第6話 いつもの朝
両手足、胴体、それに首を拘束ベルトで巻かれ、ベッドに繋がれた状態で私は目を醒した。
頭の芯が熱い。夢から醒める直前か、夢に落ちる直前みたいに意識がはっきりとしなかった。
ここ、どこだっけ? あれ?
バレリーナのモビールが天井からぶら下がっている。あれは私のモビールだ。
って事はここは病室の私のベッドだ。……なんでここに戻って来ているんだろう?
私は途中で千切れたりしないように慎重に記憶の糸を手繰り寄せる。
昨夜。
私は病室を抜け出して1階の出入り口に向かった。当然と言えば当然だけど、出入り口は内側から鍵が掛かっていて、格子型のシャッターが降りていた。
窓を開けて外に出ようかとも思ったけど、就寝時間を過ぎてから窓を開けると警報ブザーが病院中に鳴り響くって噂を聞いたことがあったからやめておいた。
私は外に出られる扉はないかと1階を探索し、外へ通じる非常扉――幸運な事に鍵は開いていた――を見つけたのだ。
非常扉を開けると小さなお庭に出た。私はもう6年も入院生活を送っていたけど、こんな所にお庭があるなんて知らなかった。非常扉を開けようと思った事なんてなかったし、1階の窓は高い位置にあったから、私の身長では背伸びをしないと外が見られなかったからだ。
お庭は激しい雨に連打されてびしょ濡れになっており、レンガで仕切られただけの小さな花壇はすっかり水没していた。お庭を囲む背の高いフェンス越しに森が見える。あの森を抜ければ国道に出られるはずだった。
私はパジャマが水に濡れないように裾を太ももの辺りまで捲り上げると、つま先で水を跳ね散らしながら一気にお庭を突っ切り、フェンスの元に辿り着いた。フェンスに足をかけるとそれをよじ上って越え、反対側に下りた。横殴りに吹き付けて来た風が森を揺らし、ピーッと汽笛のような音を上げていたのを覚えている。私は一瞬自分がしているのはとんでもない間違いなんじゃないかと怖じ気づいたけれど、覚悟を決めて森に向かって一直線に走り出した。決して振り返らずに。
――それから……そうだ。
森まであと一歩って所で、私の心臓が肋骨の中で爆発したんだ。
激痛の後で目の前が真っ暗になって……それからの記憶がない。
多分、突然発作が起きて気絶したんだ。あとちょっとだったのに。
心臓の鼓動に合わせてピコピコした電子音が聞こえて来た。
目だけを動かしてその音の方を見ると、いつもは花瓶が置いてある金属製の棚の上に心電モニターが置いてあるのが見えた。黒いモニター画面の中で緑色の線が音に合わせて動き、尖った山脈を描いている。棚の上から2段めには花瓶と小さな鏡が並んで置いてあった。鏡にはいつもハンカチをかけていたのだけれど、 今はハンカチが外れてしまっている。お医者様か看護婦さんがモニターを置いた時に外してしまったのかもしれない。
その鏡にはベッドに拘束された見るからに不健康そうな少女が映っていた。まるで死人か、死人見習いか、死人希望者か、死人予備軍みたいな顔だ。私が自嘲気味に笑うと鏡の中の少女も同じように笑った。笑うと増々不健康で、不気味で、不細工に見える。これは酷い。
私は笑うのを止めて鏡の中にいる自分の姿を観察する。こうして自分の顔を見るのは随分久しぶりだ。滅入るだけだから出来るだけ鏡は見ないようにして来たのだ。
背中まで伸びた金髪は生え際から耳までは真っ直ぐに伸び、毛先に進むに従ってパーマをあてたみたいな癖がついている。皮膚は病的な白さを余裕で通り越した死人色。紫や青色の血管が透けて見える。目の周りは小さい頃から続いている慢性的な睡眠不足のせいで黒く変色していた。パンクバンドのメイクか、パンダみたいだ。ママ譲りのつり上がった大きな目と明るい緑色の瞳は気に入っていたけれど、その瞳も今は充血で真っ赤になっていて、笑えるくらい魅力がない。夜中に鏡をみたら幽霊が出たと思って寝込んでしまうだろうな。我ながら、本当に気持ち悪い顔。
