妖精さんがどこかにいるようですね。でも今後は図書室の本棚にも鍵を掛けますからね。妖精さんももう出なくなるでしょう。……それでは、もし見つけたらお願いしますね」

 私達がまばらに返事をすると、ルールブックさんは今度こそ踵を返し、開きっ放しだった扉に向って歩き出した。

 私はぼんやりとその背中を見送っていたが、体にベルトが巻き付いたままなのを思い出し、慌てて彼女を呼び止めた。ルールブックさんは振り返り、首を傾げる。

「これ、ベルト。外してよ。これじゃ何にも出来ないわ」

 ルールブックさんは「あぁ、そうですね」と微笑んだ。私は彼女がベッドに歩み寄り、拘束を解いてくれると思ったけれど、ルールブックさんはその場から一歩も動こうとしなかった。

「あの……外して欲しいんだけど」

 ルールブックさんは無言のまま微笑む。嫌な予感が冷や汗となって背中を流れ落ちた。

「……外してくれないの?」

「勿論です」ニコッとルールブックさんは笑った。

「24時間ずっと? 食事は?」

「私が食べさせに来ますよ」

 私は少しの間沈黙した。ルールブックさんは相変わらずニコニコと私を見ている。

「……トイレはどうすればいいの?」

「どうすればいいのって……」

 ルールブックさんは笑うのを止め、真顔で私を見下ろした。

「紙オムツって、素敵な発明品だと思いませんか、ミス・マーガレット?」

 私は絶句し、顎が外れる程大きく口を開いた。何度か金魚みたいにパクパク口を開閉させてから、私はやっと声を絞り出す。

「じょ……」

「じょ?」

「……冗談でしょ?」

「私が冗談を言っているように見えます?」

 ルールブックさんは眼鏡をクイッと持ち上げる。……いいえ、とっても真顔です。

「病院から2度と逃げ出さないって誓うまで、ずっとオムツです。深く反省なさい」

 ルールブックさんは私に背中を向け、颯爽と扉の方へ歩き出した。

「ちょっと待って! 嫌よ! オムツなんて絶対嫌!」

 力の限り私は叫んだ。

「私はもう11才よ! レディよ! 赤ちゃんじゃないわ! 待ってよ! お願いだから!」

 ルールブックさんは足を止めて振り返った。私は彼女が考えを変えてくれたのだろうと思い、安堵の笑みを浮かべた。だが、それもルールブックさんが再び口を開くまでの事だ。

「あんまり我が侭を言うとブギーマンに攫われてしまいますよ」

「……ブ! そんな子供騙しで誤摩化さないでよ! お願い! ベルト外して!」

 ルールブックさんは今度こそ一度も振り返らず、さっさと病室から出て行ってしまった。徐々に遠のく足音に向かって、私は渾身の力を込めて絶叫した。

「2度と逃げ出しませんー! 誓うー! 誓いますっ! 戻ってきてーっ!」


 ルールブックさんは「いけませんね、そんなに大声を出しては。ミス・マーガレット。ほんの冗談ですよ。もちろん、あなたは立派ならレディです。立派ならレディにこの私がそんな酷いことをするわけがないでしょう」と言いながら戻ってきてくれたけど、絶対嘘。目が笑ってなかった。

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