甲高いピューピピピーッ! という音がカーテンの向こうから響いて来た。
「マージ、起きたの? カーテン開けるよ!」
返事をするより先にカーテンが開き、外からの光がベッドを照らした。目が眩む。目を細め開いたカーテンに顔を向けるとぼんやりとだがジャックと、ダニーらしき人影が並んでいるのが見えた。
「ダニー! ホイッスル吹くの止めてよ! 頭おかしくなりそう!」
「おめーがいつまでも寝てっから、目ぇ醒させてやろうと思っただけじゃねーか」
ダニエル・スピアーズは不服そうに言うと、やっとホイッスルを吹くのを止めた。何度か瞬きを繰り返す内に私の目は光りに慣れ、金色のホイッスルを銜えて立っているダニーの姿を確認した。病人にしては血色の良いピンク色の肌に生えた産毛と、生意気な事に私よりも綺麗な金髪が窓から差し込む日差しを受けて黄金のように輝いている。
「それにお前の頭はそれ以上おかしくなんねーから心配すんなや。1人で病院から脱走するなんて、お前って本当に救いようがねーな! 幼稚園児だって無謀だってわかるぜ、間抜けめ!」
彼は上向きに付いた丸い鼻をフフンと鳴らし、ソバカスの散った頬を持ち上げて笑った。スプーンでくり抜いたような大きな目が僅かに細くなる。あれに似てる。『ゴーストバスターズ』のマシュマロマン。
ダニーは私のベッドの真ん中辺りで腰を屈めると、下部に取り付けてあるレバーを回し始めた。レバーが回転するごとにベッドの上半分が角度を付けて持ち上がっていく。
「見回りの看護婦さんがね、森に入っていくマージを見つけて大慌てで追い掛けたんだって」
ジャックは私の前まで歩いてきてそう告げた。
「ヤバかったんだぜ。ちょっとでも発見が遅れてたら、お前くたばってたってよ」
ダニーの言葉にジャックは頷き、人差し指を天井に向けて立てた。
「そうだよ、天国に行っちゃうとこだったんだから。もうやっちゃだめだよ」
ジャックは白い瞳で私を睨む。白目も瞳も両方とも真っ白なので同化して見えるけど、注意してみると瞳の色と白目の色は異なっているのがわかる。白目の部分は少し灰色っぽくて、瞳は少しだけ青っぽい白なのだ。
「私は天国なんかに行かないわ。そんなのないんだもん。人間は死んだらそれっきりよ」
「安心しろよ、仮に神様がいたとしてもお前は天国には行けねーからよ。地獄だ、地獄行き」
「うっさいな。どーだっていいでしょ」
私はダニーに向かってベーッと舌を出した。
「魔女は信じるのに天国は信じないの?」ジャックは首を傾げた。
「……だって魔女は実在するもの。あの女よ。得意料理は毒林檎ザマスって感じじゃない?」
「あーぁ。酷いんだ。そんなに悪そうな人じゃないじゃない」
彼は指先を唇にあてて小刻みに笑った。柔らかそうな睫毛で囲まれた目が細くなる。
ベッドの上半分が丁度いい角度まで立ち上がった所で、ダニーはレバーを回す手を止めた。
「おい、間抜け。腹減ってるか? 喉は乾いてる? 欲しい物があるなら看護婦に頼んで貰って来てやるよ。答えろ、トンマ」
工場の爆破事故に巻き込まれて健康な肺を失い、ここに入院して来る前まではクラップス賭博中毒のママと5人の幼い弟達、それから痴ホウが進んだお爺さんの世話をしていたダニーは病室の中で1番口が悪くて、1番面倒見がいい男の子だ。長男気質っていうのかしら?
「大丈夫よ、お気遣いなく。それよりこのベルト、外してくれない? 動けないのよ」
「あー……それは無理。外すなって言われてっから。ルールブックさんに」
……。
「……ルールブックさんが?」
「そ、ルールブックさんが」
……。
「……最悪」
ルールブックさんはそのふざけた名前の通り『私がルールブックだ!』を地でいく小児科担当の看護婦さんだ。
彼女は私達よりも私達の体を知り尽くしている。私が知る限り彼女の判断に間違いは1度もない。彼女が「はしゃいでいると熱が出ますよ」と言えば本当に熱が出たし、「厚着をして寝なさい。寝冷えしますよ」と言えば本当に寝冷えした。彼女が「ダメ」と言うならそれは本当に「ダメ」なのだ。薄い銀フレームの眼鏡をサーチライトのようにピカピカと光らせるお婆さん看護婦を思い、私はため息を吐いた。
「ボブ! あんたって子はどうしてそんな簡単な事も出来ないの!」
ヒステリックな怒鳴り声が病室に響いた。まるで禁猟期間中の静かな森に響き渡る狩猟用散弾銃――殺して、殺して、殺しまくれと銃身に彫り込んであるようなやつ――の銃声だ。
「あぁっ! もう! なんてのろまなの! もう何もしなくていいわ! どうせボタンの1つも自分で留められやしないんだから! 貸しなさい! 私が着せてあげるから!」
斜め向いのサードのベッドから再び銃声が響く。ベッドはカーテンで囲まれていたから中の様子はわからないけど、何が起きたのか私達にはわかっていた。
ロバート・パウディル・サードのママによるこのような散弾銃乱射事件は、彼女がお見舞いにくる度に起きる恒例行事だ。
ダニーはゴキブリでも噛み潰したような顔を私とジャックに向けた。
私は声を出さずに唇だけを動かして「あのおばさん、サイテー」と言った。ジャックがうんうんと頷く。
「ダニー、とりあえずナースコール押しておいて」
「オッケー」
ダニーは私のベッドに付いているナースコールのボタンを押した。ルールブックさんならすぐに病室に来てくれるだろう。
「カーチャは? あの子とおじさんがいればあの人達もすぐに黙ると思うんだけど」
「今は2人ともロビーに。取りあえずルールブックさんを待とうぜ。あのおばさんがあんまり酷い事を言うなら、俺とジャックで止めるから」
私達はいつものようにサードママの金切り声の銃声が何発も何発も何発も繰り返し鳴り響くのを覚悟した。しかし次の瞬間カーテンの中から響いて来たのは金切り声の銃声ではなく、錆びた金属を思い切り擦りあわせたような甲高い悲鳴だった。
カーテンが開き、鼠色の品のいいスーツを着込んで生来の下劣さを隠したサードママが飛び出して来た。右手首を左手で強く抑えている。
「噛、ん、だ、わ! こ、の、子!」
サードママに続いてカーテンから出て来たサードパパが彼女の肩を抱き、その右手首を見つめる。
「なーんかどっかで見た光景じゃねぇ?」とダニーが私を見る。私は汚い言葉がジャックに聞こえないように小声で「クソ女は噛んでいいって決まってんの」と答えた。
「ボブ、お母様に謝りなさい!」
「いやだもん!」
反対側のカーテンが開き、背の高い赤毛の男の子──サードが飛び出してきた。
パジャマの上着のボタンは1つしか留っていなくて、ズボンはパンツが見えるくら いまでずり落ちていた。髪はたった1度だって櫛で梳いた事がないって言うみたいに爆発している。まぁ、それはいつもの事なんだけど。まるでコメディ映画でダイナマイトの爆破に巻き込まれた人みたいな有様だ。光の加減でオレンジ色や赤にも見える茶色い瞳が警戒心と敵意を剥き出しにして、サードママとサードパパを睨んでいる。細い顎の上で少し捲れた上唇と薄過ぎる下唇がきつく結ばれていた。まるで手酷く虐められた猫みたい。
「ボク、お着替え出来るもん! お利口さんだもん! 馬鹿じゃないもん!」
「14才にもなって、まともに着替えも出来ない奴がお利口だって?」
サードと同じ燃えるような赤毛をオールバックにした男の子がカーテンから出て来た。サードの双児の弟、ロブだ。似ているのは顔だけで中身は似ても似つかない。ダニー曰く『厳選した16種類のスパイスを擦り込み、3日3晩冷蔵庫で寝かせてからオリーブオイルで丁寧に炒めた、最高級のゴキブリソテーみたいな奴』。異議はない。ぴったりだもの。
彼はサードパパの前に立ち、とびきり――胸くその悪い――の笑顔を浮かべた。
「早くその不良品の脳味噌をどうにかしたらどうなんだ? ん? 台湾製のデジタル時計だってお前よりよっぽどまともに動く。ビョーキの兄を持つと本当に辛いね。あんたは家族の恥、パウディル家の汚点だよ」
ロブはせせら笑い「『汚点』って言葉の意味わかるかい?」とサードに意地悪く聞いた。
「お、おて……おてん?」
サードは視線を彷徨わせてロブに言われた言葉を繰り返した。
ロブはサードを指差し、底意地の悪い嘲りを隠そうともせずに笑った。サードパパもサードママもこの馬鹿を止めようとしない。それどころか彼らはロブが気の利いた冗談を言ったみたいに唇を緩ませている。私は堪り兼ねて口を開いた。
「あんたねぇ! お兄さんに向かって何て事を――」
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